外に出るという行動が億劫になるほど、目が眩むような眩しい太陽が顔を覗かせる晴れた日のことだった。もうもうと熱のこもる辺りの空気はじっとりとした汗が滲む肌にまとわりつき、素肌を焼く日差しは全く容赦がない。行き交う人々はそれぞれ日傘を差すなり風を送るなりしてそれなりの対応をしているというのに、日陰で茫然と立ち尽くす女は赤黒いワンピースを靡かせて空を仰ぐ。
 ああ、ついていないわ。――そう呟きを洩らしてペインは深く溜め息を吐いた。
 普段から武器の手入れや趣味の洋菓子作りに没頭している彼女だが、この日は気紛れに外に赴いてみせた。――というのもただ暇潰しにある男達の付き合いに乗ってやろう、という気紛れからだが、その猫のような気紛れさが不幸を呼んだのだろう。
 ペインは徐に――且つ無意識に――下腹部へと手を伸ばす。軽く擦って、腹を温めようという本能が手を動かす。鬱陶しいほどの太陽が煌々と辺りを照らして嫌になるほど暑いというのに、無意識のうちに染み付いた行動は簡単に取れないものなのだろう。
 女性特有の月のモノがひたすらに彼女の体を苛めた。特別悲しかったり残念であるようなことではない。男には到底理解できない腹の奥からくる鈍痛がただひたすらに襲うだけだ。その痛みには波があり、重いときと軽いときの二通りがある。今回のそれは、丁度境目辺りの――軽いよりも多少重い――痛みがペインの下腹部を叩いてくるようだった。
 その月のモノは食べるものによっては痛みの振り幅が変わるようで、どこかの誰かを彷彿とさせる甘いものを凝視しては、あの人ほどではない、ということを何気なく胸の内に留める。――とはいえ、体型や生まれつきでそれなりの差は生まれるもので、特別マシだとは言えないのだが――これがくるということは、今回も変わらずに健康体を維持できているのだろう。

「……ったく…………何やってるのよ、あの馬鹿二人は……」

 くしゃり。ワンピースの裾を握り締めてペインは小さく待ち人を恨んだ。こんな晴れた日の中、女一人を残して全く来る気配のない男達には気遣いというものが存在していないのだろう。――あったとしても、敢えてそれを見せないクズっぷりを発揮しているのだろうが――それすらも仕方のないことだとさえ思ってしまうのは、男女の差があるからだろうか。
 この腹の奥底から響く痛みと迫り来る吐き気は男には到底理解できない。特に知ろうともしない人間であればあるほど、女だけに訪れるこの苦痛は相手には伝わらないだろう。男女の関係にあればそれなりの理解はしてくれるのだろうが――根本的に体の作りが違うのだ。全てが伝わるとは思い切れない。
 所詮は到底分かり合えないのだ。男達には男なりの悩みがあるのを女には理解できないように、女の悩みを男達は理解できない。結局はそういう繋がりで、最早人ならざる者でなければ二つを解るなんてことできないだろう。道行くあの男女も、腕を組みながら花を咲かせる男女も、手を繋ぐことすら躊躇っている男女も、それぞれの悩みを抱えているものだ。
 ――それはいい。仮に女らしさを求められてもペインが武器の手入れをやめないのと同じよう、男に妥協できる点ならいくらでもある。だからこそ彼女は月のモノを理解しろなどとは言わない。ただ、多少の気遣いをくれれば気持ちは楽になるだろうが――それもまた強要に入ってしまうのでやろうとは思わない。
 だが、許せないことの一つや二つがあるのだ。
 それは特にこうして天気が良く、人の通りも多い賑やかになる場所でよく見かける。行き交う人を見守る中、目的の人間の到着を待つ間の一人でいる時間帯で発生するもの。少女漫画ならよく見かけるであろう軟派が、例に漏れずここでもやってくるのだ。
 その大抵が二人組以上。女を取り囲んで逃がさないようにする、という外道極まりないもの。彼らの計画なら連れ帰ってしまってお楽しみとやらが待ち受けているのだろう。
 ――そう、丁度ペインの目の前にやって来たにやけ顔の男達がまさにそうであるかのように――。

