日吉くんが、なんだかおかしい。前から薄々と感じていた、日吉くんが苦しそうに私を見つめている感じ。それが、一気に強くなった気がした。「名前さん」切なそうに名前を呼ばれて、壊れ物を扱うみたいに私に恐る恐る触れる。だけれども、私に沢山触りたがるようになった気がする。私は日吉くんの変化には敏感だ。日吉くんは何事もなかったように振る舞うけど、最近の日吉くんは不安定だ、ちょうど、中学生だった日吉くんが部長を継いだ、あの時と同じように。いや、それよりももっと酷い気がする、それもあくまでも予感であるのだけれども。私といつもと変わらず一緒にいるのに、遠くに感じる。日吉くんが、遠い。でも、私は何故日吉くんをそう感じるかは全く分からない。日吉くんの変化には敏感だって、理由がわからなければただの無力だ。日吉くんが私に隠して普通に接してくる限り、私にはなにも出来ない。私は、嘘物の笑顔をくれる日吉くんの隣で、笑うことしか出来ないのだ。



「ねえ、ひよ」



桜は週末の雨で簡単にも散ってしまった。先週まではいつもと変わらない日吉くんと桜に囲まれて過ごしていたというのに。なんだか私たちが少しぎこちなくなるのと同じくして花びらが消えていって地面に落ちてしまうのが、なんだか嫌な種類の気持ちが胸のあたりをぐるぐると巡った。
昼休み、いつもみたいにふたりで中庭でお弁当を食べていた。それなのにぎこちなさをどこかしらに感じてしまう。なんですか、そう返した日吉くんは、気持ちがここにいないみたいだ。どうかしたの、その一言だけがどうしても出てこなかった。「ううん、なんでもないや」なんでもなかった振りをしてへらり、と笑う。多分、聞いても日吉くんは答えてくれないと思った。ずっと一緒にいた私だけど、日吉くんの気持ちはなかなかわからない。今まは感じたことのない気持ちが少しずつ芽生えてる、日吉くんは、近くにいるのに、遠い。


「名前さん」

「なに」


私が話せないで言い淀んでいるうちに、今度は日吉くんが口を開いた。


「あの、部活待つの、やっぱり図書室にしてくれませんか」

「え」

「教室じゃなくて」

「な、なんで」

「アンタに見られてると、イマイチ調子が出ない」


言われた言葉がよく解らなかった。言語処理能力が著しく低下してしまったみたいに。いや、多分、あまりにも聞きたくない言葉だったので、聞こえていたし、意味も理解出来たはずなのだが、きちんと咀嚼できなかった。言葉に詰まった私に対して、日吉くんは改めて言う「もう、教室にいるの止めてください」。


「そっか、うん、分かった。そうする、ね」


本当は、なんで、とか、どうして、とか、言いたいことは沢山あったのだけれど。そう言った日吉くんの表情が悲しそうで苦しそうで、私はなにも言えなかった。いや、違う。多分、それは偽善だ。本当は、ここで私がしつこく日吉くんに迫ったり問い詰めたりすることで、日吉くんに嫌われたらどうしようって気持ちがいっぱいで、私は聞き分けのいい子の振りをした。私の方が日吉くんより年上だし、きちんと大人でいなくちゃ。日吉くんを困らせたくない、だから、自分の気持ちくらいいくらでも隠す、なんて言うのはただの建前で、臆病だからいつも私は言葉を飲み込む。


「そうです、か」


そういえば、日吉くんと徐々に噛み合わなくなってきたのって、私が放課後教室にいたいって我が儘を言ってからかもしれない。その時から、日吉くんの表面化しない、内側の感情が大きく揺れ動いてる気がした。だから、私が図書室にいるようにすれば、元に戻ると思ったのに。私が図書室で待つと言ったのに、日吉くんの表情は晴れないで、むしろよりどんよりとした重たい雲に覆われた。雨が降りだしそうだ。
日吉くんと一緒にいて発生する沈黙は、お互いが黙っていても間にある空気が動いていて、それが日吉くんの存在を私に伝えて、苦痛でもなければ、むしろ心地の好いものなのに。今日は気体の重さが変わってしまったかのように沈黙の質量が増す。息がしずらくて、時間の一秒一秒が長くて。私たちはろくな会話も出来ないまま昼休みが終わるその時まで私たちを繋ぐ何かが変わっていくのを感じていた。日吉くんと一緒にいる時間を苦痛に思ったのは、これが初めてだった。


私の中にあるもやもやとした気持ちが、日々育っている気がする。私の人にはいえないような汚い気持ちを養分にして。からっぽになったお弁当箱の分以上に、身体は重たくなる。2年生校舎で日吉くんと別れてから、ホッと息をついた私に嫌悪感を覚えた。日吉くんのことは好き、それは変わらない。いや、変わっている、昨日よりも好きなんだ、なのに、日吉くんの隣に居心地の悪さを感じてしまった。好きが大きくなればなるほど、日吉くんに何かを伝えられなくなる。日吉くんに見放されるのが、怖いから。






