甘いシャンプーの行方

 窓から風が通り抜け、さわやかな甘みのある香りがふわりと鼻をくすぐる。窓際から香るそれはいつも良い香りだと頭の隅で思っていた。学校近くの果実か何かの香りだろうか、はたまたどこかの家の洗剤の香りか。この席になってからずっと、無性に気になっている。

「獄寺くん、今日日直だって。よろしくね」
「…おう」

 隣の席のよくわからねェ女。確か名前は、苗字。ほぼ話したことがないから実態が掴めない。大人しそうな小柄なやつ。背が俺よりも低いから黒板消しやノート運びやらで俺の方が結局仕事を多くやる羽目になってしまうことが目に見えた。だりぃな、なんて思っていたら授業の初っ端から当てられた。ついてねェ。

「ありがとう、これはもう終わったからそっちお願いしてもいいかな」
「そっちの方が重いだろ、寄越せ」
「わ、力持ちなんだね、ありがとう」
「……こんくらいふつーだろ」

 しかし想像していたよりもコイツは仕事ができた。出来ないことは初めから任せてくるし、その分細かい仕事は自ら探して引き受ける。いつの間にかバランスよく分配されて動いたため予想よりも早く終わることが出来そうだった。見た目で侮っちゃいけねェってこういうことか。
 放課後のチャイムが鳴り、校舎内にいる生徒の数も既に疎ら。窓際の自分たちの席に二人並んで座り、俺は押しつけられたプリント綴じの仕事、苗字は日誌を書きお互いにさらさらと書き連ねる音とホチキスの無機質な音が響く。暖かなオレンジ色の光が差し込み、頭ひとつ分小さな姿を照らす。小さくて丸っこい文字を書く姿はなんだか小動物のように見えた。

「こっち終わったぞ」
「ごめんね、もう少し待ってて」

 プリントの束をざっくり重ねて机にまとめ、少し固まった肩を動かす。手持ち無沙汰になってしまった、暇だ。手伝えることも別にない。なんとなく苗字の後ろの席の椅子を引き、真後ろに座る。吹き込む風がふわり、髪をいたずらに揺らす。目の前でゆらりと揺れる柔らかな陽だまりのような暖かさに、何故だか無性に触れたくなった。そっと触れてみると苗字の肩がぴくりと震えたが、何も言わずに日誌を書き進める様子を見て指先でくるりと髪の束を弄んでみる。少し細めの髪質、滑らかで柔らかい。触れるたびに鼻をくすぐる香りには覚えがあった。その答えを見出だし、思わず立ち上がって近寄る。

「あ、あの、獄寺くん…?」
「んだよ」
「そ、その何してるのかなって」
「気にすんな」
「えっ、無理、むりです」

 訴えかけを聞き流し、先程よりもずっと近くで寄るとむせ返るような、けれど心地が良く甘くふわりと真綿に包まれたような感覚に陥る香りを吸い込む。くらくら、酔ってしまったかのような、そんな気分。これは危険すぎる、離れなくては。そう思うのに髪をとかす手は止まらず、それに伴い甘い香りは辺りに揺蕩う。
 暫くそうしていた後、何かに惑わされたような感覚が急にぱちりと解け、正気を取り戻した。髪から手を離したことでこちらに振り返る苗字の真っ赤になっていた顔に気付いた。同じく熟れた林檎のように真っ赤に染まった自分の顔は固まったまま、上目遣いのようにこちらを見やる瞳と見つめ合う。とろりと蜂蜜のように溶けてしまいそうな瞳、目尻に溜まった雫はきらりと輝いてぽとり、落ちた。思わず吸い寄せられるように頬をするりと撫で、涙を拭ったところで我に返ってバッと離れる。

「…わ、わりぃ」
「う、ううん 大丈夫、だけど。…びっくりした」

 少し乱れた髪、未だ暑くじんわりと汗ばんだ手のひら。心臓の音が聞こえてるのではないかというぐらいバクバクと騒がしい。まだ、下の名前も覚えていない。それなのに、こんなにも目の前の存在が愛おしいだなんて。ほんの僅かな時間で、恋に落ちてしまっただなんて。そんなの有り得ない。そう言い聞かせる時点で既にもう遅いのだということに、初めての感情で精一杯の脳みそは全く反応してくれやしないのだ。
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