「ね〜お姉さん、今ひとり? よかったら俺達と遊ばない?」

 そうやって声をかけてきた男達は日陰で休むペインの正面を軽く覆うよう、ぐいと近寄った。顔は見慣れたものよりもいい方ではないが、だからといって悪いものでもない。敢えて言うなら「モブ」の顔とでも言うべきだろうか――良すぎず悪すぎず、目立たない地味な顔だ。軟派をする辺りそれなりの根性はあるようで、髪の色は染め上げており、服はどこかチャラついた印象を受ける。
 漫画やドラマのような展開にペインはひとり大きな溜め息を吐いた。はあ、と少女のような声色のそれが呆れがちに胸の奥から吐き出される。柔らかく綿菓子を彷彿とさせるような白い毛髪がほんのりと揺れ動き、服を握る手を軽く離しかける。
 普段ならばこれといって気に留めるものではないことはよく分かっていた。しかし、月のモノの影響だろう――入り乱れない筈の感情が微かに蠢き、妙に心拍数が上がるのを彼女は感じる。暇を持て余しただけの男達に抱く感情は「鬱陶しい」のただひとつ。女らしさを主張するようなヒールで軽く地面を踏みにじる。
 じゃり、と小石がぶつかり合う音が小さく鳴る。この手の類いのものは相手にするだけで疲労してしまうのだから、彼女は極力相手にしないよう顔を逸らした。これだけで相手にする意識がないことが伝われば幸いなのだが――相手は軟派な男だ。この程度で大人しく引き下がってくれる筈がない。
 寧ろその逆で、彼らはペインの手元を見るや否や、軽い気持ちで言うのだ。

「あれ? お姉さんもしかしてセーリってやつ?」
「かわいそ〜、もしあれなら来月は俺らが十ヶ月くらい止めてあげよっか?」

 なんてね。――と、意気揚々と話す言葉がペインにとって酷く耳障りだった。
 この手の類いの男は女のそれを酷く軽視しているように思える。ただか月のモノ、踞るほどの痛みなどヤラセに過ぎない――そう言われているような気がしてならないのだ。そしてごく自然に問題視されるであろう発言――所謂セクハラ発言――をして、女の神経を逆撫でてくる。
 ――こういった類いがひとりの女として気に食わなかった。十ヶ月止めるという発言は、軽率にペインを孕ませるなどということを指し示している。
 彼女も「女」である前にひとりの人間だ。伴侶を選ぶ権利くらい持ち合わせているつもりだし、何より好いている相手がいる。それこそ彼女がただ待っている相手のうちのひとりであり、男としてどうかと思う部分もあるが――好きでいられるほど想える部分も多々ある。
 そんな意中の相手以外に安易に言われてしまっては、傷付くよりも早く苛立ちが勝ってしまうのだ。
 特にこの手の場合はヤりたいようにヤって、いざ女が孕んでしまえばこちらの所為だと罵ってくる甲斐性なしばかり。最後の最後まで責任は負わず、ただ押し付けて逃げるだけの大馬鹿者でしかない。
 ペインは思わず口を出そうかと思ったが、挑発に乗ってはいけないと、元軍人ならではの冷静さがしっかりと己を制してくる。その気になれば彼女ひとりでこの程度の男など捻ることもできるのだが、彼女の服装はあまりにも薄い。万が一大きく動いてしまってそれが多く出てしまえば元も子もないだろう。
 そもそも月のモノが来ることが予定外でしかないペインは、未だ発せられる挑発的な言葉に対する反論を、奥歯で強く噛み締めることしかできなかった。周りの人間は自分の身が一番大事で、こちらを見ているような気がしてはふ、と目を逸らされる。当然それを咎めようとは思わないし、助けを求めようなどと考えたことはない。
 ただひとつ。彼女の言う「馬鹿二人」が来るか――、彼女の敬愛すべき兄が近くに居たらよかったのに、と思うことはあった。そうすればこんな面倒な相手はしなくて済んだのにと、苛立ちを覚えることはなかったのにと思ってしまうのだ。

「……お姉さん聞いてんの?」

 不意に顔を逸らし続けたペインの手を男がぐっと掴み上げた。突然のそれに彼女は声を上げかけたが、自尊心と苛立ちがそれを押し殺しひとつの決断を下す。
 ――出ちゃうのは不快だけれど、仕方ないわね。
 そう強く睨みを利かせて体勢を整えたとき――、彼女の目に黒い衣服が飛び込んできた。

◇◆◇

 茹だるような熱が億劫だと思える頃、二人は荷物を片手に笑い合っていた。手元には手の大きさほどのチケットが二枚。カラフルな色に染まったそれは、スイーツ食べ放題の字が刻まれていて、彼らは整った顔に笑みを浮かべる。

「一発で当てるとか天才かよ」
「だろぉ? もっと褒めてくれてもいいんだぜ」

 濃紺の髪に青のメッシュが印象的な男――アウディンはチケットを二枚、軽く揺らして自慢げに胸を張る。よくよく見れば一枚につき二人一組のペアが有効のようで、それを二枚手元に納めている彼はそれを口許に寄せる。それを見かねたノーチェは白い髪を揺らしながら、「最高」と言った。