数日が経った。
私は日吉くんに言われた通りに放課後は図書室で過ごした。手元にある本のページはいつまでも捲られない日々。日吉くんとは毎日一緒に帰っている。お昼も一緒に食べている。もう隣の距離に苦痛を感じることはなかったけれど、やはり前のような優しい空気もない。多分、周りから見れば変わらない仲睦まじい私達なんだと思う。
いつだったか、私が一人で職員室に向かった休み時間に、滝君とすれ違ったとき、(滝君とは中学のときに同じクラスになったことがあって、仲は良いんだ)「日吉となにかあったの?なんか、ぎこちなくない?」と聞かれた。滝君は昔から敏感な人だったので、私たちの変化に気がついたみたいだった。でも、私は「なんでもないよ」と返事をしておいた。日吉くんとうまく言ってないことを人に知られるのが嫌だった。第三者を通してしまえば、それが傷口を侵食していくみたいにリアルになってしまう気がしたから。
日吉くんとのこと、どうにかしなくちゃって思えば思うほど、道が塞がれている気がした。日吉くんに何も言えない、誰にも言えない。距離を置いた方がいいのかも知れないけれど、でも、日吉くんと離れてしまうのは嫌なんだ。気持ちが遠く感じるのに、物理的な距離までが開いてしまえば、私と日吉くんの間には何もなくなってしまうような気がした。どうしてだろう、私達はずっと、一緒にいて、何年も関係を築いてきたはずなのに。それが今はなかったものみたく脆く感じる。





「最近、名前上の空だよ、大丈夫?」

「うん、平気だよ」


クラスの女の子に心配されてしまった。移動教室だというのにノートを間違えて持ってきてしまった。取りに戻るから、先に行ってて、と友人と別れて教室に向かった。確かに、些細なミスが多く続いてる気がする。今までもたまにそんなことはあったけど、でも、それを今までは日吉くんが注意してくれたり、怒ったり、呆れたりしてくれてた。それがないから、私はどんどんダメな人になってしまっているのかな。






「あ、苗字」

私の教室、3年D組の前の廊下で名前を呼ばれたので、そちらをみたら、赤いおかっぱ。どうやら前授業の移動教室の帰りらしい向日くんだった。珍しい、彼が私に話しかけてくるなんて。私と彼は同じクラスにはなったことはない。ただ、日吉くんと忍足くんを通じて、お互い知ってはいるし、挨拶はする。話したこともあるけれど、その時は必ず私の横には日吉くんか忍足くんがいた。


「向日くん、なに?」

「あーあのさ、日吉の、ことなんだけど、なんか、あった?」


ドキッ、とした。喉が急に水分を失ったように渇いた。向日くんに、言われるとは思っていなかった。こうした言い方をしたら悪いかもしれないけれど、彼は空気に聡い方だとは思えなかったから。詰まった私に、向日くんは困ったように後頭部の髪を掻きあげながら続く言葉を探してた。


「…最近、日吉のやつ調子ワリィんだ」


それは則ち、テニスのことを指すのだろう。私の知らなかった事実を突き付けられて、私は喋ることを忘れた。テニスの調子が悪いって、私は日吉くんに言われて図書室にいるのに、なんで。「本当なら不調なんて誰にもあるけどさ、結構今日吉のやつ酷いもんで、交流試合も近いのに。だからお前に聞いとこうと思って」と向日くんは続けた。試合が近いのに上手くいかない、イコール、実力主義の氷帝においてはメンバーから外される可能性もある。それくらい、私だって知っていた。ぐらぐら、言葉どころか、息も上手くできなくなって足元が急に揺らいだ気がした。


「苗字、知らない」

「…あ、うん、ごめんね」

「そか、ならいいや。引き止めちまって悪かったな」

「ううん」

「日吉のやつ、気にかけてやって。まあ、言われなくても苗字なら大丈夫だろうけどな」


向日くんはそのまま、じゃあと手を軽く上げて、行ってしまった。赤い髪をした男の子が廊下を行く友人たちと合流するのを呆然と見ていた。私の知らないところで、事態は深刻化していた。日吉くんがおかしくなってしまった、原因は、なに。私は聞けない、理由を知ったら私は、日吉くんの傍にはいられなくなってしまうのが分かっていたから。「おい、苗字大丈夫か?」廊下に一人立ちすくんでいた私に気がついた、通りがかりの担任の先生に言われて弾かれたように現実に戻った。慌てて教室に帰りノートを取って、生物室へと向かう私に先生の笑い声と「走って転ぶなよー」とやる気のない声が聞こえた。走ることには注意はないのか。チャイムと同時にギリギリに生物室に着いた私を見て、友人は「ずいぶん遅かったね」と声をかけた。席につくときに、忍足くんと一瞬目があって、というより忍足くんが私を心配そうに見ていたのに気がついたのだけれど、私は直ぐに逸らすことしか出来なかった。


私はどこかで気がついていたのかもしれない。でも、気がつきたくなかったから現実から目を逸らしていたんだろう。忍足くんの訴える視線から逃げたみたいに。だから日吉くんになにも言うことも聞くこともできないでいるんだ。認めたくない認めたくない認めたくない。そんな自分勝手な思いだけが私の思考を支配した。
でも、人間逃げ続けることはできないのだ。向日くんに言われたその日の放課後、提出物を先生に届けて、友人と別れ、鞄を取りに教室に向かおうとした私を、呼び止める声に足を止める。


「苗字先輩、今から、ちょっといいですか」


後輩と思しき3人の女の子達に呼び止められた。嫌な予感はあった、けれど断る理由すら私にはない、だってこれから図書室で進まない本の同じページをずっと眺めているだけの時間だ。良くないことは重なる、私は彼女たちに呼ばれるがまま、屋上へとついて行った。


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