My Blue Heaven | ナノ
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31-1


『君は、幸運と同じだけ不運も運ぶな』

かつて、春にそういった人がいた。

『君の手を取る人間は、相応の覚悟が必要だ』

仄暗い暗闇から、光の方をぼんやり眺める春の耳元に、その声は悪魔のようにささやいた。
春を《幸運の青い鳥》だという人がいるのを知っていた。
同じくらいの人が《死を呼ぶ鴉》だと呼んでいたのも、勿論知っていた。
そして、春自身は自分のことを後者で呼ぶ人の方が正しいといつだってぼんやりと思っていた。

――お前に関わったせいで死んだんだ。

そのとおりだ。

――お前さえいなきゃ。

ごめんなさい。

――ばけものが!

そのとおりです。
もう、昔ほどには悲観していない。世界はばけものだらけなんだと知っている。人にすすんで害をなそうとしない分だけ、自分はなんて良心的なイキモノだろうと思うことだってできるようになった。むしろ能力としては矮小な部類で、見劣りすらする。

――役立たず。あの人の横になんでこんな奴がいるのを許される?
まったくぐうの音も出ないほどに正論だ。


ひとりは寂しいから、誰かのそばにいたいから、必死に取り繕って背伸びする。どれだけ傷ついたってかわまない。
役に立つから。精一杯、努力するから。

だから、どうか。

祈るように、縋るように、請い願う。
その夜、酷く久しぶりにかかってきた電話で、完全に自分が舞い上がっていたことを思いしった。身の程も知らないで、浮かれて、夢みたいなことを考えていた。
それでも、一度見た夢への切符じみた書類の空白を埋めていく作業は最高に幸せだった。
誤魔化しながら、進めはしないだろうか、もう少し、もう少しだけ。もしかしたら、奇跡的に何もかもうまくいくかもしれない。
甘い目算だった。
きっと赤井にも、降谷にも叱られる。新一も呆れるに違いない。
最後の署名をゆっくりとして、仕上がった書類を丁寧に引出にしまい込むと、春はひとまず全てを先送りにした。










大学の帰り道、ボーダーに向かって歩いていると三門市では珍しい部類に入る黒塗りの高級車が滑るように春の横で停車した。珍しいが、ないことではないので警戒しなかった。太刀川の部隊にいる唯我尊は唯我財閥のお坊ちゃんであり、三門市に来る以前にも実は面識がある。彼は非常にうっかりと誘拐される。
そのたびに春が呼び出されては行方を捜索するはめになっていた。普段、少しも連絡をくれない父親からの依頼を、春は断れないでいる。それで、自分にとって致命的な傷を負うことになったこともあったけれど、どうしようもない。未だに『あいされたい』などというどうしようもない夢想はしてはいないが『役に立つ』くらいには思われたいという不毛な思いが依頼を無視させてくれない。
けれど、高級車の中から降りてきたのは唯我尊ではなかった。

「ハリー・クライン氏の使いのものです」

春は石のように固まった。聞きたくない名前だった。無視して通り過ぎてしまいたかったが相手は「無視された場合、ボーダーに政治的経済的外交的圧力を全力でかけると伝えるように言われています」と顔色一つ変えない。ブラフだと、たいていの人間なら笑うかもしれないが、春は口を真一文字に引き結んだ。彼らのボスはそれが『できる』と知っていた。