 特別用はなかったが、待たせているであろう彼女の為に気休め程度の飲み物を買ったアウディンは、くじ引きの券をノーチェと共に受け取った。くじ引き――と言うよりは福引きの方が相応しい――は、取っ手を掴み、箱を回して当たりの玉を出すだけの簡単なもの。外れは勿論ポケットに忍ばせられる手軽なティッシュで、一等賞は旅行券だった。
 その景品の表示に目を奪われたノーチェは、「二等が欲しいんだけど」と掲示板を指差して言う。そこにある彼の言った二等賞は、アウディンが今手元に納めているスイーツ食べ放題のチケットだ。アウディンやノーチェは特別甘いものが好きだと声を大にして言うほどではなかったが、思い当たる節はある。アウディンが待たせているであろう彼女や、ノーチェが思い浮かべているであろう人物は恐らく甘いものが好きだ。
 ――と言うのは、些か語弊がある。彼女は趣味で洋菓子作りをすることに没頭することがあるだけで、彼女も特別好きだと言うほどではないのだろう。特にノーチェの相手と比べてしまえば、女の甘いもの好きなどたかが知れているというもの。
 ――だが、それでも待ち侘びているであろう彼女への詫びにはなるだろう。

「当たればいいんだけどな」

 そう言ってアウディンはノーチェに荷物を押し付け、券を係員に渡した。チャンスは一度きり。イカサマなどのしようはない。彼は持ち手を掴むと、軽い気持ちでそれを狙う。カラカラと心地のいい音色が程好く耳に届く。それをどこか緊張した面持ちで見守る二人は、出てきた玉の色をじっと見つめた。

「……金……色?」
「おおおめでとうございます〜! 一等賞です!」

 カランカランと耳障りな鐘の音が強く鳴らされた。光に当てられて輝く金のそれは紛れもなく一等の旅行券を指し示しているようで、「はい」と手渡されたそれにアウディンは茫然としてしまう。覚束無い足取りで、何がなんだか理解できない様子の彼は、狙ったものが何だったのかと首を傾げた。
 不思議そうな顔をしたのはアウディンだけではない。荷物を持たせたノーチェもまた同じような表情で、混乱を隠せずに立ち尽くす。「旅行券だって……」に「……そうじゃねぇよ」と落胆の声。一等賞を当てたとは思えないほど、可哀想な声色だった。
 彼らが目をつけていたのは二等賞だ。それはそれはこの街で有名なスイーツ食べ放題のチケットだ。それを有り得ない運の良さで回避してしまい、あろうことかアウディンは旅行券を当ててしまった。出掛けるくらいの付き合いはしてくれる相手ではあるが、旅行ともなれば話は変わってしまうかもしれない。
 がっくりと肩を落とす彼らは、彼女――ペインが旅行券で手を打ってくれるかどうかの考えをした。特にノーチェはアウディンが当ててくれたら行く予定だった楽しみの計画を台無しにされてしまい、口を閉ざさるを得ない。
 誘えばきっと大きく喜んでくれただろう。趣味の洋菓子作りに精を出すことも覚えてくれただろう――それを打ち消してしまった彼らは、ただ項垂れたままそこに立ち尽くしていた。
 その後ろで響く味気ない鐘の音――彼らが狙っていた筈の二等賞がとあるひとりの少年の手に渡ってしまう。ぼうっとそれを横目で見ていた彼らは、喜んでいる筈の少年の表情がどこか暗い様子を見かねて、咄嗟に駆け出した。

「ねえ、そこの少年! よかったらその二等賞とこの一等賞交換してくれない?」
「……えっ」
「これだけで駄目ならアイスひとつやるから」
「待ってそれ俺の」

 嵐のように迫った二人の大人に、少年は一度たじろぐと、目を輝かせて「いいの!?」と声を張る。おおかた少年は親のために狙っていた筈の旅行券を目の前で失ってしまい、代わりに二等賞を得てしまったのだろう。その予感は的中したようで、少年は「返してって言っても返さないよ?」と言うと、その二枚のチケットをぐっと二人に差し出した。
 勿論言わないよ。アウディンはそう言って自分が当てた旅行券を手渡す。「どうせならアイスも持っていけ」とノーチェは袋からそれを取り出すと、少年は喜んでそれを受け取って立ち去ってしまった。「いや何渡してんの」という声に、「別にいいだろ」と味気ない声色。――まあいいけど、と目的のものが難なく手に入った彼らは足早に彼女が待つ場所へと向かったのだ。

