取引と協力

 ――思えば幼い頃から夢に見るものがあった。
 視線は高く、話す声は低く。見たこともない景色がそこに広がっている。背中で風を受け止め、視界の端にカーテンを映しながらじぃっとそれを見つめた。目の前には見知らぬ親子が居た。寝具の大きさ、そして親子が着る服――それらを見る限り、とてもいい暮らしをしているのだと分かった。
 どうしてかそれがいやに憎たらしく、彼はそれに手を掛け、躊躇なく息の根を止める。初めは煩くなるであろう子供から、奇声を上げる母親に、母子を置いて逃げ腰の父親を殺した。
 不思議とその錆びた鉄の香りが嫌いではなく、持ってきた鉈でひたすらに子供の腕を切り落とす。柔らかな肉が鋭い刃に切り裂かれ、骨まで当たるとゴリゴリと音を立てて動きが遅くなった。漸くそれを成し遂げたとき、腹の奥がくぅ、と鳴るのだ。
 彼は切り取ったそれを断面から口に含む。滴る赤い鮮血を舌の上に転がし、血生臭い生肉をゆっくりと頬張る。人間のものとは思いたくもない彼の口が、酷く鈍い音を立てながら骨を噛み砕く。それは、まるでクッキーのように、彼は躊躇うこともなく、食への執着をひたすらに噛み締めていた。
 ――丁度その頃だろう。彼の居る部屋の扉がきぃ、と音を立てて開いたのは。
 目の前に居たのは彼の腰ほどの背丈しかない、やけにみすぼらしい姿の子供だった。目元に隈があり、体は痩せていて心なしか骨が浮いて出ている。そして、その背丈に見合わない小さくぼろい服は子供の膝もろくに隠せず、チラチラと覗く痛々しい傷痕が印象的だった。
 正直喰ったとしても美味いとは思えない――それが彼の感想だ。
 月明かりに煌めく金の髪を揺らし、青と金の瞳で子供を見つめながら彼は徐に手を伸ばす。――すると、突然鋭い痛みが走り、彼は手を引き戻した。見れば掻き傷が手首にあって、子供は肩で息を切らしながら彼を睨む。
 恐らく子供の小さな抵抗だろう。自分も喰われると思ったのか、警戒の意を示していて、こちらに近寄ろうとはしなかった。彼は何故かその子供の正体を知っているようで、口を開いた。――口を開いて言葉を発していたのだ。
 何を言っていたのか今ではもう思い出せない。しかし、夢の最後は決まってその子供が彼の言葉を信じないと、彼自身が窓から身を乗り出すのだ。そうして驚いた表情を浮かべる子供ににっと笑ってやって、呟く言葉がある。

「――――――」

 丁度言葉を発した直後、決まって目が覚めていた。痛々しかった手首の傷は、目を覚ますとどこにもなく、彼は訝しげに目を細めていたのだ。

◇◆◇

「ん……ぅ…………」

 ちらりと覗く眩しい日差しに、彼は呻きながら目を覚ます。視界には見慣れない天井、体を覆うのは見知らぬ布団。――しかしそれは、普通の暮らしをしていては到底ありつけないであろういい質をしていて、彼は思わず二度目の眠りに就いてしまおうかと思ってしまった。
 しかし、彼の記憶に残る真新しいものがそれを許さなかった。彼は咄嗟に起き上がり、布団を押し退ける。傍らに居座るその存在に気が付くこともなく、顔を手で覆いながら状況の整理をしようと試みた。
 すると、傍らに居座るそれが小さく笑う。

「おはようございます」
「…………ん……?」

 澄んだ声が彼の耳に届く。凛としていて、しかし子供らしさを持った、耳を擽るような可愛らしい声色だ。それは、少年とも少女とも、どちらとも言いきれないものだった。
 彼は徐にその声のした方を見ると、目の前には物腰が柔らかそうな少女が彼を見て深く微笑む。灰色の長い髪は柔らかなツインテールに纏め、極めて露出の少ない衣服を身に付けている。スカートから覗く足は白いタイツに覆われていて、露出が認められるのは子供の丸みを帯びたその顔だけだ。
 何かを隠しているのだろうか。少女は片目を前髪で隠していて、彼はそれを見てぼうっと思考を巡らせる。ここがどこだとか、目の前の少女が誰だとか、そんなことよりも先に思ったのは――隠れている片目の色が何色なのかという疑問だった。

「体調はどうですか? 三日間も眠っていましたよ」

 少女は微笑んだまま彼の額に手を伸ばす。――払われると思って多少身構えていたようだが、彼がその手を受け入れるのを見て、少女は数回瞬きをする。「警戒しないんですか?」その一言に彼は瞬きをすると、自分を隠すように柔らかな微笑みを浮かべた。

