屋上から見える空はブルーグレーの薄い綺麗なグラデーションがかかっていて、春の新芽が芽生える柔らかく青い風が吹いていた。後輩の女の子3人と、私は向かい会うように対峙した。「先輩、単刀直入に言います」真ん中の肩までくらいの内巻きのボブをした、可愛いらしい女の子は口を開いた。聞かなくてもわかる、彼女たちがなにを言ってくるのか。


「先輩、日吉くんと、別れてください」


ほらね、なんて。心の中で呟いた。これは所謂呼び出しっていうやつだろう。日吉くんと長く付き合っている私だが、実は呼び出しはされたことがない。日吉くんが、こうした行為が一番嫌いなのを、日吉くんを好きな女の子は知っているから。あと、私と付き合ったときに、そういうことがないように、日吉くんが気をつけてくれたんだと思う。だから、憧れの対象である氷帝学園テニス部のレギュラーである日吉くんの恋人という立場にある私は、女の子からの標的にされたことがなかった。なのに、どうして、急に?


「日吉くん、最近、調子悪いんです、試合も、大会もあるのに」


このままじゃ、日吉くんはメンバーから外されちゃう。日吉くんは、跡部さんの後を継いで部長になるべき人なのに。そう話す真ん中の女の子の言葉は次第に切れ切れになって、大きくてぱっちりとした目には涙が浮かびはじめた。サイドにいる女の子たちは、真ん中の子を気遣うように背中を摩ったり、名前を呼んで言葉をかけた。


「私のクラスの、準レギュの子がいつも言ってるわ、」

「…なにを?」

「日吉くんが、調子悪くなるのは、苗字先輩の、せいだって」

「私の、」

「中学の、ときは、日吉くんはこんなんじゃなかった、」


ついに目から粒になった涙がこぼれ落ちて、嗚咽とともに女の子は泣き出した。泣きながら、「私は、中学のころから、日吉くんが好きで、ずっと、見てきてた。日吉くんの練習、だって、試合だって。だから、日吉くんのことなら、わかる。日吉くんが、好きだから」としゃくりあげて続けた。何よ、私だって、日吉くんを中学からずっと好きだったし、日吉くんのことだって、あなたより良く分かってるわって言いたかったけど、言えなかった。だって、私は、日吉くんの一番大事なテニスに関することはなんにも知らないのだ。日吉くんの調子が悪いことだって、向日くんはおろか、この女の子が知ってるのに、気がついていなかった。でも、それは、日吉くんが練習を見るなって言うから。


「大体、先輩は、日吉くんになにをしてあげて、るんですかっ」

「なにって、」

「宍戸先輩の彼女は、毎日、練習を応援したり、試合にも必ずきて、宍戸先輩を、支えてて。でも、苗字先輩は、来たことすら、ないじゃないですか!」


だって、それは、日吉くんが来るなって言うからで。私だって、本当は行きたい、日吉くんを応援したい。あなたよりも、ずっと、日吉くんを応援したいのに、なにも知らないくせに。

「先輩には、なんにもっ、ないじゃないですか」

「…」

「日吉くんには、沢山ある、テニスも、ほかにも、沢山っ!」

「…」

「先輩にはなにもない、こんなの、日吉くんには相応しくないっ、先輩が、日吉くんの恋人、だなんて、許せないっ!」

「…」

「先輩が、日吉くんをダメにしてるんだわ!」


何も、言い返せなかった。空は晴天、女の子は雨が降ったかのように泣いていて、私はただそこにいるだけ。そう、そこにいるだけ。泣き崩れた女の子が、屋上のコンクリートにしゃがみ込むのを他人事のように眺めた。付き添いの子たちが、私を批難するがごとく、睨んだ。膝から下の感覚が曖昧になって、自分が今立っているのかもよく分からない。泣き声の後ろに、部活が始まったのだろう、運動部の掛け声が遠く聞こえた。私は、息を上手く吸えてる?分からない、怖くて、怖くなって、自分の感覚がすべて逃げたしてしまったかのようで、私を止める声を振り切り、私は屋上から逃げ出した。



走った、廊下にはもう部活が始まったからか、疎らにしか人がいない。クラリネットを抱えた吹奏楽部の生徒が、駆け抜けた私を驚いて振り返る。だが構わず走った。私は、気づいていた。日吉くんが、最近おかしかった理由、遠くに感じた理由。それを、どうして日吉くんに聞けなかったのか、それは、その答えを知っていたから。私が、原因だって、知っていた、だから私は、聞けなかったんだ。


屋上から階段を駆け降りて、教室に向かった。帰宅部な私の息は直ぐに切れてしまった。もう、今日は日吉くんには会えない、だって今の私はぐちゃぐちゃだ。こんな姿を見られたら、日吉くんに嫌われてしまう。教室に置きっぱなしの鞄を取りに行く。部活所属者がほとんどの私のクラスに人はいないはず、だったのに。3年D組の扉を開けたら、そこには、忍足くんがいた。


