01:出会いの海



 どこまでも歩いて行けそうだと思った。
 生まれてはじめて目にする水平線の向こうに、太陽が沈もうとしていた。八月が終わりかけていても、この土地の日差しは容赦がない。日中無防備に外に出たらひどい目にあいそうで、この数日は夕暮れ時を待ってから外を散策している。
 吸い込まれそうな光景だった。空との境界線が曖昧になるほど遠く、先程からずっと目を奪われている。このまま時間を忘れて浸っていたいような空間に取り残されて、私は――。

「そこで死なれると迷惑なんですが」

 背後から、予想もしていなかった言葉が耳に飛び込んできた。
「――え?」
 思わず振り向いた視線の先に、一人の青年が立っていた。
「聞こえなかったんですか? 迷惑ですと言ったんですよ」
 苛立たしげに、けれど口調だけは丁寧なままで彼――眼鏡越しでも目つきが鋭いのがわかる――は繰り返した。私が聞いていないと思ったらしい。聞こえてはいた。ただ理解ができなかっただけで。死ぬ? 誰が?
「やれやれ……」
 はあ、と深くため息をついて、芝居がかった様子で彼はかぶりを振った。そんな仕草をしても前髪が少しも乱れない。どうやらよほどしっかりと固めてあるらしい。あまり見たことのない髪型をしていた。アンダーリムの細い眼鏡と合わさると不思議と彼によく似合っていて、似合っているからこそ……失礼ながらその、私の第一印象は「インテリヤクザもしくはマフィア」である。
 もしかして、これは絡まれているのだろうか。沖縄上陸一週間目にして初絡まれを体験した私は、とりあえずこの場から逃げる方法を考える。頭の回転スピードを人生最大まで上げた。
「あの、私べつに死ぬとかそういうあれでは」
「じゃあどういうつもりなんです? 誰もいない海岸で一人じっと動かず、そのまま海へ向かってふらふら足を突っ込んだら誰でも自殺を疑いますよ」
 果たしてそうだろうか? というか足を突っ込む?
「――あ」
 自分の足下を見てようやく気づく。いつの間にか足首より高い位置に水面があった。目の前の光景に見とれて、気づいたら前へ前へと進んでしまっていたらしい。なるほどその姿を見られていたのか。ようやく理解した。
 スカートの裾が海水に浸かってしまってはたまらない。あわててざぶざぶと砂浜へ戻る。さっきまで意識していなかったけれど、陸に上がるとずぶ濡れの靴の感触が気持ち悪い。足を踏み出す度にぐしゅ、と濡れた音がして海水が滲み出す。思わず表情をゆがめてうめいた。
「諦めましたか?」
 私の自殺(死ぬつもりなんてないけど)を止めてくれた、堅気じゃなさそうな男の人はまだそこにいた。どうやら絡んでいたのではなく親切から来る行動だったらしい。いや、でも「迷惑」とかなんとか言っていたような。
「ここは朝練でも使うんです。爽やかな朝に水死体と対面するのは御免被りたいですねぇ」
「すいしたい……」
 朝練という言葉に引っかかりを感じるが、更なるパワーワードに気を取られてしまう。打ち上げられた自分を想像して身震いした。縁起でもない。いや本当に。
「ですから、私本当に死のうとしていたわけじゃないんです」
「へえ?」
 目を眇めて皮肉気に笑う。その表情に一瞬心臓がはねた。片方の唇を上げる姿は、どう見ても私の言葉を信用していない。私の頭のてっぺんから濡れた足先まで、観察するような視線を感じた。
 す、と細められた瞳と目が合って、今まで感じたことのない感覚に襲われた。なにこれ。ぞくぞくする。
「海、海がすごく綺麗で、見とれちゃって、それでその」
「海? 別にいつもと変わらないでしょう?」
 まあ確かにうちなーの海はちゅらうみですけど、と私には理解できない単語を口にしている。
「それとも、海を見たことがない。なんて言うつもりですか?」
 呆れたように笑いながら彼は言う。
「一週間前に初めて見たので……」
「――――は?」
 その笑みが一瞬で消えて、ぽかんとした表情を浮かべる。そうしているとさっきよりも幼く見えるなあ、なんて私は見当外れのことを考えていた。
「待ちなさいよ。そんなわけがないでしょう。海を見たことない? 俺をからかってるんですか」
 とめどなく言い募る姿はどこか慌てているようにも見えた。腕組みをした指先が、二の腕の辺りをトントンと叩いている。
 どうやら私は彼を随分と困惑させてしまっているらしい。少し申し訳ないような気がしたけれども、残念ながら事実だった。私は一週間前この島へやってくるまで、肉眼で海というものを見たことがなかったのだ。
「引っ越す前にいた場所に海がなくて。旅行に行くような家庭でもなかったし――学校の旅行は山にばっかり連れて行かれたし、臨海学校とか都市伝説だったし……」
「海が……ない……いえそうですね、そういう県があることは知識として知ってます。そこから越してきたんですか?」
「そうです……」
