11:Days Of Tea And Roses
紅茶と、薔薇と、名前すら知らないモノクロの少女。
今年、最初の薔薇に水をやりながらクラウスは思い出していた。
それは遠い遠い日々の記憶だ。
***
雨あがりの庭で、薔薇の手入れをしようと思っていた。ラインヘルツ家に庭師いらず、とはまことに正鵠をいている。植物に手をかけることをクラウスは好んでいた。自分の大きく、たくさんのものを薙ぎ払う手ですらも、何かをはぐくむことができることを実感できるのがその一因かもしれない。あまり器用な質ではない故に、加減を間違えることも多い。だからこそ、物言わぬ植物にこそ彼は真摯に向き合う。傷つけぬように、決して枯らしてしまわぬように。
細心の注意を払う。
今年一番の薔薇が、昨日綻びかけていた。きっと今日はその大輪を艶やかに咲き誇らせているだろう。その姿を思い描きながら、訪れた先にその少女はいた。
「あ、こん、こににちわ!」
小さな少女は真っ黒のワンピースに十字架のネックレスをした、まるで葬儀の帰りのように色彩に乏しいいでたちをしている。
「すてきな、ばらですね」
にこりと、笑った。その言葉が嬉しくて、クラウスも思わず笑う。だが一般にその笑みすらも恐れられてしまうことをすぐに思い出して、彼は少女が泣き出してしまうのではないかと不安になった。事実、目の前の少女は少し固まっている。「に、にげちゃだめだにげちゃだめだ」とぶつくさつぶやいている。
「……今年一番の薔薇なのだ」
出来る限り、優しく、穏やかにクラウスは答えた。少女は「どうりできれいだとおもいました」と震える自分を叱咤するように、拳を握り締めて薔薇を賞賛した。
「薔薇、好きなんですか庭師さん」
庭師ではないが、もうそれを訂正するのもおかしいだろうと、クラウスはこくりと頷いた。
「いいなあ」
少女はじっと薔薇を見つめて微笑む。
「あなたに育てられる薔薇になれたらいいのに」
そしたらいつかキレイに咲いて、庭をにぎやかにして、季節が終わると花弁を散らすんです。幼い少女がまるで死を待つかのようなことを歌うように言う。
「庭師さんの弟子でもいいな。ずうっと、このお庭にいられたら花でも弟子でも何でもいいの。」
「そんなに気に入ってもらえたとは光栄だ」
「庭師さんは天才ですね。わたし、こんなに綺麗なところ他に知らないです」
少女はとても小さいのに、どこか諦めたように「わたしにも一つくらい何か才能があればよかったんですけど」と呟いた。
「美しい、と感じる心はキミだけの才能ではないだろうか」
「ここを美しくないと思う人なんていないのに?」
「興味のない人間にとってみれば、ただの通り過ぎるだけの庭だ。けれどキミは美しいと感じる。キミの心が何を感じるかは、それだけでひとつの才能だと思う」
少女は、目をまん丸に見開いて「庭師さんは怖い顔なのにものすごくいい人なんですね」とこれまたストレートに告げた。怖い顔。割と気にしていたのだが、ひとはみためじゃあないですねと感心しきりの少女には悟られぬように、クラウスは気を引き締めた。
それから二人でいろんな花を見てまわった。少女は目を輝かせてクラウスの説明を聞いていた。水遣りをしては如雨露をひっくりかえして靴をびしょぬれにし、草引きをしては虫に泣き出し、咲いた花を摘もうとすれば棘にさされてまた泣いて。知らぬ間に庭の隅に用意されていた(恐らくはギルベルトによるものであろう)アフタヌーンティーと、スコーンを食べてご機嫌に笑い、なんともたわいのない話をした。
日が暮れて別れる時には「かえりたくない」とぐずぐずとまた泣いた。いつでも来てくれてかまわない、私は君の来訪をいつだって歓迎する、そう言っても少女は泣いていた。もう次なんてあるはずもないと、少女は思い込んでいるようだった。
「庭師さん」
泥をほほにくっつけた少女が、涙交じりの笑顔を浮かべて、そして、
「庭師さんにあげます」
その手に差し出されたのは、
