7日目 朝
彼の右手がこちらの左手首を、彼の左手がこちらの右手首を掴んでいる。先程までの繊細さはない、しかし振りほどこうと思えば出来る力で拘束している。
お世辞にも柔らかいとは言えない簡易ベッドに、二人分の体重が乗る。彼がこちらに体重を掛けないようにしながら跨がると、ベッドはギシッと悲鳴をあげる。
日が落ちるまさにその直前の光が、窓から少しだけ入ってくる。赤い夕日に照らされた彼の瞳も、深い紅に染まっていた。
いつもと少し違う。彼の目が、少しだけ、野生を帯びているような、そんな気がした。
ゆっくりと顔を近付ける彼の瞳をずっと見つめていた。彼の唇は、こちらの唇に触れそうなところで左の頬へ落とされた。そのまま少しずつ首筋へ移動してゆく。
「ん、」
彼の吐息が首筋にかかる。だんだんと身体が粟立つのを感じた。
「んんっ」
思わず目を閉じた。彼の温かい舌が、首筋を下から上へと這う。ゆっくりと、しかし確実に快楽へと誘っている。何度も同じところを行き来され、呼吸が少しずつ乱れてきた。ハッと息を飲む音が自分でも聞こえる。
「あっ……い、た」
チクっと刺すような痛みが走った。その痛みは段々と滑らかな快感に変わる。彼は一旦顔をあげて、噛みついたその痕を見ている。満足そうな顔をして、指でその痕をなぞっている。
「……初めてつけられた気がします」
「そうだろうな」
「とっても目立つところに……」
「……不満か」
「そうじゃなくて、ただ、恥ずかしいだけで……」
そう言っている間も、彼はどこか楽しそうに笑っていた。いつも彼の方が一枚上手なのだ。
「んっ……ふ、……」
今度は、掴んでいた右手首を口元へ近付けると、そこにもかぷっと噛み付いた。長い髪を揺らしながら、小さく歯を立てている。痛みよりも満足感が満ちてくる。
「なんだか、いつもと違います」
「そのようだな」
「こんなに、キ……キスマーク付けるなんて」
「らしくないか?」
二人とも混乱していたのかもしれない。混乱と同時に、不安と恐怖と、愛しさをも共有しているのかもしれない。
「ヴィンセント……」
右手でそっと、彼の頬に触れた。頬に触れたと、そう思った。
「……?」
右手はするっと彼の頬を通り抜けた。文字通り、彼を通り抜けて、虚しく空を掻いた。
「うそ……」
「……イリス!」
「そんな、嫌、」
途端に溢れる涙に彼が滲んで見える。もう、彼は涙を拭ってはくれない。触れることができない。
「イリス、」
「嫌、嫌……! ヴィンセント」
「大丈夫だイリス」
「……好き、好きです、ヴィンセント、どこに居ても」
「必ず戻る道はある」
「はい、」
「イリス」
彼の美しい顔が、こちらに近付いた。唇が触れることはなかったが、きっと触れていたであろう距離を保って、彼はじっとしていた。自分も、それに応えるように、じっとしていた。じっと目を閉じて、彼を感じようとした。
俯くと、目を閉じていても涙が落ちていくのがわかった。次から次へと、とめどなく頬を伝ってゆく。
そっと目を開けると、涙で小さなしみを作って、すこし皺の寄った自分のベッドシーツが目に入った。
いつものアパートのベッドの上だった。ここはもう、夢ではない。
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