 誘うべき人物が増えたことにアウディンは口許に手を当てて考える。「そういやあの人は元気?」と上機嫌のノーチェに向かって問い掛ける。相手は勿論、ノーチェの想うべき存在だ。アウディンの問いにノーチェは「おう」と笑うと、じゃあこれは大喜びだな、と彼も笑う。
 待っている彼女は一体どのような様子で喜びを露わにするだろうか。嫌になるほどの晴れた空の下だ。涼しい店に向かえば気持ちが大きく揺れ動く可能性はある。加えて有名なスイーツの取扱店だ。それを伝えれば彼女はそれなりに喜んでくれる筈だろう、と胸の奥が僅かに高鳴ったのが分かった。
 それはノーチェもまた同じこと。連れ回すには少し負荷のかかる晴天だが、とびきり甘いものが好きな相手は明らかに喜んでくれるに違いない。元を取るほどの食べ尽くしてしまう勢いでそれを食らうのだろう。彼はそれを目の前で見ているのが好きで、つい表情が表へ出てきてしまう。
 ――いずれにせよ出掛け先で喜んでくれる可能性を見出だせたのだ。彼らはペインの待つ待ち合わせ場所に、軽い足取りで辿り着いた。

「く……クレベルさん……?」

 ぽつり、小さく呟かれた言葉にノーチェとアウディンは反射的に壁の陰へと隠れる。彼らの目線の先には小柄のペインと、二人の男――その間を割り込むように入った黒衣の男がペインに伸ばされた手を強く握りながら仁王立ちしている。――クレーベルトだ。
 最初こそ彼らはペインがクレーベルト相手にそれなりの愚痴を洩らしたのかと咄嗟に隠れた。女が晴天の下、ひとりでポツンと待たされている気持ちになれ、と彼なら説教染みたことをしかねないと思ったのだ。
 しかし、見れば見るほどそれは予想とは違った光景が広がっていて、彼らは思わず陰から身を乗りだし、状況を見守る。辺りに漂う雰囲気は恐ろしいほど冷たく、肌を刺すようなピリピリとした違和感さえも覚えた。「なあ、あれやばいんじゃねえの」と、誘う手間が省けたと思う前に口をついて出る言葉。ノーチェは咄嗟に飛び出しかけたが――一歩遅く、男がじろりとクレーベルトを睨む。

「お兄さんもしかしてお姉さんの彼氏さんっすか〜?」

 状況と事態を把握できていないような軽い口調。ペインは思わず「違うわ」と言いかけたが、それよりも早くクレーベルトが「違う」と呟きを洩らす。その声色は寝起きのように低く、強い殺気を含んでいるかのように冷たい。彼は怒りを抱いているのだ、と思うには時間など必要なかった。

「じゃあ邪魔すんのやめてくんない? 俺らそこのお姉さんと楽しくお喋りしてただけなんだよね〜」

 ぐい、と思い切り自分に向かって手を引いて、男は掴まれていた手を引き剥がす。恐ろしいほどに熱を覚えるというのに、クレーベルトはファーコートのフードを目深にかぶり、片手はポケットの中へと入れられている。世間の一般論を少しずつ噛み砕いて呑み込んでいるのだろうか――彼は愛用の手袋をはめてはおらず、白い肌をさらけ出したままだった。
 黒い爪がゆっくりと下へ降りていく。挑発的な言葉にクレーベルトは耳を貸すこともなく、ただ唇を閉ざしたまま静かに吐息を洩らす。その後ろ、ペインは茫然とその後ろ姿を見上げたまま、動かずに立ち尽くしているだけだった。彼女も彼女で状況が上手く処理しきれないのだろう。
 彼女に対するナンパに駆け付けてきたのは兄でも、恋人でもない――とある番犬。全身を影や闇に溶け込むような黒でひた隠し、肌の露出を極力避けた飾り気のない服が目につくほどに特徴的な人物。自らを人ならざる者と称し、その実力と魔力の強さは未だ底知れないものを抱え込んでいる。氷のように冷たい赤色の瞳は、とある事件以来見ることはなかったが――相も変わらず感情の薄い瞳をしていた。
 本来ならば関わり合うことのなかった存在。それが今、ペインを庇うように静かに佇んでいる。彼の他人への優しさは健在なのだろう――そう思うと、酷く懐かしい感覚がした。
 ほう、と形のいい唇から息が洩れる。言葉という悪意をものともせず、クレーベルトはただ対峙している。その分の苛立ちを彼らノーチェとアウディンが背負うかのように、見つめる瞳が酷く冷めていくのが見てとれる。
 言葉の挑発に乗らないクレーベルトがつまらないのだろう。男は口々にこう言った。