「・・・・・ご用件のほどは」
「すぐ終わりますよ。ミス・八嶋が協力的でしたら」

今年に入ってこれで何件目だったか。足元を見られている自覚はあった。本人がじきじきに依頼に来いよ、とはさすがに言わなかったが現在ハワイでバカンスしていてもうじき南極に移動の予定があるので来れないのです、なんて説明をうけても困る。
馬鹿にしている。とは思えども協力的ではなかったらどういう事態になるのか。考えただけで面倒になった。あたりを見渡すとちょうど良く人目もない。人さらいにあっても、誰かが気づくまでには時間がかかるだろう。そもそも目撃者すら買収するのを彼らは躊躇わない。
結局春はうなづいた。黒塗りの車に、重い体を引きずるようにして乗り込んだ。
道中で、スマホがなった。相手は太刀川だ。この後、約束していたオペに付き合えないことと、レポートの提出期限の確認を念入りにした。提出日までに戻れるか幾分か不安だったせいでつい言葉に力がこもってしまったのを太刀川は『なんかあったの?』といぶかしんでいた。彼はとても勘がいいので、春は「知り合いに頼まれごとされたのでちょっと忙しい」と素直に答えた。嘘はひとつもついていない。
「心配しなくてもそう時間は取らせませんよ」と使いの男は言ったけれど、結局そのあと日付が変わっても春は自宅には帰れず、翌日の夕方まで拘束されるはめになった。

(・・・・これ一度で済めばいいけど)

春の不安は的中した。
その日以降、ことあるごとに春はこの黒塗りの高級車に乗り込むことになった。

そんなことを何度も繰り返していると必然ボーダーに顔を出す頻度が減ってしまった。太刀川の課題の手伝いも約束が間延びしてしまい、何度かメールで苦情がはいった。幾つもタスクが降りかかる現状で、優先順位をつけかえる。どれから手を付ける?どこを優先する?
――じつは、八嶋春もスパイなんじゃない?
という心無い陰口をうっかり聞いてしまったけれど、それだって仕方ないと思った。にしても、もし自分がスパイだったら、せっかく信頼を得たタイミングでこんなことはしない。太刀川たちA級のトップランカーと、ぽっと出の女が親しくしていたのに、本部での仕事もろくすっぽしていないのでは陰口への反論もしずらい。そもそもが、慣れたものなのだ。赤井や、降谷の隣に春がいると『あの人の横に立つにはふさわしくない』と何度突き付けられてきたか。しようがない。まったくもって、火を見るよりも明らかな理屈すぎた。
スマホが鳴る。呼び出し先を見て小さくため息をついた。結局その日も春は、ボーダーには顔をださなかった。 




***



「最近さー、春さん絡みで何かめんどうなことってあった?」

弟子に唐突に切り出された忍田は目を丸くした。

「なぜ?」

「迅が俺のシフトいじってたってタレコミがあった」

「・・・・・それはいつの話だ?」

「さっき。んで、俺のとこにも連絡は来たんだよね。近いとこで言うと来週のシフト。来週ってなんかあったっけ?よくよく調べたらこないだもやってんだよなアイツ」

迅の未来視によってシフトは随時組みなおされることは珍しいことではない。少し厄介なトリオン兵の出現や、出現数の多い夜は事前に迅によって警告される。だが、大規模なものでもない限り《太刀川慶》のシフトをわざわざ動かすのは違和感が残る。
何せ太刀川はA級1位部隊の隊長なのだ。現有の戦力の中でもトップクラスに分類される隊員のシフトは、厳密に管理されている。勿論学生が多い組織だから本人申告のかわいらしいものだってある。友人との時間、学業、家族との時間。複合的に組み合わされ、そして、最終的には迅悠一の未来視による危険レベルの報告で決定される。

「俺は別にシフトの変更申請だしてねーし、俺が絶対いるレベルの危険度の日でもないし。なのにわざわざ迅がこそこそ動かすって何か他に要因があんのかなって。忍田さん知んない?」

「・・・・・・・」

「言えないような案件?え?なに深刻なやつ?」

ならば仮にもA級隊員である自分たちに少しくらい情報をくれてもいいはずだ。

「唐沢さんの仕事の範疇だから私は関与していない」

「・・・・やばいやつじゃん」

ボーダー内部で《唐沢案件》と言われたらたいていの人間が口をつぐむ。

「・・・・・まだ、推測の域を出ていない案件だ」

「迅は動いてる、ってことは何かはあるわけだ。こないだ、ちょっと春さんなんか最近つかまんねーし、挙動不審だった日あったし。あいつら両方がこそこそしてるって怪しさしかない」

