One of these days is none of these days.
夢を見た。とても素晴らしく一点の曇りもない、完璧な、文句のつけようのない幸福な夢を見た。
夢を見た。絵に描いたような幸福な夢だ。夢を見た。世界は平和で、人々は笑いあい、愛し合い、そして誰一人傷つくことなく。夢を見た。銃を花に持ち替えて、誰もが笑っている夢だ。
なのに何故だろう。
――胸が痛む。
『スティーブンさん』
アリスの声だ。
『スティーブン』
そしてクラウスの声がそれに続く。なんだい、と夢の中のスティーブンは振り返る。
夢を見た。真っ白な、夢を見た。
『わたしたち、けっこんするんです』
真っ白なドレスを着たアリスと、同じく真っ白なモーニングを着たクラウスが教会のステンドグラスから降り注ぐ光を背にして立っている。
――ああ、これは結婚式か、と遅れて脳が認識する。
幸せな、夢だ。大事な、友人の晴れの日を、スティーブンは夢に見た。
『やあやあ、おめでたいね』
夢の中のスティーブンが言う。
大量の砂糖を直接胃に流し込まれたような気分のくせに、はりつけた笑みが完璧なのが自分でもわかった。
夢を、見た。
『おめでとう、ふたりとも』
吐く息が白い。おめでとう、と口にしながら自分の足元を中心に氷が広がっていく。もう、からかうように人目を盗んであの柔らか唇にキスを落とすことも、ぎゅうと抱きしめ抱え込んでソファに座り込み仕事をすることも、きっと真夜中のごきぶり退治にたたき起こされることもない。
これは、誰の夢なのか。自問する。これは、夢だ。では誰の?自分の?これが?ほんとうに?
『スティーブンさん』
とても幸福な夢を見た。絵に描いたような幸せな夢。なのに、少しも心は満たされない。自分をきょとんと彼女が見つめている。呼ばないでくれ、と叫びたかった。もうその口で俺の名前を呼ばないでくれと、懇願したかった。だって、彼女はスティーブンの手を離れた人なのだ。
夢が真白に染め上がる。
視界を埋め尽くす白。
氷と、ウェディングドレス。
***
「――おきてください、すてぃーぶんさん!」
夢を、見ている。
目の前にアリスの顔がある。あまりに近くて焦点が上手く定まらない。唇にかすかに残る誰かがふれた感触。アリスは必死でスティーブンの名前を呼んでいる。まだ、何かあるのか。祝いの言葉を述べる以外に何をしろと?もうこの先少しでも口を開けば何かとんでもないことを口走ってしまいそうなのに。
「ちょっ、もうやばいですって!凍りついちゃいますよ?!ああああ、クラウスさんの観葉植物がぁあああ」
「……」
クラウス。その名前を今、彼女の口から聞きたくない。そんなスティーブンの潜在意識が作用するのか、更に氷の速度が増した。
「おきてくださいっていつまで寝ぼけてんですか!」
「……アリス?」
「わぁあぁあああ、冷たい!ヘルサレムズロットの高層ビルディングで謎の凍死体になるっ、スティーブンさんしっかりして!!」
「――、一緒に死のうか」
「だぁーかーらぁあああああ、気障なこと言ってないで起きろってばぁあああああ!!!」
ぺちん、とおでこをたたかれた。ぐしぐし泣いて喚いているお子ちゃまを漸くきちんとスティーブンは認識した。「あれ、結婚式は?」思わずそう言葉を漏らす。真っ白なドレスに身を包み、幸福そうに笑みを浮かべていた女の姿はそこにはなくて。そう、いつものアリスだ。あんな絵に描いたような理想とかけ離れた、情けない顔をしてないているいつもの、アリス。
「寝ぼけてんですか?!」
「……ゆめを、みてたみたいだ」
どんな夢を見ればオフィスまるごと氷付けにできるんですか、と凍傷手前に冷え切った足をぬるま湯につけながらアリスが口をとがらせた。こればかりはもう返す言葉がない。「わるかったよ」とその足を丁寧にほぐしてやる。クラウスの観葉植物は日向に出され、あやうくブリザードフラワーになるところを免れた。
「こんなとこでうとうとするから悪夢なんて見るんですよ。ちゃんと仮眠室行くか、自宅かえって寝なきゃ」