「もしかしておにーさん、片想いだったりする? だからと俺らの間に入ったとか?」
「俺らはただほら、おねーさんがセーリってやつで苦しそうだから助けてあげよーって思っただけなんだよね。ほら、女って大変じゃん? 子供産むための準備だか知らないけどさ、毎月そうなるらしいじゃん?」
「だったら俺達が止めてあげようって思ったんだよねー。優しいでしょ?」

 聞いていて不快になるだけの言葉が次々とクレーベルトに向けられた。その後ろのペインはやはり女としての感情を胸に掻き抱く。ここまでクズっぷりを見せ付けられて言い返せないほどの小心者でも、おしとやかでもない。一発ぶん殴ってやろうかしら、と何気なくよそ見をすると、彼女は不意にそれを見つける。
 声が届かないところではない。しかし、満足に会話が聞こえるような距離でもない。――だが、彼らもまたそれなりの経験を積んでいるのだ。チャラついた見た目の男達が何を言ったのか分かったのだろう。彼らは――特にアウディンは――今にも人を殺しそうな目付きをしている。
 ――あいつら、あんなところに。
 呆れた。ペインが溜め息を吐くと同時、ノーチェの目の色が変わった。見ればクレーベルトの肩に手を回し、男が顔を近付けて口を開く。

「おにーさんは可哀想な女を気遣ってあげられるような感じじゃないもんねえ」

 ノーチェの耳にそれが届いたとは思えない。しかし、人一倍の独占欲を持っている彼の行動は早かった。陰から出てきて駆け出そうと足を踏み出す――。

「――喧しい!!」

 ――刹那、発泡されたかと見紛うほどの心地好すぎる破裂音が鳴り響いた。騒がしかった街はそれを切っ掛けにすっと静まり返り、視線は全てクレーベルトへと集まっている。その姿は勿論、すらりと伸びた長い手のひらで平手打ちを食らわせたままの状態だ。そこに加えられた力はやはり彼を人間ではないと裏付けるようなもので――平手打ちだというのにも関わらず、叩かれた男は拳で殴られたような錯覚に陥る。

「あっちゃん!? あっちゃぁあん!!」

 ぐらりと世界が一変するような目眩をノーチェとアウディンは覚えた。そこにあるのは怒りではなく、焦りと一粒の恐怖。「はわわわわ」と口許に手を当てて、露骨な苛立ちを見せ始めたクレーベルトへ恐れを抱く。
 庇われたペインも一瞬何が何だかを理解するのに時間がかかった。周りの人間は野次馬と化す前にクレーベルトの鋭い眼光を見るや否や、そそくさと立ち去っていく様子が窺える。蹴るのではなく、叩く――予想もしなかったクレーベルトの行動に、ペインもまた目を丸くする。
 ゆらりと姿勢を正したクレーベルトは男達を見据えた。獣のように鋭い瞳は細められ、彼らは蛇に睨まれた蛙のように身動きが取れない。――特に平手を食らった男は状況も理解できないまま、瞬きを繰り返している。その目に何を思ったのか、クレーベルトは露骨に舌打ちを打ち鳴らした。

「先程から聞いていれば下らん戯れ言ばかり吐きやがって……」
「ひいっ!?」

 一歩また一歩と踏み出してクレーベルトは無事である男の胸ぐらを掴み上げる。

「生理だ、十ヶ月くらい止めるだ、彼氏彼女だ……俺が黙って聞いていればよくもまあデリカシーとやらがないことばかりをつらつらと吐き出せるものだな、あ? 貴様らは一体どういう教育を受けてきた? 貴様らの母親だってこうして腹を痛めていたことくらい解るだろう? 大体男の貴様が女の何を語れると言うのだ」

 低い声が激情に揺さぶられている。男は必死に弁解をしようと、徐に口を開いた。

「あ、あんただって男」
「誰が口を開いていいと言ったんだ!」

 そうして再び飛んでくる平手打ち。パァン、と晴れ晴れとするような心地のいい音に、ペインはハッとする。一般人相手に少々やりすぎだと、徐にクレーベルトの服の裾を掴む。多少宥めればいい。後始末は後からやってきた男二人に任せればいいのだから。
 「やりすぎよ」――そう静かに彼女はクレーベルトに伝えた。彼はゆっくりと振り返ると、怒りに満ちた瞳をペインに向けてしまう。彼女が恐れ戦く様子はない。――だが、下腹部に添えられた手を見て、彼は「四つん這い」と呟く。