「だって君は何もしなかったでしょ」

 ――なんて薄っぺらい言葉を乗せる。
 少女は茫然と彼を眺めた後、「覚えていたんですね」と言った。その顔は酷く嬉しそうで、何がそんなに嬉しいんだか、と彼は心中で呟く。近くに椅子を寄せて本を読んでいたようで、少女は片手に携えた本を机に置くために立ち上がった。
 ぎ、と床が微かに軋む。それなりに年季の入ったいい建物なのだろう。ほんのりと漂う桧の香りに、彼はほう、と息を吐く。少女の仕草や立ち振る舞いは淑女そのもので、年相応に思えないその所作は彼の中の常識を覆す。子供の割にはどこか痩せているように見えるが、彼は少女が美味そうだと認識する。――すると、くぅ、と腹が鳴った。
 「空気が読めねぇな」と彼は心中で悪態を吐きながら徐に腹部を擦る。成人にしては多少痩せてしまった程度だが、全くもって問題のない体は異常な食欲を湛えている。「喰らえ、喰らえ」と頭の奥底で彼の中の暴食≠ェひたすらに誘惑していた。――目の前に居るそれを喰らえ、と。

「お腹が空いたんですか?」

 不意に本を片付けた少女が振り返る。彼はハッと意識を取り戻すと、「三日も寝てたらしいからね」と遠慮がちに微笑む。少女は特に何かを気にする様子もなく、両手を合わせながら「元気なのはいいことですね」と彼を咎めようとはしなかった。寧ろ少女はそっと彼の顔を覗き込みながら「嫌いなものはありますか?」と訊いた。
 彼はそれに多少の疑問を抱きながら、「これといってないよ」と口を洩らしたのだった。

◇◆◇

 彼の目の前に用意されたのは、明らかに一人では食べきれないであろう量の食事が並べられている。彼はそれにひとつひとつ、且つ丁寧に食べ進め、着々と皿の上を空にする。少女はそれを嬉しそうに彼の向かいからただ見つめていた。
 新しい食事を運ぶのはメイド服を着たいやに美しい――しかし、どこか仄暗さを持ち合わせた女だった。彼の食べ進める量に臆することもなく新たな料理を運ぶと、空になった皿を片付ける。
 ふと彼が横目でそれを見ると、目が合った気がした。何気なく彼は微笑んでやると、顔を赤らめ、女はそそくさとキッチンへ戻る。――それを、少女とボディーガードの男はじっと見つめていた。

「……体に見合わない食事量ですね……」
「ふふっ」

 呆れがちに呟いたのは彼と対峙したあの男だ。相変わらずのスーツ姿に堅苦しささえも覚えてしまうが、ボディーガードというならば当たり前の服装なのだろう。その隣では少女が彼の食事に惚れ込むようにほぅ、と吐息を吐く。
 ナイフとフォークを手際よく使う様や、口許を拭う動作など、汚れていた見た目にしては綺麗すぎる所作に意外性を感じたのだろう。彼は表情ひとつも変えることはなかったが、「これ美味しいね」なんて言って稀に感想を伝えている。
 「見ているこちらのお腹が空いてしまいますね」なんて、少女が片手を頬に添えて呟いた。彼はそれに「食べる?」と訊いて料理を差し出すが、少女は首を軽く左右に振る。お腹いっぱいです、なんて遠慮するようにそれを彼に返す。
 それに彼は何を思ったのか、「そうだよね」と差し出した料理を手元に戻すと、徐にナイフとフォークを巧みに使い始める。

「君はあんまり食べなさそうだから、丸々差し出されたら食べにくいもんねぇ」
「……えっ」

 橙とも言い難いサーモンの刺身に食感のある玉ねぎをナイフで綺麗に巻いて、フォークに刺すと彼は片手のナイフを置く。そしてそのまま多少距離の空いた向かいの席に居る少女にそれを差し出すと、「あーん」と言った。
 少女はそれに戸惑いを覚えると、手作りのカルパッチョから滴るソースが皿代わりに用意された彼の手に落ちる。テーブルに身を乗り出して与えようとする様は行儀が悪いとも言えそうだった。――ぽたり、と落ちるソースに彼は痺れを切らしたのか「早く」と言う。
 少女は不機嫌になりかけた彼の声に後押しされるように、咄嗟にそれを口にした。酸味のあるソースがつんと鼻の奥を突く。そのあとに来る玉ねぎの食感と、意外にもあっさりとしたサーモンが同時に舌の上を転がった。
 「美味しいね」と彼が笑う。それにつられて少女も「そうですね」と口許に手を添えて微笑む。その空気は甘酸っぱく、まるで付き合いたての恋人のようなものに近かった。それに耐えかねたらしい男がわざとらしい咳払いをひとつ。ゴホン、と立てると少女がハッとしたように男を見やる。
 少女は年相応に頬を膨らませ、男を睨んだ。しかし、男は意に介せず「目的を忘れないでくださいね」と知らん顔で彼を見る。彼は相変わらず新しい料理に手をつけては食べ進め、まるで二人の会話など眼中にないと言いたげだった。
 それを見て少女は再び「美味しそうですね」と口を洩らすと、彼がまっすぐ前を見て「食べる?」と訊いてきたのだ。

