夜の帷が下りた頃に


 六道さんが言っていた待ち合わせ場所は、黒曜のはずれの方にある小さな図書館。並盛にほど近いそこは、私の家からは比較的近い場所だった。学校が終わると足早に教室を出て、時計を気にしながら不安と少しの期待を胸に目的地へと向かう。
 時刻は十七時をまわり、日が暮れてくる時間帯。窓から差し込む陽の光が、木目調の机を淡い橙色に染めている。閉館まで一時間を切った平日の館内は、人もまばらで静けさに満ちていた。

「あの、……貴女が、名前……?」

 奥の方にある椅子に腰掛け、たまたま目に留まった料理本のページをめくっていると、少し眩しかった西陽が遮られて影が伸びる。小柄な背丈、少し丸まった背中、可愛らしい鈴のような声。顔を上げると、まあるく大きな瞳が不安げに揺れ、おずおずとした様子の女の子と視線が合った。

「……もしかして、凪……さん?」
「クローム、……と呼んで」

 深緑の黒曜の制服に身を包んだ彼女、クロームさんは、初めて会うはずなのにどこか懐かしさがあって。彼に似ている髪型のせいなのか、醸し出す雰囲気が似ているのか。艶々とした藍色の髪が最後にこの目で見た彼の後ろ姿を彷彿とさせて、少しだけあの日の痛みを思い出した。
 彼女と会うように伝えてきた後、六道さんとの逢瀬は一度もなかった。毎日では無かったとはいえ、こんなに間が空くのは初めてのこと。少し不安になりつつも、ただ、どうか何事もありませんようにと無事を祈るしかなくて。

「……大丈夫? 顔色、少し悪いけれど」
「大丈夫、です。……早歩きで来たから、少し疲れが出ちゃったのかもしれません」

 貴女に会えるの、楽しみだったから。そう続けると、クロームさんは嬉しそうに微かに頬を染めた。二人の間に差す夕焼けの色が、あたたかく靡いて揺れる。一人分の間を空けて隣に座った彼女は、近くで見ると背丈はほど近いようだった。
 話してみると、彼女は私と同じ歳ということがすぐにわかった。学校は違えど同学年の女の子、話し始めたら仲良くなるのに時間はあまりかからなくて。自然と「名前」「クロームちゃん」と親しげな呼び方になり、閉館十分前のアナウンスが流れるまで、時間の流れに気が付かないほどに話し込んでしまって。お別れが寂しくなるぐらい、クロームちゃんという新たな友達ができたことがとても嬉しかった。

「クロームちゃん、また会おうね」
「うん、……ありがとう、名前」

 図書館を出てすぐ、黒曜方面と並盛方面へそれぞれ帰る為、名残惜しいけれど別れを告げる。小さく手のひらを振る姿に、今度は花ちゃんや京子ちゃん達にも紹介したいな、なんて楽しみができて笑みが溢れた。
 空は既に薄暗くなってきていて、夕陽と夜更けが混じり合っていく。ひときわ大きな雲が流れてきて陽の光を遮り、まだ街灯がまばらな道を暗くした。

「名前」

 背後から聞こえた声に、歩き出していた足が止まる。私の名前を呼ぶ声。後ろにいるのは、先程別れたばかりのクロームちゃんで、声も彼女のものだった。その距離はまだ数メートル程しかなくて、まだ振り返ればその姿はよく見えるはず。けれど、どうしてかな。本当にあり得ないはずなのに、彼が、私を呼んだような気がして。

「……六道、さん?」

 微かに唇を震わせながら、小さくその名を呟く。太陽はその姿を隠し、あたりには静けさと仄暗い闇が住宅地を包み込んでいて。あの日の、黒曜での出来事がフラッシュバックする。彼に再開したのも、こんな風に暗い、夜の帷が下りた頃だった。
 革靴がアスファルトを鳴らしながら、一歩ずつ着実に私へと近づいて来る。それはクロームちゃんのはずなのに、どうしてこんなにも緊張してしまうのだろうか。はやる心臓を抑えながら、深く息を吐く。靴音が近づき、あと少しで、振り返れば手の届く距離。そう確信して振り返ろうとしたその時、華奢なあの腕の見た目からは想像できない強さで引き寄せられ、ぐっとその腕の中に抱え込まれた。

「えっ、ク、クロームちゃん……?」
「……そのまま、振り向かないでください」

 クロームちゃんの声が、少し低い声色で耳元に響く。あまり身長差がない為か、声と共に呼吸まで聞こえてきそうなほどにその距離は近い。
 無言のまま、ただその場で二人の呼吸が落ちていく。初対面のはずなのに居心地が良かったのも、彼女に六道さんの面影を感じたのも、きっと気のせいじゃないって。そう思いたいのに、微かに震える回された腕を見ると、核心をつく言葉はどうしても言葉に出せなかった。口調だって、声色だって、先程までとは明らかに違ったはずなのに。
 もう一度だけ、と言うかのように少し痛いぐらいに抱き寄せられて、この時間を惜しむように後ろ髪を優しく指先がなぞる。クロームちゃんから伝わる低めだけれど優しい温度は、廃墟で触れたあの日の彼の体温によく似ていた。

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