「……?」
「すまない、ペイン嬢。気遣いが足りなかった。立つのは辛いだろう?」

 彼女が小さく首を傾げていると、クレーベルトは掴んでいた男の胸ぐらを離し、地面へと叩き付ける。理解が追い付かない男は目を丸くしたが、クレーベルトはペインに向ける目付きとはまた違った瞳でそれを見下ろし、「椅子だよ」と一瞥する。
 ――やらなきゃ殺られる。
 そう思った男は反射的に手のひらと膝を地面に突けて四つん這いになった。場所は勿論日の当たらない日陰で、クレーベルトはその出来を見ると彼女に柔らかな表情を浮かべる。その傍らで、始めに殴られた男が音もなく気を失った。

「座るといい」
「残念だけど遠慮するわ」

 彼の投げた言葉にペインは遠慮もなくはっきりと断りを述べる。ただでさえ月のモノが来ているというのに彼女は殆ど布一枚と言っても過言ではない服装なのだ。更に言えばそれは先程まで自分をどうにかしようとしていた輩。人間椅子に興味など湧かないペインは、立っている方がマシだと言う。
 敢えて言うなら多少の情けであった。加減を知らないクレーベルトの平手打ちはひとりの気を失わせるほどの威力がある。目の前でそれを見届けた彼女には、仮にそれに座るという意志があってもさっさと逃がしてやりたい気持ちになる。
 それをクレーベルトはどう捉えたのか――、一度首を傾げ口許に手を当てると考えるような素振りを見せる。ワンピース調の柔らかな服装、色の白い肌、男女の性別――それらを踏まえた上で、彼は思い付いたように「ああ、」と呟くと、徐にペインの手を引く。
 不意に訪れた目の前の光景に、彼らはぐっと笑いを堪えた。

「その服装でこれに直接座るのはよくないな。これで勘弁してくれ。あ、アウディンには弁解してくれると有難い」

 クレーベルトが彼女の手を引いた後、椅子と化した男の背に容赦なく座る。ゆっくりではなく無慈悲なまま思い切り腰掛け、自らの膝の上に彼女を座らせる。男の背中よりは自分の膝の上がマシだと思ったのだろう――集める視線の数を数える前にペインが思考を投げ出した。
 まるで子供に対する扱いに男が二人肩を震わせてくつくつと笑う。それを見つめるペインの瞳にはただの虚無、「私は石像だ」と言わんばかりの無だけが広がっている。その頭の片隅で後で二人を殴ろう、という意識を追いやりながら彼女は「ここまでしなくても」とクレーベルトに呟く。
 ――しかし彼はそれを良しとはしなかった。徐にペインの肩に頭を置くと、クレーベルトは恐れるように言う。

「……そんな筈はない……俺は、そこら辺の男よりも遥かに理解しているつもりだ。だから……こんなものは大袈裟なんかじゃない」

 自分よりも遥かに小柄で細い体に彼は恐怖さえも抱いた。その声が妙に落ち込んでいるのはペインの気のせいではないだろう。彼女は肩に寄り掛かる頭に手を伸ばし、軽く撫でながら「くすぐったいわ」と宥める。彼が言うものは周りのものよりも遥かに説得力があって、事情を知るペインはクレーベルトが小さな子供のように思えた。

 彼の存在はあまりにも不安定だ。不意に現れる霧のように微かで、波打つ水面のようにゆらゆらと揺れやすい。更に相手の強い気持ちによっては性別さえも越えてしまうという体だ。彼もまた、「女」としての経験を多少なりとも積んでいる。
 クレーベルトのそれはあまりにも酷かった。力が落ちた体に襲い始めた激痛はペインの知るものの非ではない。無表情で且つ何にも動じない筈のクレーベルトが、強烈な鈍痛に意識を奪われてしまったのだ。
 張りの増した下腹部。何をしても取れることのない鋭い痛み。動くことはおろか、呼吸さえも投げ出したくなるほどの激痛がクレーベルトにはやってくる。当然の如く流れる血液は赤ではなく闇が溶けたような深い黒。その喪失感はペインが知っているものと似ているようで僅かに違う。
 女はそれが当たり前だった。月に一度、一週間のそれが来るということは常に認識している。――しかし相手の意思によって性別を変えられるとはいえ、彼は根っからの男だ。経験のない痛みと血液を失い続ける感覚は恐怖の何ものでもない。
 初めてそれを経験したクレーベルトはいの一番にペインの元へと向かった。男ではない、女の元へ。勿論彼は男であるときにそれがなかったことは把握済みだ。それを踏まえてペインの元へ向かったのは間違いではなかったのだろう。
 彼は女が強いものだと理解した。力こそは敵わないが、抱えているものが違うのだと身に沁みた。――同時に絶え間ない孤独感に苛まれ、無意識のうちに涙を流してしまったことは、彼女だけの秘密だということになっている。