 どこか呆然とした様子で「海がない」と繰り返した彼は、しばらくじっと目を瞑って考え込むように黙り込んだ。そんなに衝撃を受けるようなことなのだろうか……まあ、私も沖縄の海を初めて目にした時には口と目を開けて黙って打ちのめされていたから、人のことは言えない。これがご当地ギャップというものなのだろう。多分。
「……引っ越してきたんですね。転校生?」
「そうです。あの、そこの比嘉中に」
 自殺志願者でも怪しい者でもないと、弁解するチャンスが来た。指差した先にはヤシの木が並ぶグラウンドと三階建ての校舎があった。この土地で私が通うことになる、私立比嘉中学校である。
 この前見学した時にもらった学校案内パンフレットには「美しい海に抱かれるように建つ比嘉中学校」と書かれていた。本当に文字通り海のすぐ傍に学校があって驚いたけれども。思わず私の通っていた学校から海までの距離を計算しようとして、すぐに諦めた。
「なんだ。同じじゃないですか」
 瞳を少しばかり見開いて、彼はそんなことを言った。
 同じ。何がだろう。まさか同じ学校って意味じゃないだろうし。だって目の前の彼はどう見たって年上で――あ。
「何を考えているのか大体わかりますよ」
 じろりと私を睨めつける視線に、身体だけでなく心臓まで縮み上がる。先程まで胸の前で組んでいた腕をほどくと、彼のシャツの左胸にあるのは「嘉」の文字。パンフレットだけでなく、学校のあちこちで目にしたそれは、比嘉中学校の証だった。
「別にあなたが俺をいくつだと思おうがいいですけどね。俺は中学二年生です」
「にッ」
 もしかしたら高校の制服かもしれない。そんな予想は一瞬で消し飛ばされて、目の前の青年――少年だった――が同い年だということを、ようやく私は知ったのである。
「まさかの同い年でした……」
「おや、そうなんですか」
「はい……私も二年生です……」
 沖縄の中学生は大人っぽいんだなあ……。
 地元の同級生の顔ぶれが浮かんでは消えてゆく。
「同い年なのにどうして敬語なんです?」
 と、敬語で聞かれた。
「え、だって」
「俺のこれは、いつもこういう喋り方なだけです。あなたもそうなんですか?」
 まさか正直に「怖い人に話しかけられたと思ったから敬語で喋っていた」と言えるはずもなかった。
「……なるほどね」
「何も言っていないのに!」
「顔が言ってるんですよ」
「顔」
 一体私がどんな顔をしたというのか。聞いてみたいような聞くのが怖いような。でも先に失礼なことを考えてしまったのは私の方だった。何を言われようと文句があるわけもない。
「じゃあ、あの……普通の同級生と話す感じでいいで……いい、かな」
「好きにしたら」
「……うん」
「……」
 二人揃って無言になった空間に、波の音だけが響いている。気まずい。どうしていいかわからず、とりあえず視線を海の方へと向ける。太陽はもうほとんど沈みかけていた。夕暮れと夜空の境目がとても綺麗だ。
「……ほんと、きれいな海だね」
 思わず口をついて出たそれは本心だ。
「気に入りましたか」
「すごく」
「そうですか」
 口調は素っ気ない。でも表情が柔らかくなって、彼もこの海が好きなんだということがわかる。
「ニライカナイに通じてますからね」
 聞き慣れない単語がまた聞こえた。思わず彼の顔を見上げると、眼鏡のレンズに空の色が溶け込んでいた。その奥の瞳は今は見えない。
「……なんでもありません」
 どう答えたものか迷っていると、彼は息を漏らすみたいにして笑う。
「早く帰った方がいいですよ」
 この空間から離れがたい気持ちもあったけれど、確かにそろそろ暗くなってしまう。家に帰らないと。母には「少しそのあたりを散歩してくる」とだけ告げて出てきてしまったのだ。放任主義の塊のような人だけど、流石に引っ越して来たばかりの土地だし。
「そうだね……それじゃあ」
 彼も比嘉中の生徒だと言っていた。おそらく数日後、二学期が始まれば顔を合わせることもあるだろう。もし会ったらよろしくね、とかなんとか。うまく言えない挨拶を口の中でもごもごと転がして、ビーチと歩道を繋ぐ階段へと足を進め――踏み出した足を止めた。
 どうとでもなれ、と思いながら口を開く。
「――あの!」
 振り向いた先にはまだ彼が立っていて、私の方を見つめていた。
 慣れない砂浜の感触に足を取られないように気をつけて、彼の元へと戻る。
「まだ何か?」
 私が言おうとしていることを悟っているのかいないのか、おかしそうな表情で挑むみたいな目つきをされた。きっとさっきまでならその目に怯んで、なんでもないですと逃げ帰っていた。でも今は。
 眼鏡越しの瞳を見つめながら、自分の名前を告げる。
「……あなたは?」
 名前が知りたいと誰かに言ったのは初めてだった。
 私の言葉をどう受け止めたのか、彼は小さく息を飲む。一瞬の後、表情を緩めると唇を薄く開いた。

「――木手永四郎ですよ」

 木手永四郎。
 生涯忘れられない名前を、私はこの日手に入れた。

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