「…はぁっ、忍足、くん!」

「うわ、びっくりしたわー。なに、なんで苗字そんな慌てとんの」

「いや、なんで、忍足くんが、部活は?」

「ああ、俺、医学部志望やん?」


内部進学でも医学部は試験が別にあるさかい、それについてせんせに資料貰ってたんや。部活には遅れるて跡部には言うとるよ。忍足くんはそう言った。「そっか、医学部は大変だね」まだ荒い息を整えながら、必死で笑顔を取り繕った。忍足くんは鋭い人だから、きっと直ぐに悟ってしまうだろうから。滝君の時と同じ、日吉くんとのこの妙な空気を他人に悟られることで、それをはっきりと自覚してしまうのが怖かったから、私はなかったことにする。自分の席に凭れかかっていた忍足くんは、私のことを窺うようにじっと見つめてきた。すべてを見透かすような目、今の私には強い眼光。


「ちゅうのは、半分嘘」

「?、うそ」

「先生に会うてたんはホンマ」

「うん?」

「それは直ぐに終わったんや、したら、教室にまだ自分の鞄があった、やから待っててん」


忍足くんはふわりと笑った。窓際に立つ忍足くん越しに見た空の向こうは、少しずつに赤く染まりはじめた。忍足くんが、待ってた、私を?生物室の、忍足くんのなにか言いたげな視線を思い出して、私の視線は泳いだ。一歩、一歩と忍足くんは、私に近づく。次第に整ってきた息を、私は飲み込んだ。


「苗字、朝から酷い顔しとる」

「してない」

「隠さんでも、ええんやで」


私の中にある、深く根付いた気持ちに、忍足君はそっと触れようとする。引っ張り出そうとする。それは私がずっと秘め続けていたひとには知られてはいけない感情。暴かれるのは怖い、厭だ、私は首を振って、忍足君を拒絶した。


「ダメ、だって、言ったら、壊れちゃう」

「先に苗字が壊れてまうよ」

「ダメ、言ったら、嫌われちゃう」

「誰が苗字を嫌うん」

「私は、なんにもできないから」

「苗字はええ子や、ホンマ」


日吉くんよりも幾分か背の高い忍足くんが、私に手を伸ばした。日吉くんよりも少し大きくて、でもラケットのまめだらけの感触の似た手が、私の頭をポンポンと撫でた。途端に、何かが弾けて目頭が熱くなった。


「ええ子、ええ子やね」

「う、あ…お、おしたり、くんっ」

「よく、頑張ったな」

「おし、たり、くん…っひっく、」

「誰もこんなええ子、嫌ったりせんよ」

「うわーんっ」


きっと、忍足くんは全てを知ってるのかも知れない。温かな手が、あまりにも優しく私の頭を撫でるものだから、私の中のもやもやが、ドロドロとした気持ちが、目から涙になって溢れ出た。次から次へと出てきて、透明にな涙は頬を伝って床に落ちて染みを作った。


塞きを切ったみたいに、ダムが決壊したみたいに涙は止まらなくて、しゃくりあげながら私は子供のように泣いた。教室の入口で馬鹿みたいに。ふたりの距離は開いていて、それでも忍足くんはずっと頭を撫でていてくれた。私は本当は知っていた。日吉くんを困らせているのは私。日吉くんの傍にいてなにもできないのは私。なのに動くことすら出来ないでいるのは臆病な私。日吉くんに嫌われたくなくて、ずっと気持ちを抑えてごまかして、隠してきた。大人な振りをして。だってこんな風に泣いたら、きっと日吉くんはもっと困って、私を重荷に感じてしまうだろうから。

日吉くんのことを近くて見ていられるあの、自分の気持ちを素直に出せる女の子に嫉妬した。可愛らしい女の子。本当は、私が一番日吉くんを見ていたいのに、それもできない。もどかしくて、ドロドロとした汚い気持ちだけが胸の中で大きくなる。こんなの、日吉くんには見せられやしない。


「わ、っ、私は、ひよの、こと、邪魔してるっ、ひよの、こと、困らせてるっ、」

「んなことあらへん、苗字は、日吉の彼女やろ」

「でも、ひよは、私を試合に、呼んでくれない、いつも、気が、散るって」

「理由があるんや、日吉にも」

「でも、現に、ひよのテニスを、私は邪魔してるのっ、」

「苗字…」

「私は、ひよの、彼女でいて、いいのっ…!?」


渦巻いていた感情が、言葉になって、涙になって忍足くんに拾われた。相槌をうちながら、忍足くんは私の醜い感情を飲み込んだ。そういえば、こうして泣くのって、いつぶりにだろうか。もう随分と泣いていない気がする。私がすべてを話して落ち着くまで、忍足くんはそばにいてくれた。忍足くんの耳に残る低い声は、私を酷く安心させてくれた。泣きはらした瞼は鏡を見なくても真っ赤になって腫れていることは明確で、その証拠に、私の顔をみて忍足くんはおかしそうに吹き出した。女の子の顔を見て吹き出すって酷い。忍足くんをねめつけると、彼は私の髪の毛をくしゃりとなでたら「さっきよりもよっぽどええ顔」しとる」って意地悪に笑って言った。つられて私も笑ってしまった。こうして、誰かに受け止めて貰えるのは、久しぶりな気がする。
今日、久しぶり、呼吸がまともに出来た気がした。



優しい嘘は傷をつくる

空の赤色の面積が広がる。
それは塗り込められた私の上辺だけの心をとかしていくみたいに。

20100428

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