「慶」

「何?」

弟子は師匠をまっすぐに見上げた。随分と昔よりも近づいた目線は、少しもぶれることなく忍田をうつしている。

「・・・・・つきあってない、んだな?」

誰と誰が、とは口に出さなくともお互いにわかっている。

「ないない」

あっさりと太刀川が答える。

「付き合いたいとは思ったり、とかは」

師匠はめいいっぱい弟子に対して気を使った、つもりだった。絞り出すような声で、弟子はいっそおかしくなってきていた。

「ないなー」

「・・・・・・・・・本音か?」

「ここで俺が『実は・・・』っつったら忍田さんどーすんの?」

「・・・・・・」

黙り込んだ師匠に、太刀川は肩をすくめた。可愛い弟子と、頼りにばかりしている昔馴染み。どちらにも忍田は幸せになって欲しいのだというの痛いほどに伝わっている。

「俺はさ、忍田さん、」

弟子がなにを言い出すのか、忍田は固唾をのんで見守った。もしもとんでもない告白をされたら師としてどうするべきか、ぐるぐる考え込んでいたけれど、弟子は師匠が考えていたよりももう少し大人だった。

「あいつの未来視を覆すの、好きなんだよね」

とりあえずは、それが太刀川の掛け値なしの本音であることだけは、忍田にも痛いくらいに伝わった。

「慶、もうひとつ」

忍田は太刀川に向き合う。先ほどの質問は、しごく個人的な太刀川の師として春に対しても親しい人の残した縁者としての、双方に向けられた心配だった。けれどこちらは仕事の話だ。私情の一切を排して、忍田は口にした。

「彼女はボーダーを裏切るスパイだと思うか」

太刀川はまっすぐに忍田を見つめている。はて、と彼は首をかしげる。
それから面白いことを聞いたな、とばかりに笑って見せた。

「そりゃ、無理だ」

無理な話だ。そう言い切って、太刀川はその場を後にした。




***



春がボーダーにいない。
顔を出しても直ぐにいなくなる。これまではできる仕事はボーダーでこなしていたし、そうでなければマンションにいた。大学にも作戦室にも、マンションにもいない。
いつでも忙しそうで、ろくに寝ていないのか顔色も良くなかった。とは何度か出くわした国近の証言である。
黒塗りの高級車に乗り込んでいくのを見た、という証言があがり、呼び出されたのは唯我だった。付き添いで太刀川と出水も同席した。
上層部からの呼び出しにはさしもの唯我もスポンサーの息子とはいえ緊張するらしい。

「八嶋君が高級車に頻繁に乗り込んでいるらしいが、唯我に関わることかな?」

唐沢がにこやかに尋ねた。唯我は即座にスマホで実家に問い合わせた。答えはNO。唯我財閥は八嶋春には接触していない。
では、この田舎の三門市で一体だれがあんな高級車に乗っているのか。確認が終わればもう下がっていいと追い出された三人は、締め出されたドアの前で顔を見合わせた。

「春さんどうしたんすかね?」

出水が首をかしげた。

「さーなー」

太刀川はあごに手をあてた。思い当たる節はない。唯我にちらりと視線をむける。

「し、知りませんよ?!」

濡れ衣でも着せられるのでは?とばかりに唯我は否定した。特異な能力者を囲う、というのは唯我の知る限りでは父親の趣味ではない。

「金持ちの知り合いとかで心当たりないのか?」

「金持ち、ですか?いや、車種だけでわかるわけないですよ!!」

ちょっと父に聞いてみます、と唯我は約束した。太刀川は小さくため息をつく。まったくもって一筋縄ではいかない相手だ。そもそも、わざわざ唯我を呼び出すあたりの意図はなんとなくわかっている。唯我当主と唐沢にラインがないわけがない。あえて、わかりきっているであろう答えを求めたのは、遠回しに太刀川や唯我に探りを入れさせたいのだろう。同年代、それも年下にめっぽう彼女は弱いのを狙っているわけだ。
期待されるまでもなく、太刀川だってこの状態は面白くないし、引っ張り込んだのは風間と自分だとも思っているから動かないでいる選択肢はなかった。