「……いや、悪夢ってわけでもないんだけどね」
「……いやいやいや、幸せな夢見てる人は寝ぼけて当たり一面氷付けにしませんから」
悪夢か、と聞かれればやはりあれは幸福な夢だったろうと思う。世界にとって。大多数にとって。考えられうる最高の未来を夢に、見た。あまりにも甘い夢で。最高に理想的で。
あまりの完璧さに、それをぐちゃぐちゃにしてしまいたい衝動に駆られた。
「アリス」
「なんですか」
「キスしたい」とストレートに告げたらほぐして柔らかく緩んでいた足に緊張が走った。かちんこちんに固まった少女の足先を指でねっとりとたどる。それに震え上がったアリスは目をしろくろさせて瞬きもせずにスティーブンを見ていた。
「い、いつも勝手にするのに?!」
「君の許可が欲しい」
「きょ、か」
「そう。キスしたい。君に」
まだ目が覚めてないんですかなんて可愛くないことを言う口を一刻も早く塞いでしまいたい。けれど。
「アリス、返事」
「うぇぇっ?」
「早く」
キスをする。濡れた足先に、爪に、足の甲に、くるぶしに、膝に。少しずつ、這い上がっていく。逃げるように持ち上げられた足を捕まえて、ずりあがったスカートから剥き出しになった太ももの内側にも。顔を真っ赤にしてふるふるとアリスは震えている。
「アリス、キスしたい」
「……も、してるじゃないですかぁ」
はんべそをかいている色気のない子どもに、我ながら随分酷いことをしているなあと思う。夢に見た、一点の翳りもない笑みをかき消すためだけに、まるでとばっちりのようにいいようにされているアリスが可哀想で、けれどとびきり可愛かった。
「まだ足りない」唇を耳元に寄せて囁いてやる。真白いひ弱なその腕が促すよりさきにスティーブンの首に回されるからおかしくなって笑ってしまう。もう随分と悪いことを教え込んでしまった。
口の端をついばむようにキスをする。――ああ、ほんとに度し難い。
「わ、たしも、」
とろんと溶けて、震える声が鼓膜を揺らす。
小さく掠れる、息の上がった声が「すてぃーぶんさん」と名前を呼ぶ。ん?と先を促してやりながら、目尻にキスを落とした。
「きす、したいです」
――あなたと、きすしたい。はやく、いじわるしないで、してください。
ぴたり、とスティーブンの動きが止まる。ついで、ぼすんと彼女の肩口へとその頭の重みがかかる。首筋にかかる吐息とスティーブンの髪がくすぐったくて思わず「っぅあ」と声が漏れた。
「夢を見たんだ」
どんな夢を?とアリスが問うことはできなかった。問いかけに開こうとした口を乱暴に塞ぎ、吐息も思考も全部奪うようにただひたすらにキスをした。
スティーブンさんのキスは苦い、と可愛くない苦情を常から口にするが一体今はどうだろう。眠る前にも確かコーヒーを飲んだ覚えがあったから、きっとこのキスが終われば「にがい!」と可愛くない文句を言い出すに決まっている。
苦い。そう、スティーブンは甘くない。
アリスより仕事を優先するし、必要とあらば囮にだってつかうし、クラウスと天秤にかければ間違いなくクラウスを選ぶ。ハニートラップで他の女と平気でキスや、それ以上のことだってするし、友人であろうと裏切れば殺す。温室育ちのお姫様にはおよそ似つかわしくない。少年のように“騎士”を自称することさえおこがましい。
何度だって約束をやぶるし、何度だって彼女を傷つける。
夢を見た。
とても幸せな、まるで物語りのように美しい夢を見た。誰もが夢見るいつの日かの未来を、夢に見た。
くったりと自分の胸にもたれかかってくる重みを支えながら自嘲する。何度も、この先見ることになるであろう幸せすぎる悪夢を反芻する。
いつの日か、来るはずだったかもしれない甘く幸福な未来の夢をめちゃくちゃに踏み荒らして、そうして苦いキスをした。
One of these days is none of these days.
「いつの日か」は、決してやってこない。
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