「俺は恐ろしいと思っている。誰にも理解されない痛みと戦うのは、結局は自分ひとりだ。そんなことも知らずに俺は……俺達はのうのうと生きている。労るべきだ……労る、べきなんだ」

 彼は終始それを恐れるような口調で言葉を紡いでいた。「どうか無理をしないでくれ」と蚊の鳴くような声量は、今までのクレーベルトからは想像もつかない。何気なく撫でているこの頭に触れるのは本来ならば有り得ないこと。何もかもを独りで抱え込もうとしているこの大きくて小さな体は、精神的な面においては負担でしかないだろう。
 ペインは瞬きをひとつ。「大丈夫よ」と言って椅子の存在も忘れて酷く落ち込むクレーベルトをただ宥める。

「貴方が理解してくれただけでも十分だわ。だから、そういうのはデリカシーのない、あそこにいる馬鹿二人に任せておけばいいの」
「……ん?」

 宥めながら指を差す先、ハッとした表情のアウディンとノーチェが肩を震わせる。バレていないと思ってはいなかったが、まさか露骨に指し示されるとは思わなかった、と言いたげな表情を浮かべている。手元にはひとつの袋と、二枚の紙切れを握り締めていて、軽くひきつった口許を隠すよう、手で笑いを抑える。
 人混みを掻き分けるように彼らはペインとクレーベルトの元に近寄ってきた。「何だ居たのか」とクレーベルトはペインの体に回していた手を離し、彼女を開放する。ふわりと音も立てないような振る舞いでペインは地面に足を着けると、そのまま近付いてきたアウディンの頭を叩く。

「いって」
「何待たせてんのよ。お陰で変なものに声をかけられたでしょ」

 はあ、と彼女は腰に手を当てながら深い溜め息を吐いた。「悪かったよ」そう言って悪びれる様子もなく微笑みを浮かべる彼の様子は、ほんの少し狂気のようなものを感じる。クレーベルトはただ茫然とその表情を見つめていると、その暗い瞳と目が合った。
 「ボス」と聞き覚えのあるような単語がアウディンから洩れる。それにクレーベルトは小さく首を横に振って、「違う」と悲しげに呟きを洩らした。

「――ああ……特に下心があるわけではなかったのだ。ペイン嬢に迫ることはしないでいただけると……」
「あ、大丈夫。全部見てた。一部始終じゃなくて、始めから最後まで」

 自分の軽率な行動から彼女が責められることを恐れたのか、クレーベルトは徐に席を立つとアウディンに向かって軽く頭を下げる。以前は頭を下げる立場ではなかった筈の存在に、一度だけ面食らうとアウディンは咄嗟に手を振って顔を上げてほしい旨を伝える。
 それにクレーベルトが従ってゆっくりと顔を上げると、妙に奇妙な感覚に陥った。――この大きな存在はこんなにも弱かったのかと、人間としての差を知ったような気がした。慣れないという晴天の下だからだろうか――、その肌の色は青白く、不安げな目線はゆっくりと地を這って視線の矢から逃れたがっているように見える。
 一体彼は何に怯えているのだろうか。
 不意にクレーベルトを視線から逃すよう、彼の傍にノーチェが近付いた。「変に触られてねぇだろうな」と体に頻りに触れては眉間にシワを寄せて唇を尖らせる。頭を撫でて頬に手のひらを添えると、クレーベルトの顔にあった不安な色が拭われたような気がした。

「大丈夫。ペイン嬢に変に手を出そうとしてる蛆虫が居たのでな……」

 つい手が出てしまった。そう言葉を置くと、クレーベルトは徐にそれに視線を向ける。怒りに身を任せ屈服させたとあるひとりの男――それに「座り心地が悪い」と冷たい目線を送れば、男は逃げるように立ち去った。石畳に膝を突いていた時間こそは長くはなかったものの、痛みと違和感は感じられるものだろう。それを意に介することなく男は項垂れる友人を引き摺って行った。連れを置き去りにしないその誠意は褒められるものだろう。
 ほう、とクレーベルトは深い溜め息を吐く。かぶっているフードを掴んで目元を隠すように彼は目を伏せる。眩しいと言わんばかりのその行動にノーチェは一度帰宅を促そうとしたが、――咄嗟にアウディンが握るそれに目をやる。体調はいいとは言い難い。しかし、誘わなかったときのクレーベルトの機嫌を思えばどうにかして誘うべきなのだろう。
 無理強いはさせるべきではない――頭で解っていながらもノーチェは徐に口を開く。

