揺れ落ちる

「えっと……」

ヴィンセントに鍵に通す革紐をもらい、お互いそれを身に付けたが、宿の廊下に突っ立ったままたじろいでしまっていた。

こういうとき何か気の利いたことでも話せたらよかったのだろうが、彼女は固よりそれほど話す人間でもないし、何より今日一日、彼のことを妙に意識してしまって、いつも以上に言葉に詰まってしまう。

「イリスに見せたいものがある」

そんな彼女に、ヴィンセントは思いがけないことを言い出した。手を引かれるままに廊下を渡り、宿を出た。

いつもならば腕を掴まれていたのに、今日は掌を繋いでいる。彼の低い体温が伝わってくる。少しだけ、繋がれた手を握り返した。

外に出るとすっかり夜になっていた。家の灯りがちらほらとついており、街灯もぽつりぽつりと立っている程度だった。

「足元に気を付けろ」

「は、はい」

ただでさえ視界の悪い上に、雪の積もった道はとても滑りやすかった。ヴィンセントは手をしっかりと握ったまま、ゆっくりと街の奥へと進んで行く。



「イリス」

「はい!」

無言で歩き続けていたが、彼は突然立ち止まると、こちらを振り向いた。思わず勢いよく返事をしてしまい恥ずかしくなる。

彼はそっと握っていた手を離すと彼女の後ろに回った。両手で彼女の目を覆った彼に、何事かと慌てる。

「ヴィ、ヴィンセントさん……?」

「……ゆっくり」

それはゆっくり進めということだろうかと、そろりそろりと足を進める。ほんの少しだけ歩いたところで、彼はまたそっと手を退かした。

「わあ……綺麗……」

目の前に広がっていたのは、優しく光る夜景だった。昼間にここを通ったときには気付かなかったが、今こうして見ると、山のすぐ麓の街から遠くの街まで、灯りがきらきらと輝いている。

「これをイリスに見せたかった」

「とても……とても綺麗です! ありがとうございます」

隣に並んだ彼を見上げながら、心の底から感謝を述べた。これほどまでに心落ち着く風景を見たのはいつぶりだろうか。

「昼間落ち込んでいるように見えた」

「……そう、ですかね。そうかもしれません」

「エアリスのことは残念だった」

確かにエアリスの死は未だ受け入れきれている訳ではなかった。彼女の家に立ち寄ったときにも、彼女を思い出しては悲しみに暮れていたし、悔しい思いもしていた。

そんな自分を気遣ってくれたのかと、イリスは目の前の夜景が滲んでゆくのを見ていた。

「ここはエアリスの家のすぐ隣だ」

「そうなんですか! 暗いから気付かなかったですし、昼間も気付きませんでした……」

「昼にここへ来たとき、夜になったらお前を連れてこようと思っていた」

こちらを見ながら少し微笑んでいる彼に、胸がまた締め付けられるような思いがした。

彼の優しさを勘違いしてはいけないといくら言い聞かせても、鼓動が速まるのを抑えきれない。

「本当に、ありがとうございます」

何も悟られないよう、かろうじてそう言いながら微笑み返した。自分でも困惑しているのに、彼を巻き込んではいけない。

「戻ってきたら毎晩この景色が見られる」

「……!」

今日はとても調子が狂う。彼の言葉のひとつひとつに敏感になってしまっている。彼はここへ一緒に戻ると言ったが、ひょっとしたらそれは、ずっと一緒に居てくれるということなのだろうか。

二人は暫く無言のまま、目の前の夜景をしかと目に焼き付けた。



「流石に冷えるな」

「そうですね、標高も思ったより高かったですし」

「泊まってみるか?」

「え……?」

そう言って首元から鍵を取り出すヴィンセントに、またどきりと心臓が音を立てた。

「暫くは戻れない。せっかく譲り受けた家だ、今夜くらい泊まってみても悪くない」

「そう、ですね。いつ戻れるかわからないですし」

平常心を保とうと彼のペースに合わせる。別に彼の方もやましいことを考えている訳ではないのだ。ただ純粋にあの家に泊まってみるだけ。

そう思っても尚、彼と同じ空間に二人きりで眠ることに動揺せずにはいられなかった。



夜景の見える丘からエアリスの家までは想像以上に近かった。あっという間に着いてしまったが、心の準備が出来ていない。

取り出した鍵で玄関を開けた彼は、先へ入るよう促した。

「電気は通っているな」

カチリと部屋の電気を点けた彼は、先程よりもゆっくりと部屋の中を点検し始める。イリスの方は、よろよろとソファーに座って、彼を目で追っていた。

「下にベッドがあるが、埃を被っていてとても眠れないな」

「次に来たときは大掃除ですね」

「どうやらそのようだ」

ティファとユフィはここを「新居」と言ってからかっていたが、イリスとしては複雑な心境だった。端から見ればそうかもしれないが、実際のところ、彼との間には何もない。仲間である以上の関係は何もないのだ。

「イリスはソファーで寝るといい」

「ヴィンセントさんはどこで寝るんですか?」

「私は何処でも寝られる。棺桶の中でさえ眠っていた」

冗談混じりにそう言った彼は、壁に背を預けて床に座り込んだ。片足を抱くようにして、もう片方の足は伸ばして、そのまま目を閉じた。

まさか座ったまま眠るのだろうか。しかし、思い返してみれば、彼が横になって眠っているところは見たことがない。キャンプをするときも、彼が眠っているところすら見たことがない。

何か声を掛けようかと迷ったが、彼が再び口を開くことをしなかったので、イリスもおとなしくソファーに横になった。電気を消して、暗くなった部屋で彼女も目を閉じた。



「すまない……」

あれから一時間ほど経った頃、ヴィンセントはかろうじて聞き取れるかどうか、という小さな声でそう呟いた。

目は閉じていたものの、緊張から眠りにつけずにいた彼女は、彼の言葉を聞いて目を開けた。

なんの脈絡もない突然の小声に、寝言だろうかと暗闇に静かに目を凝らす。

「私は……どうしたらいい」

小さい声だがはっきりと話しているところをみると、寝言というよりも独り言なのだろうか。

起き上がろうかとも考えたが、こちらが寝ていると思っているのならば起きない方がいい。

しかし盗み聞きをしてしまうのも申し訳ない。

「……どうしたら許される」

「……」

彼の心を蝕んでいるものは一体何なのだろうか。彼を苦しめているものがあるのならば、一緒にそれを取り除きたい。

そう思う一方で、多くを語らない彼の内心にどれほど足を踏み入れていいものか、未だにわからない。

そう悩んでいる間に、彼が立ち上がる気配がした。ゆっくりとこちらに近付いてくる。咄嗟に目を閉じて寝ているふりをしてしまう。



「イリス、許してくれ」

とても小さな声でそう呟いた彼は、彼女の髪をそっと撫でた。彼は髪の束を少しだけ持ち上げると、小さく口付けた。

「……!」

彼はそのまま元居た位置に戻ると、再び座り込んだようだった。イリスは今にも心臓が飛び出るのではないかというほどに動揺し、緊張し、そして顔を真っ赤にしていた。

同時に、抑えていた感情が溢れてしまうことを怖れて、堅く目を閉じた。いつまでも二人でここに居たいと思う反面、早く朝になってほしいと、矛盾した気持ちのまま、必死でこの想いを飲み込んだ。


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