愛、故に
彼はいつでも頼りになる存在だった。どんな困難にも適切に対処し、先手を読み、決して冷静さを失うことのない人だった。
そんな彼が今、こちらを抱き締めたまま、初めてその弱さを曝け出している。
「クラウドは、自分の最も大切なものを見付け、確認して来いと言った。そして……再度飛空艇に戻るかは自分の意思で決めてくれと、そうも言っていた」
「……でも、私達は、お互いに一番大切な存在を見付けて、再確認できました。だから――」
「私はお前を失うことが怖いのだ」
そう言って彼は一層強く、こちらの身体を抱き締めた。彼の身体が震えていた。
「私はここに居ます、ヴィンセントさん」
彼をなだめるようにして、その背中をそっとなぞった。優しくトントンと手を添えながら、彼の不安が少しでも解消されることを願った。しかし、今の彼には、こんな気休めは通用しないであろうことも、心のどこかでわかってもいた。
「覚えているか? 神羅屋敷でイリスに聞いたことを。先へ進まず、この場に残るのも手だと、進むならば相応の覚悟が必要だと、そう言った」
「覚えてます」
「覚悟が足りなかったのはイリスではなかった……私の方だったのかもしれない」
彼の心は、かつてないほど闇に呑まれそうになっていた。宝条との戦いを経てからの彼は、その前後と比べても、明らかに弱りきってしまっているように見えた。
「もう一度同じことを聞くが……イリス、セフィロスとの戦いをすることも、この場に残ることも、どちらも選択肢だ。メテオが落ちてくる残り7日……いや、6日間をここで過ごすこともできる」
「ヴィンセントさんの気持ちは、とっても嬉しいです。ヴィンセントさんはいつだって私のことを最優先に考えてくれていて……今だって、私に選択させてくれているんですよね、きっと」
彼と視線を合わせようと身体を離そうとしたが、彼はそれをさせなかった。その表情を見られたくないのか、頑なに抱き締め合ったままの状態で話を続けている。
「それに、きっとヴィンセントさんはもう、私の答えも知っていると思うんです。私はセフィロスさんと対峙します。私自身が先に進むためにも、セフィロスさんと決別しなくてはいけないんです。……だから、残るという選択肢はありません」
「……ああ」
彼もきっと、自分が何と答えるのかわかっていた様子だった。それでも、先へ進むと答えた瞬間に、彼の身体が一層強張ったのを感じた。
「……ヴィンセントさん、?」
「宝条にとどめを刺す前に、お前を救う方法を問ただそうとした」
彼の声が耳元で静かに響いていた。自分が意識を失ってしまっている間にも、彼は自分のために尽力してくれていたのだと、改めて認識させられる。
それでも、彼の言葉の続きが読めてしまっている自分がいた。
「お前の中の魔晄は常に放出され続けていると、そう言っていた」
「ルクレツィアさんも、そう仰っていましたもんね」
「……お前は今、セフィロスに渡されたその腕輪によって、魔晄の放出を抑えられているに過ぎない。いつその力が尽きるか……それもわからない。そんな状態でセフィロスに対峙したらどうなるのか、誰にもわからない」
彼の言わんとしていることはわかっていた。ニブルヘイムの神羅屋敷で自分の出生を知った時から、自分の命がそう長くはないということも、理解をしているつもりだった。
彼に、覚悟はあるのかと、そう聞かれたときにも、揺るがない覚悟を持っていたはずだった。もとより実験室の中で落としてしまうはずだった命なのだ。こうして仲間と共に旅を続け、愛する人と結ばれ、これ以上の幸せはないと、そんなことさえ思っていた。
「わかっています。わかってるんです……でも……」
目の前の彼が、こんなにも自分の死を恐れている。そのことだけが、自分の中での唯一の想定外だった。こんなにもお互いを愛し合うことになるなど、思ってもいなかった。
彼を置いて自分が死にゆくことが恐ろしい。また彼を独りにしてしまうことが恐ろしい。自分の死よりも、遥かに恐ろしい。
「ヴィンセントさんと、離れたくないです……やっぱり、死にたくなんてない……」
突如込み上げてきた涙で、彼のマントを濡らしてしまった。
彼を置いて死にたくはない。彼を独りにしたくはない。彼に罪悪感を抱かせることも、またあの薄暗い地下の棺桶の中で、終わりのない悪夢を見せることもしたくはない。
「ヴィンセントさんを置いていくことが、何よりも怖いです。本当に、何よりも……。自分が死ぬことよりも、もっと恐ろしい、ヴィンセントさんに独りになってほしくない、」
「イリス、」
彼はようやく抱き締めていた腕を解き、視線を合わせた。滲む視界に、彼の瞳も潤んでいるように見えた。
「私は、命に代えてもお前を護ると、そう誓った。イリスを護る、最後の日まで」
きっと彼にも確証などなかった。それでも、彼がそう言えば、本当のことになるような気がした。
最後の日、それがいつになるのかは、自分達の手にかかっている。セフィロスを倒すことができなければ、6日後が人類にとっての最後の日になってしまう。
セフィロスを倒すことができ、メテオの衝突を食い止めることができれば、きっとその最後の日は延びることになる。それでも、自分がいつまで生きられるのかはわからない。彼はきっと、そのことを危惧しているのだ。
セフィロスとの戦いがどのような結果に終わろうとも、自分が延命することには繋がらないのだ。
「ヴィンセントさん、」
「……」
彼がこんなにも人間らしい表情を見せるのは初めてのことのような気がした。仲間からは冷徹な人間だと思われているのかもしれない。そんな仲間に、今の彼の表情を見せたいと言えば、きっと彼は拗ねてしまうのだろうと、そんなことを考えていた。
「前にも言ったと思うんですけれど、私を、最後まで置いていかないでほしいんです。セフィロスさんのところまで、最後の戦いまで、私を連れて行ってほしいんです」
「ああ、わかっている」
「それから……」
今度は自分が、彼の手を両手で取って、視線を合わせながら言葉を紡ぐ。まるで愛の告白をするときのような緊張さえ感じてしまう。
それは、叶うことがわからないからだろうか。叶えば良いのにと願う一方で、叶わないことをどこかで知ってしまっているからだろうか。
「セフィロスさんを止めることができて、メテオの衝突も食い止めることができて、全部が元通りになって……そうしたら、」
声が震えてしまわないように、喉の奥に力を込めた。涙が零れてしまわないように、眉間に皺を寄せて、きっとひどい顔をしているに違いない。
「そうしたら、またここに二人で戻って来ましょう、ね」
「……ああ。ああ、もちろんだ」
エアリスの生まれたこの家に。二人で同じ鍵を首から下げているこの家に。思い出のこの家にまた、二人で帰って来ることを、彼に約束をした。
叶うかわからない約束をしてしまうなど、罪なことだとはわかっていた。それでも、もう一度ここへ戻ってきたかった。彼と二人、死への恐怖のない世界で、幸せに暮らせる世界があったならば良いのにと、そんな願いを込めて彼に約束をした。
きっと彼ならば許してくれる。約束が守れなかったとしても、少なくとも、彼がまたあの地下の棺桶に閉じこもることはなくなるだろう。
自分がいなくなった世界で、彼を置き去りにしてしまうのならば、せめてあの地下室には戻らないでほしいと、その本心は言わないままに、彼にそんな約束をした。
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