そのやさしさがいちばんずるい



 じわじわと残暑の日々が続いたかと思いきや、急なひんやりとした外気に指先が冷えていくのを感じる。天気予報によると昨日の真夏に近い気温から一変、今日の温度は昨日の半分ぐらいになってしまうだとか。

「さ、っむ」

 いつも日焼け止めを塗るのが面倒くさくて着ていたカーディガンだけが頼りで、薄手のそれを指先までぐっと引っ張る。さすがにコートを着るまではないけれど、もう少し厚手のカーディガンとか、薄めのニットを着るとかしておけばよかった。それも早く衣替えをしなかった私のせいでもあるからなんとも言えないけど。

「おはよう、苗字さん」
「沢田くんだ、おはよう」
「なんか急に冷えてきちゃったよね、今朝急いで長袖のシャツ用意してもらっちゃった」
「わかる、急に秋になっちゃった」

 冷たい風に顔を顰めながら歩いていると、すぐそこの曲がり角からひょっこりと顔を出したのは沢田くんだった。そういえばこの辺りがお家だっけ。彼の周りは随分と賑やかで、話し声がこちらまで聞こえてくることも多々ある。確か、前にもこの辺りであの賑やかな集団を見かけた覚えがあった。

「そういえばさ、もうすぐ試験あるよね。苗字さんは勉強してる?」
「まあ、ぼちぼち。英語だけは苦手で後回しにしがちなんだ」
「すごくわかる、苦手なのってやる気出ないよね。家にいるとなんだかやる気起きなくて」
「沢田くんの家、すごく賑やかそうだもんね」
「いやあ、はは……、そ、そういえばさ!苗字さんって国語得意だったよね? よければここの範囲、教えてもらえないかな……?」

 新学期ということで現時点での実力を測るための試験が近づいており、沢田くんがバッグの中から取り出して指差したのは試験範囲のプリント。国語の中でも現代文の範囲で、どちらかといえば私の得意なジャンルだった。お願い! と両手を合わせて拝む沢田くんに、人に教えれるほどじゃ、と躊躇ってしまう。

「私よりも、獄寺くんの方が成績とかいいんじゃないかなあ」
「獄寺くんもイタリアから来たから国語とかは教えるの苦手みたいで、……試験前でほんとに申し訳ないんだけど、少しだけでもいいんだ……!」
「……えっと、……くしゅん、っ」
「! だ、大丈夫!?」

 立ち止まって話し込んでしまったからか、思ったよりも身体が冷えていてむずりとした寒気に身を縮ませた。風邪ひかないように今夜はお風呂ゆっくり入ろう、なんてぼんやりとしていると、私よりも慌てた様子の沢田くんが見えて思わず頬が緩んだ。

「ふ、ふふ、沢田くんってば慌てすぎ」
「だ、だって……!ごめん、俺がこんなとこで話し込んじゃったからだよね。本当にごめん、……あ、そうだ、これ使って?」

 ふわり、花のような香りが漂う。背中から掛けられたそれは、おそらく柔軟剤であろうやさしくて甘い香りのするカーディガン。きっと沢田くんが防寒のために持ってきたはずのそれに、使えないよと返そうとするも絶対に着て!と強く言われては好意を無碍にはできない。

「女の子は冷やすと良くないって聞いたことあるし、今日はそれ着ててよ」
「で、でも、ほんとにいいの……?」
「大丈夫、俺実はちょっと暑がりだし」
「……ありがとう」

 袖をきちんと通すと指先が少し出るぐらいの長さで、私よりも少し背の高い程の沢田くんが男の子であることを急に感じる。ほんとはさっき、ほんの少しだけ触れた指先が冷えていたことも、並んだ時に私より歩幅が少し大きなことも、急に意識し始めてしまったらもう、止まらなくなってしまう。少しだけ、ほんの少しだけ自惚れてもいいなら、

「……勉強、少しだけなら大丈夫だよ」
「え、ほ、本当? ありがとう、めちゃくちゃ嬉しい!」
「その代わり、……二人きり、でいいなら」

 段々と小さくなっていく言葉と、逸らしてしまう目線が自信のなさを表しているようで嫌になる。でも、仕方ないじゃないか。だって本当にたった今、彼のことが気になり始めてしまったのだから。私なりに頑張ったこの条件提示は、沢田くんからしたら別にどうってことないことかもしれない。そう思うと反応が怖くて、意味もなく靴の先っぽを見つめてしまう。

「え、っと、……そのつもりだった、って言ったら迷惑かな?」

 やさしくて柔らかで、けれど少し熱を帯びた言葉が溢れた。勢いよく顔をあげると、染まった頬を隠すかのように手で口元あたりを覆う姿が目に入って、釣られて私の顔は林檎のように熟れていく。

「と、とりあえず!学校!行こうか!」
「そ、そそうだね!」

 お互いにぎこちなく前を向き、一人分ほどの距離を保ちながら通学路を再び歩き出す。歩幅は違うはずなのに、歩くスピードはほぼ同じ。合わせてくれている、そう気がつくのに時間はあまりかからなくて、少しずつ淡い色をした考えが頭をよぎっては埋め尽くしていった。この感情に名前がつく日は、きっとすぐにやってくるだろう。

20221023


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