「八嶋春って、実は裏切り者のスパイなんじゃねーかって噂らしい」
「まじかよ、上の方にすごい媚び売ってたじゃん」
「こわ〜」

ラウンジでC級の隊員がしている噂話が耳に飛び込んでくる。唯我がむっとした顔になる。出水はヤレヤレと肩をすくめた。それから二人は太刀川はどうするのか、と様子を伺った。

「面白い話してるよな」

太刀川はいたっていつも通りのテンションで言う。

「いやいや、ないですよ!八嶋先輩はそんな人じゃあありません!」と唯我が叫ぶように言う。三人の存在に気付いたらしいC級隊員は、春と親しい太刀川の顔を見ると蜘蛛の子を散らすように逃げていった。

「太刀川さん、春さんの彼氏説まだ一部にはびこってるからな〜」と言ったのは出水だ。へえ、と太刀川はあごの髭を片手でなぞった。

「なんか、すごい言われるけどなソレ。笑えるよな〜、春さんが誰を好きかとか一目瞭然だろ」
「え」

出水は絶句して、それから無意識に、うるさく喚こうとした唯我の口を押えて黙らせた。

「太刀川さん、その手の空気読めるんですか?え、まじで?」
「読む必要あるかアレ?まんまだろ」

1+1は2、くらいの明確さだと太刀川は思っている。本人に自覚がない、むしろ自覚しないようにしているように見えた。太刀川にとってはさして今更言うほどのこともないので特に口は出さないし、そのあたりはむしろ風間の管轄だ。

「でも、あの人わかんないしな・・・・」と出水は言う。眼の前にいる隊長のことも、戦闘のことならいざ知らず、この手のことでは考えが読みずらい。もごごご、と唯我が喚こうとしたがやはり出水は黙殺した。このおぼっちゃまは割ととんでもないことを言い出す。

「まぁ、春さんも大概ばかだもんな」

こういうの何ていうんだっけ?とあれこれと格言のへんてこな間違いを繰り返し続ける太刀川に、出水の腕から抜け出した唯我が訳知り顔に胸を張って答えた。

「恋は盲目!ですね!!」

太刀川がオウムのように繰り返した。隊長に自分の言葉が繰り返してもらえて、唯我はご機嫌だった。











大学から本部へと向かおうとしていると、春が少し先を歩いているのを見つけて太刀川は声をかけた。「久しぶりじゃね?」と指摘すると、苦虫をかんだような顔をする。自覚はあるらしい。あれだけ毎日のように入り浸るようになっていたのだから当たり前だ。そうだっけ?と言われなかったのでこれはいい傾向だ。

「ちょっと、仕事で忙しくて・・・・」

隣を歩く春はぐったりとした表情で言う。心底疲れている、というのを隠す余裕もなく表に出すのは珍しい。そもそもが、本人いわく『第一優先はなるべく大学』というゆるやかな目標を掲げていたはずなのだ。女子大学生らしいおしゃれを常ならば心掛けている人が、珍しくもジャージ姿だった。

「目の下、隈できてね?」
「え!ほんとに?!・・・・・うわ、化粧で隠せるかな・・・・あー、眠い」
「ちゃんと寝てんの?」
「そこそこ、いや、うん、ちょっとは、ねてる」

つまるところろくに寝てないということらしい。大丈夫私はやれる、なんとかなる、とブツブツつぶやいているが、少しも大丈夫そうには見えない。

「あんまり最近オペしてないけど腕なまってんじゃね?」

事実をはっきりと指摘するとますます苦い声で春がうめく。それを横目に確認して「今日、付き合ってやろっか?国近も追試でいないし」そのついでに仮眠室に放り込んでやろうと目算を立てる。