「クローバー?」
草引きのときに見つけたのだろうそれは四つの葉だ。幸運を呼ぶ、と信じられているとクラウスが雑談まじりにはなしてきかせた。
「庭師さんに幸運がたっくさんきますようにって」
クラウスの手がそれをそっと受け取った。力をこめてしまえば、ぐしゃぐしゃにしてしまいそうで、慎重に慎重に最大限の注意を払って。
ぎゅう、と小さな子供が足元に抱きついた。
「さようなら、庭師さん。今日はほんとにじゃまばかりしてごめんなさい」
さようなら。まるで永遠の別れのように、少女は重々しく言う。邪魔?いったいどこが邪魔だったというのか。如雨露をひっくりかえしてしまったことだろうか?虫に驚いて泣いたこと?棘にさされてしまったこと?そんなことはどれ一つとして迷惑でも邪魔でもなかった。少女はただ花と植物の話を、心底真剣に聞き入ってくれたというのに。
モノクロの少女はまるで、古い映画から抜け出してきたようでどこか現実味がない。だからだろうか、この庭で一番最初に咲いた薔薇をクラウスは躊躇うことなく手折り、そして、
「今年最初の薔薇を君に」
長い髪をゆるくゆるく腰までみつあみにした彼女に、真っ赤な薔薇をそっと差し入れた。
かちんこちんに固まった少女は、ぐるぐると目をまわしている。
「ああ、よく似合う」
少女特有の頬の赤みが、薔薇によく映えている。つくりものめいていた少女が現実の色で染まった。
「……庭師さんは、褒め上手ですね」
くしゃりと、少女は薔薇の花が綻ぶように、はにかんで笑った。
用意したバスケットに、彼女が美味しいと喜んだ紅茶の茶葉とスコーンと、そしてクラウスが心をこめて育てた薔薇を詰め込んで、少女は夕暮れと共にいなくなった。
***
遠い日の、記憶だ。
もう随分とその記憶も色あせて、その少女の顔を何故だがクラウスは正確には思い出せなかった。名前も知らぬ、顔さえもおぼろげの、少女。
だというのに、いつもその年で一番最初の薔薇が咲くたびに、脳裏をよぎる。
『庭師さん』
――と、舌ったらずな幼い声が聞こえた気がして振り返る。たった一度だ。たった一度、一日だけ共に過ごしただけだというのに。
誰かに、呼ばれた。いつもの過去からの呼び声だと思った。クラウスは、誰もいない場所を、振り返ったつもりだった。
「クラウスさん?」
クラウスはその翠の目をきょとんと見開いた。
「……アリス」
アリスがいた。
「はい?どうかしましたか?さっきからギルベルトさんがお茶にお呼びしてましたよ?」
ぼうっとしてどうしたんですか?とアリスがからかうようにこちらを見ている。
「昔のことを、思い出していたのだ」
「昔?」
そう、薄れているのに、消え去ることはない昔の想い出。
「今年、最初の薔薇が咲いてね」
一瞬だけ、アリスと記憶の中の少女が交錯した。懐かしい、あの少女が成長していたら、きっとこんな風なのかもしれない。
先日クラウスが送った真っ白なワンピースに、これまたスティーブンが送った赤い靴を履いたアリスはにっこり笑って「薔薇を褒める才能に関しては自信があります!」と誇らしげに胸をはった。
モノクロの少女。そういえば、HLに来たばかりだったころの彼女もそうだった。けれどもう、アリスの場合は薔薇で色を染めずとも、色に溢れている。クラウスが、スティーブンが、K.Kが、ライブラのメンバーたちが、彼女を少しずつ変えたのだろう。
「クラウスさん?」
昔の記憶をたぐろうとすれば、すりぬける。モノクロ少女は、霞のようにつかめない。過去をたぐりよせることをやめたクラウスは目の前の少女の手をとった。
「そういえば、ギルベルトさんも今日は“懐かしい茶葉”が手に入ったって言ってましたよ?珍しいものなんでしょうかねえ?」
そうしてまた、午後のお茶会がはじまる。
懐かしい記憶とは違う形で。
(紅茶とバラの日々)
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