逃げる
(タークス 付き合う前)
社員食堂で一人きりの夕飯を終え、再びオフィスへ戻ろうと廊下を歩いていると、廊下の先に彼の姿が見えた。
長身の彼はスーツを着ていると、より一層背が高く見えた。歩く度にさらりと揺れる髪が美しい。
この方向に歩いているということは、彼もオフィスへ向かっているのだろうか。そうだとすれば、任務を終えて報告に行くのだろう。今日も彼が無事に帰還したことを密かに歓び、安堵した。
「……あっ」
距離を詰めて話し掛けに行くこともできず、彼のあとをつけているかのように数メートル後ろを歩いていた。彼の方もこちらに気付くことなく順調にオフィスへと足を運んでいた。
しかし、オフィスまでもうすぐというときになって、彼は徐に足を止めた。自販機の立ち並んでいる休憩スペースでコーヒーでも買うのだろう。
そんな彼の行動に、咄嗟に自販機の影に隠れてしまった。
隠れずとも彼に挨拶をすればいいだけの話であって、或いは任務からの帰還を労うべきであったのに、気が付けばこそこそと隠れている。
「……」
ガコン、と自販機の商品が下に落ちる音がした。彼がそれを取り上げて、再びオフィスへ向かう足音も聞こえた。
足音が遠ざかったのを確認すると、やっと自販機の影から出ることができた。
「……なにやってんだろ」
彼を前にすると緊張してしまうのはまだ自分を許せるが、咄嗟に隠れようとする潜在意識が情けない。
少し時間を置いてからオフィスへ入ろうと、特に飲みたくもないコーヒーをゆっくりと飲んだ。
「上等だなイリス、助かった」
「お役に立ててよかったです」
その後オフィスに戻って残っていた仕事に取りかかった。少し前に到着したであろう彼は、既に黙々と仕事をしているようだった。
それからはいつも通りに仕事を進め、定時には帰るつもりだったのだが、急に上司に頼み込まれた仕事のせいで遅くまで残る羽目になっている。
「遅くまですまないな」
「どうせ家に帰ってすることもないので大丈夫です」
やや皮肉混じりの返答をしてしまったが大目にみてほしいものだ。彼を含めた皆は一時間ほど前には退社してしまい、上司とふたりきりで残業していた身にもなってほしい。
「それでは、失礼します」
仕事がおわったかと思うと、どっと疲れが襲ってきた。今日は帰ってすぐに寝よう。
カツカツとヒールの音が廊下に響く。
「イリス」
「ひっ!?」
完全に気を抜いていたところに突然声を掛けられた。
「ヴィ、ヴィンセントさん、お疲れ様です。てっきりもう帰ったのかと……」
「何故隠れたのか気になってな」
「えっ……と、それは……」
「自販機の後ろに隠れるなど素人のすることだ」
「すみません……」
バレていた。更に尾行のダメ出しまでされてしまった。追い討ちをかけるように、彼もまた完璧に隠れていた。
それにしても、何故彼はそんなことをしているのか。
「ヴィンセントさん、私に何か……」
「特にはない」
「えぇ……」
思わず驚愕の声が漏れてしまう。特に意味のないことを彼がするとも考えにくい。かといって彼の行動に意味を見出だすことも難しい。
「強いていうならば、反撃というところか」
「意外と意地悪でびっくりしています」
「四の五の言っていないで帰るぞ」
「えっ……あ、はい!」
帰るということは、途中まで彼と共に帰路につけるということだろうか。だとしたらとても嬉しい。
「一時間も待ち伏せているのは流石に堪えるな」
「ずっとあそこに居たんですか!?」
「次からはお前も逃げ隠れしないことだ」
悪戯っ子のような笑みを浮かべる彼に、胸がときめいてしまうのを抑えられなかった。そして自分を驚かすためにここで待っていた彼が可愛らしく思えた。
彼の意外な一面を見られたことで、くすくすと笑みを溢していると、隣を歩く彼に小突かれた。
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