「ほんと?じゃあ、」

お願いしよっかな、と続こうとしていた会話がふいに途切れる。春のスマホが鳴った。ぴたり、と春の足が止まる。

「春さん?」

数歩先にいる太刀川は振り向いて、立ち止まった春を見る。

「ごめん、ちょっと先行ってて?」

仕事の電話みたい、と春は困ったように言う。あたりをきょろきょろと見渡した。噂の高級外車は見当たらない。

「後で来んの?」
「・・・・・・・あー、いや、うん、仕事が近場で、片付けば、たぶん、」

春が言葉を濁す。それに少しだけ太刀川も苛立った。

「春さんもスパイなんじゃねーかって噂になってんの知ってる?」

「知ってる」

仕方ないね、と笑うのも、なんだか気に喰わない。太刀川は少し口をひん曲げた。

「俺は、春さんのそういうとこムカつく」
「え」
「すげー、他人事面するよな。春さんの話だろ?もっと怒ったりとかしねーの?」

怒りも、悲しみも、嘆きもしない。
ボーダーで何と噂されようと気にもしないのなら、それはそれくらいの価値しかないからなのではないか。

「・・・・・・私より太刀川君のが怒ってるね」
「春さんはスパイじゃねーし。てか、そういう顔のが俺はやだね」

じわりと距離をつめた。春が後ずさっていく分だけ、太刀川が詰め寄る。道路の端まで追い詰める。春が自分の顔を片手でなぞる。

「わたしは太刀川くんのそういうとこ好きだなぁ」

「・・・・・・・春さんってほんっと質悪い」

しみじみと、言われてしまっても太刀川は面白くもなんともない。この人は、割と本当にどうしようもない。迅と同じで。似ている二人は、だからこそめんどくささが倍化している。今朝、太刀川と顔をあわした迅はこの未来を視ただろうか?

「壁ドンってジャパニーズアニメの文化だって冬島さんが言ってたな・・・確かにちょっとときめく?かもしれない」

「はいはい、そーですか。すぐそうやって茶化すよなー」

壁ドンまがいついでに、耳元で「もうあれこれ馬鹿みたく悩んでねーでさ、俺といいことしよってば」とささやいてみる。春が半目になった。
「Language....」
「なんか言った?らんぐ?」
「言い方!紛らわしい!」
「何がぁ?俺はいつも通り誘ってるだけだし?なになに、春さん何想像しちゃったわけ?やらし〜」

春がした勘違いを迅もすればいい。ざまあみろだ。

「・・・・・・・・うぐ、」

春のスマホが鳴り続けている。春が、画面を確認して、ため息をつく。どうするのかな、この人。太刀川はじっと目の前にある表情の変化を探るように見つめた。一瞬、春の瞳がぐらぐらと揺れて、距離がつまる。鼻先が触れるほどに近づいた。誘われるように太刀川も顔を寄せてやる。はっと、春は腕を伸ばしてのけぞった。

「・・・・・・・・ごめん、やっぱり今日は、ちょっと無理そう」
「あっそ」

ぱっと、身体を離す。距離を開ける。キスでもできそうな距離だった。春はブンブンと頭をふっている。

「俺は別にいいんだけどさ」

迅にこれはきつかろう、とは思う。変なところで、踏み込まない奴だから。いや、先が視えるからこそ踏み込まないのか。思わせぶりがうまいところは、確かにスパイ向きなのかもしれない。確定されないんだよね、と。珍しくも迅が愚痴めいたものを太刀川にこぼす程度には苦戦している。
立ち尽くしていると滑るように、黒塗りの車が現れた。

「スパイ活動?いってら〜」と嫌味まじりに見送る姿勢をとると、高級車に乗り込んだ春は少し苦々し気に、口をへの字にまげていた。



翌朝、たまたま早出のシフトで本部にいた太刀川はS級作戦室にふらふらとやってきた春を目撃した。FBIのジャケットを着ている。サイズはぴったりのようだから赤井のものではなく自分のものなのだろう。着慣れたジャケットはよれて、少し薄汚れている。おぼつかない足取りが不安で、追いかけるように中に入ると、その恰好のままでソファに沈没していた。
「春さん?」声をかけた。が、反応は帰ってこない。泥に沈むように眠り込んでいる。
どこか疲れがにじんだ目元をつつく。むずがるような反応だけはあった。
縮こまるように体を丸めて、ソファで枕替わりにしている何かの真っ青な色が目に付いた。S級オペ用にと用意された隊服もどきだ。
大事に大事に、抱え込んで、春はそのまま眠り込んでいた。
太刀川がシフトを終わらせて、もう一度S級作戦室を覗いた時には、もう春はいなくなっていた。








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