或る夜のはじまり



 月明かりが僅かに照らす室内、疲れているはずなのに瞼はなかなか重くなってくれず、毛布にくるまること早一時間。ベッドサイドに置かれたままのココアは随分と冷めきっていて、もぞりと寝返りを打つと足先が毛布から出てしまい酷く冷えた。

「……眠れない」

 誰もが寝静まる丑三つ時。窓越しにいくつか執務室の明かりがついているのが見え、今日も遅くまでご苦労様です、と心の中で右腕の彼や優しいボスに敬礼した。そっと枕元のライトをつけ、もこもこでお気に入りのスリッパに足を運ぶ。寝る前に放ったままの上着を身に付け、携帯の明かりを頼りに重厚なドアを開けて仄暗い廊下を歩き出した。

「おい、こんな時間に何やってんだ」
「うわ、っ……びっくりした、獄寺くんか」

 背後から掛けられた声に飛び跳ねてしまいそうなほど驚くと、不機嫌そうに少し隈のある顔でこちらを見る獄寺くんが廊下の灯りにゆらりと照らされていた。休憩時間だろうか、スーツを少し着崩しシャツのボタンを緩める姿は少し艶めかしい。遅くまでお仕事ご苦労様です、と軽くお辞儀をすると、いつものことだと苦笑い。大変そうだ。

「ちょっと眠れなくて、作ってたココアは冷めちゃったしお茶でもいれようかなって」
「お前明日も仕事あるだろ」
「うん、だから眠る為にも体を温めてみようかなと」
「ハァ、……しゃーねえ、付き合う」
「え、いや、申し訳ないよ」
「俺が飲みたくなったんだよ。それにほら、えーと、……お前、元茶道部だし茶いれるのとか上手いんだろ?」
「別に普通だよ?」
「……いーから早くしろ」

 そう言うと、獄寺くんは僅かに染まった耳元を隠すように、髪の毛を片手でぐしゃりと乱しながら歩き出す。勿論向かう先は給湯室付きの休憩室。たしか先週風紀財団から差し入れて貰った良い茶葉があるから、あれをいれてみようか。お茶汲みが上手い自信は別にないけれど、せっかくお願いされたなら気合を入れましょう。

「あ、折角だからお茶菓子も少し食べる? 夜食にも丁度いいし、甘いものは疲れにも効くよ」
「……休憩、三十分だけな」
「了解、ちょっと待っててね」

 この前買った和三盆のカステラが丁度いいかな、少し渋めのお茶と相性抜群のはず。不思議と先程までの眠れなかったことによる不安や、部屋に一人でいる寂しさは薄れていて、忙しい合間を縫って構ってくれる獄寺くんの優しさで胸が温かくなった。お盆に二人分のお茶セットを用意し、湯呑みを机に置いてからゆっくりと急須を傾ける。

「はい、お待たせ。どうぞ」
「ん、……うまいな」
「ふふ、それは良かった」
「……なあ、名前。お前、一人で寝るの苦手だろ」

 さあ私もとカステラを一口。優しい甘さが広がり思わず笑みが溢れた。そしてもう一口、と動かした手は、急に投げかけられた質問にぴたりと止まった。一人で寝るのが苦手、実は、その通りだ。昔から実家で暮らしていたため、ここイタリアに来てから一人部屋で暮らす生活は正直まだ慣れない。言語や習慣はともかく、睡眠環境だけはどうしてもうまくいかず、快眠グッズを買い漁るのが日常的になっていたところである。

「え、っと、……どうしてそんなこと聞くの?」
「隈、最近特に酷ぇぞ」
「……獄寺くんには、言われたくはないかも」

 目を逸らしながらそう言うと、むっとした表情を浮かべたまま頬をむにっと掴まれて伸ばされた。地味に痛いのでやめてほしい。

「そこで、提案なんだけどよ」
「ひゃい、……なに?」
「俺と同じ部屋で寝ねぇか?」
「……? え?」
「最近俺も寝付きが悪ぃんだ。お前子供体温だしあったけえだろ?俺はお前の体温で眠くなるし、お前は人がそばにいるから寝れる。ウィンウィンだろーが」

 ようやく解放された少しひりつく頬を抑えながら、目の前の男から発された言葉を脳内で復唱する。同じ部屋で、寝る、とは。だがしかし、私もここ数日の睡眠不足が著しく、そろそろ日中の仕事に支障をきたしてもおかしくないレベルにまで来ている。それはきっと獄寺くんも同じで、彼から下心なんて感じたことはないし、私よりもずっと濃い目の下の隈が正気でないことを物語っていた。つまりは、二人ともあまりにも疲労が溜まっていたのだ。

「のった」
「よし」

 お茶とカステラを完食すると、二人並んで廊下を歩き出す。スリッパのパタパタと言う音と、革靴のコツコツという音が不釣り合いでなんだか笑えた。獄寺くんの今日の業務はあと少しで終了予定のため、執務室に立ち寄って手伝ったのちに就寝だ。どう考えても年頃の二人がすることではないが、深夜のこの時間帯に止められる人なんて誰もいない。正気じゃない私たちが目を覚ました後どんな反応をするかは、明日の私たちと神のみぞ知る。

20220827
続くかもしれない


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