 ――ぱちん、と両手を合わせて彼は言う。「ご馳走さまでした」と。テーブルを覆い尽くすほどに溢れていた料理は空になり、キッチンからギブアップの声が聞こえた頃に彼はしぶしぶ食を進める手を疎かにしてみせた。
 目の前の少女と男は――特に男の方は――彼を見て、人の範疇を越えた食事量に引け目を覚える。出されたものは手当たり次第に食べ進める彼の姿は、まさに「暴食」の言葉がよく似合っていただろう。思わず口許に手を当て、「うっ」と男が声を洩らした。彼のあまりの食べっぷりに吐き気さえも覚えたようだった。

「無理に付き合うことなかったんじゃないの?」

 口許を拭った彼が呟く。所作も相まってか、彼の目付きは異様に鋭く思えた。すらりとした切れの長い目、左右で異なった色を湛えるその瞳に、男はむず痒ささえも覚える。――しかし、彼への警戒の意は示さなかった。それは、男の傍らに座る少女の存在が影響しているのだろう。
 少女は彼の目を見ても尚いやに嬉しそうに微笑んでいた。捜していたものがようやく見つかったときの子供のような様子ではなく、外見に合わないほど大人びた微笑みだ。彼はそれに自分のペースを崩されると分かってか、布を軽く畳んだ後、人懐っこい笑みを浮かべてやる。

「――まあいいや。ご飯有り難う! すっごく美味しかったよ!」

 浮かべた表情はただの愛想笑いであるが、食への感想は紛れもなく本当だった。少女はそれに「よかった」と言うと、改めてまじまじと彼を見つめる。子供宛らの大きな瞳――彼はそれに見つめられ、瞬きを繰り返す。恐れのような感情がなければ、何かときめくものがあるわけでもない。
 ただ一度、美味そうだと思ったのは確かだった。

「……それじゃあ、お話に入る前に…………頼まれていたことはもうできていますか?」
「とっくに」

 少女は席を立ち男に何かを言う。彼はそれが何を指し示しているのか分からず、茫然とそれを見ていると、男が「こちらへ」と彼に言った。彼は言われるがままに席を立ち、男の傍らへと立つ。体つきこそは異なっているが、背丈は同じ程度だった。
 彼は二人の後をついて歩く。少女は底の厚い靴を慣れた足取りで床を踏み締め、長い髪をふわふわと揺らしている。「大人になれば相当綺麗になるんだろう」なんて彼はその後ろ姿を見ていた。隣では男が呆れるように肩を竦めている。
 何だろう――彼は男の様子に疑問を抱いたまま、ある一つの扉の前に立った。焦げ茶色の、チョコレートを彷彿とさせる扉だ。「あ、これ美味しそう」――なんて思ったのも束の間、少女が語りながら扉を開ける。

「そのような身嗜みでは神に失礼ですから、まずはお風呂に入ってもらいますね」

 その奥に見えたのは脱衣場と、カーテンに仕切られた浴槽がひとつ。温かそうにもうもうと湯気を立たせ、目一杯にお湯が張られている。――それに彼は絶句した。

「丁度同じ背丈ですし、服は彼に見繕ってもらいましょう。まずはお体を温めてもわないと!」
「……いや、僕、そこまで汚くないと思っ」
「いけませんよ。見たところ少し痩せていらっしゃいますし、髪が傷んでますから……何より汚れてしまっていては神がお救いしてくれませんから」