「なあ、ベル……体調悪いか?」

 恐る恐る彼はクレーベルトの顔を覗き込みながら小さく呟く。顔色は元が白い所為でよりいっそう青く見える。触れれば分かる肌の冷たさにノーチェは懸念をひとつ。チケットの有効期限はまだ日がある筈、とノーチェは横目でアウディンを見る。
 彼は既にペインへそれを伝えたようだった。流石の彼女も待たされた詫びとしてそれを受け取ったらしく、「ここ最近よく聞くお店の名前じゃない」と物珍しそうな声色を上げる。じっくりとそれを眺めてふぅんと呟きを洩らした後、不意にクレーベルトへと振り向いてひらりとそれを翳す。

「クレベルさんも勿論行くわよね?」

 当然と言わんばかりのその様子にクレーベルトは目を丸くした。何気なく傍らに居るノーチェに目を向けると、彼は軽く頬を掻きながら「当てたんだよ」と呟く。
 ここ最近名前をよく聞く有名なスイーツ店のものだ。勿論クレーベルトもそれを重々承知していて、体の調子が戻ればいつかは言ってみたいとばかり思っていた。――しかし、クレーベルトにとってこの世界はただの刃そのもので、その願いが当分叶うものではなかったのだろう。
 その店で一番有名なものは誰もが目にするであろうイチゴと生クリームが特徴的のショートケーキらしい。一見素朴で作るのに苦労しないもののように見えるが、その分味に拘りを持った自慢のもののようだ。かくいうクレーベルトは味に拘ったことは一度もないが、話を聞く限りそれを食べてみたいと常々思っていた。
 ――その機会が目の前にある。
 彼は目を丸くしながらほんの少し嬉しそうに口許を緩めた。――それだけに限らず、それなりにクレーベルトと接したことのある彼らはクレーベルトの纏う雰囲気が柔らかくなったのを感じる。時折花が溢れ落ちるような錯覚を覚えるのだが――強ち見間違いでもないのだろう。
 しかし、ノーチェは彼の顔を見上げながら「無理しなくていいんだぞ」と語りかける。

「まだ期限あるしさ」
「体調が悪いなら無理はよくないわ。今日のところは二人に行かせて、私達は後日でも十分だし」
「……えっ、待ってそれ誘ったの俺なんだけど」
「庇ってくれたのはクレベルさんよ」

 お礼はしなきゃ人としてダメでしょう。――そんな声が聞こえてくる。クレーベルトは遠慮がちに「俺も行っていいのか」と訊くと、おずおずとペインを見やる。その目はやはり彼女の体を心配しているのだろう。

「大丈夫って言ってるでしょ。いい? 私達はもうそういうの慣れてるの。今更そんな風に見られなくったって、ただの思いやりだけでも十分嬉しいのよ」

 そんな彼にペインは腰に手を当てながら「やれやれ」とでも言い出しそうな表情でクレーベルトを見据えた。その傍らではアウディンがやけに不服そうな表情を浮かべている。――それを察したのだろう。ペインが女にしてはやけに素早く彼の脇腹に肘を食らわせ、アウディンの表情が歪む。「うっ!?」と驚くような、痛みに呻くような声が聞こえた。
 付き添いで来るのが誰であれ、彼らは同じような行動を取るのだろう。それが例え、相容れなかった相手だとしても、今という時間だけは過去を忘れさせてくれるに違いない。
 「相変わらずだな〜」そうノーチェが何気ない声色で呟いた。――すると、不意にクレーベルトがノーチェの服の裾をつまむ。親指と人差し指で挟んで、控えめにつん、と引いた。それに気が付いたノーチェは痴話喧嘩のように言い合いをするペインとアウディンから目を逸らすと、「どうした?」と問う。
 彼の声は優しかった。それは最早「友達」に向けられるものではない。甘く柔く、蕩けるように身に染み渡るような、クレーベルトの様子を窺うもの。その言動から自分に対する想いを感じながら、クレーベルトは「敵わんな」とぽつり呟く。

「参った……女は強い。俺はもう、足元にも及ばないよ」

 くすりと苦笑を洩らし、彼はふと顔を上げると「ついて行っても平気か?」と問い掛けた。




おまけ
「ノーチェお前そんな食うの?」
「いや、これは全部ベルの。向こうの端から端まで頼まれたやつ」
「マジか」
「……このケーキ…………なかなかやるわね……」
「…………んまい」
「ボスまだ食うの……?」
「ボスじゃない。食う」
「いっぱい食えよ〜」

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