 少女は食い気味に彼の言葉を押し退け、彼に風呂を進める。懇切丁寧に洗髪剤のボトル、ボディーソープのボトルの場所を説明した後、「誰かに洗ってもらいますか?」と彼に訊いた。
 彼はとうの昔に成人している。更に言うならば、あと数年もすれば三十路になるところだ。恐らくこの邸の誰よりも年上で、世話を焼かれるということはとっくに捨てただろう。
 彼は咄嗟に首を横に振った。「一人で平気」と言ってしまったのだ。よくよく見ればその浴室は、普通使用人や一般人が使えるような場所ではない。構造からして、主人と思われる少女のための浴室なのだろう。
 それを理由に断ろうと彼が口を開いた。風呂自体は体を休めるための大切なものだとは解っているが、水が苦手だったのだ。いつかの頃に顔から沈められて以来、妙な寒気が背筋に走るようになった。息が喉の奥で詰まり、冷や汗が出てきて酷く不快なのだ。
 その事実を理由にしてしまえばどうにかなっただろうか――しかし、彼はもういい年齢になってしまった。そんな子供じみた理由が、喉の奥でぐっと詰まる。

「……ここ使っていいの……」
「私が許します」

 漸く出した言葉は、少女の良心的な言葉により打ち砕かれた。
 少女は邪魔をしてはいけないと言い、部屋へと戻っていった。傍らに居た男は服を持ってくると言って浴室を後にする。残された彼はただ茫然と立ち尽くし、じっと湯船を見つめていた。――体が動かないのだ。
 体に染み付いた恐怖というものは、頭でどう「大丈夫だ」と言い聞かせても拭えやしなかった。飲み水の類いは少量である所為か、はたまた別の理由か――彼が恐怖を抱くことはなかった。しかし、大きな器に入れられた水というものが妙に苦手で、足が竦んでしまう。地に足はつけられる、底が奥深くにある筈がない――そう分かっていても、体が「怖い」と言って聞いてくれないのだ。
 丁度彼が立ち尽くしている頃、不意に扉が開く。横目で見れば服を取りに行っていた男が帰ってきたのだ。
 男は彼を見るや否や、「どうした?」とやけに砕けた口調で問い掛ける。それが彼にとって気休めにもならないもので、彼は恨むような気持ちでじっと男を見ていると、意図を汲まれたように「ああ」と頷かれる。

「恐ろしいのか」

 図星をつかれた彼は思わず歯を食い縛った。いやに悔しそうな表情を浮かべてしまった。
 すると、何を思ったのだろう――男は意表を突かれたかのように目を丸くした後、服を近くに置いて彼の頭を撫でる。「洗ってやろう」と心地のいい声色で、男は彼に湯船に浸かるよう言った。

「……は?」

 思わず彼の愛想が消える。湯に浸かれないのならシャワーで済ませてしまえばいいだけのこと。
 ――しかし、男が言うには少女は見た目に反して頑固だと言う。温まれと言えば本当に温まったのかと、しっかり触れて確かめるようだ。彼はそれに少なからず絶望して、がっくりと肩を落とす。善意は有り難いが、その善意が時には刃にもなるということを少女に教えなければならないだろう。
 彼は逃げられないこの状況に、大人しく両手を上げて従った。

◇◆◇

 少女の目の前に現れたのは、随分と顔色の悪い彼だった。湿気る髪、彼のものではない服――彼は大人しく湯に浸かり、半ば意識を投げ出しながら世話を焼かれたのだ。彼の隣に佇む男は「シリル様好みの綺麗に仕上げました」なんて言って、少女の顔色を窺う。少女は読んでいた本を閉じるや否や、彼に近寄り、その手を取った。
 「よく温まりましたね」そう言って微笑む少女が、彼にとって今は悪魔のようなものに見えてしまう。息を止める勢いで風呂を味わった彼は、今まで根付いていた強い食欲が感じられないほどな弱っている。ぐったりとした表情、俯いている瞳――少女は男に「何かあった……?」と不安げな表情で問う。

「いいえ? 何も」
「うっ」

 微笑む男の肘が彼の脇腹を突く。少女に心配を掛けさせてはならない、と言いたげなその行動は、彼の意識を取り戻すのに十分だった。彼は一度呻き声を上げて脇腹を押さえると、苦しそうな声色で「……有り難う……」と少女に呟く。あの一件で随分と仲が良くなったように見える二人に、少女が「仲良しになりましたね」とよりいっそう愛らしく笑った。

「それで、君は――」

 彼が口を開く。何を理由に自分に恩を売っているのかと問い掛けようとした。彼には時間がないのだ。できることならば、すぐにでもこの邸を離れたかった。
 すると、突然少女が「あっ」と言う。彼の二人称に違和感を覚えたのだろう――「自己紹介しますね」とスカートの両端を両手で摘まみ上げる。片足を下げ、恭しくお辞儀をするその様は、少女と言うよりも大人な振る舞いだった。

「私の名前はシリル……シリル・ノアールです。気軽にシリルって呼んで?」

 先程よりも砕けた口調をした少女――シリルはお辞儀をした後、軽く首を傾げる。そのあざといと言える行動は見るものが見れば随分と可愛らしく思えただろう。――しかし、相手は彼だ。彼は愛よりも食欲が強い。
 彼はシリルのその振る舞いを見て、ただ「あざといなぁ」と思った。――と言うのも彼はいくらか女との付き合いを重ねている。シリルのその行動が彼が付き合ってきた女のそれと同じに見えたのだろう。軽く冷めた気持ちでそれを受け取ると、シリルは彼を見る。どうやら同様の自己紹介を求めているようだ。

「……僕はハインツ。ハインツヴァルト。姓は――今はどうでもいいよね」

 彼、ハインツは愛想のいい笑みを浮かべて名前を名乗った。姓を名乗る気がなかったのは、彼自身がその家に捨てられたから――いや、彼が捨てたからだ。あの下らない地位や名声に縋るだけの、ゴミのような人間達などこちらから願い下げだ。金がなければただ喚くだけのそれに過ぎない。
 そうして彼は自ら自分の立場を隠し、シリルへと向き合った。果たして身分を隠すハインツを、シリルはどう思うだろうか。

「ではハインツさん! 折り入ってお話があるんですが」

 簡潔に言えば、シリルはハインツの姓を名乗らない理由を咎める気もなかった。自らの名刺にもなり得る姓を名乗らないということは、自分がどこの誰かも教えないということでもある。そんな彼を、何故目の前の少女は追及しないのだろうか。
 ハインツは訝しげにシリルを見やった。何か裏があるのではないかと探るような心持ちでいた。――だが、シリルが提案したそれは、ハインツの警戒を容易く解いてみせたのだ。

「私の執事兼ボディーガードになりませんか?」

 花が舞うような雰囲気を纏って言った少女に、ハインツは返事せずに一度顔を俯かせ、額に手を添える。先程放たれた言葉の意味を理解しようと咀嚼を繰り返しているのだ。
 シリルが言ったのは執事――つまるところ少女の世話をしろということ。次期当主ともあろう人間が、何故従者にならなければならないのか――などという嫌悪感は一切ない。更に言えば、主人の身を守るためのボディーガードになることも大して嫌悪感もない。
 強いていうならば、何故目の前の少女は見ず知らずの人間を傍に置こうとするのかが一番の疑問だった。

「…………え?」

 やっとの思いで呟けた言葉は疑問に満ちた間抜けな声。理解したが、腹の中に納めきれなかったようだ。シリルの傍らに居る男は「分かる分かる」と言いたげに頷いていて、シリル本人は不思議そうに首を傾げている。まるで話の意図が理解できなかったのか、と聞いているかのような行動だ。
 「ですから」とシリルが再度説明しようと口を開いた。彼は咄嗟に「何となく解った」と言ってその言葉を押し退ける。何故そのような結論に至ったのか、という説明をハインツは求めた。見ず知らずの人間なのだから、盗難の被害に遭うかもしれない、という懸念はするべきだ。それをしないでハインツを傍に置くなどという、意図が知りたかった。
 しかし、少女にはこれといって大した理由もなく、ただ彼を気に入ったからだというだけ。ハインツはそれに納得するわけもなく、多少訝しげな表情を浮かべると、ある一つの正当な理由を差し出した。

「あなたが一人、膝を打ち砕いた人がいます。その代わりということでどうでしょうか?」

 咎める雰囲気ではない。――しかし、ハインツを逃がす気はないと言いたげな眩しいほどの微笑みだった。
 道理は合っている。膝を打ち砕かれた奴は仕事の復帰など最早不可能に近い。杖がなければ歩くのが困難であるほど。恐らく――などと言わずとも、この邸で男を見ることはもうないだろう。その男の膝を砕いたハインツが代わりをしろとシリルは言うのだ。
 正当な理由に彼はぐっと唇を噛み締める素振りを見せる。彼にはやるべきことがあった。今居るこの場所が一体どこだか把握はできていないが、何としても来るべきその日までに終わらせていなければならないことだ。それを、執事の真似事で怠るわけにはいかなかった。

「……やりたいことがあるんだ……」

 思わず彼は口を開いてそう呟いていた。

「僕、ルフランに帰らなきゃいけない。あと二年……二年の間に、街に帰りたいんだ」

 ――そこは彼の生まれ故郷だった。
 彼の記憶にあるそれは、緑豊かな大きな街だ。とある時間毎に大きく水が立ち上る仕掛けのある噴水、鳴り響く時計塔、石畳を踏み締めながら賑やかになる街並み――、そして、威圧を与えないよう街並みから外れた場所にある本邸。季節になれば桜の開花を独占でき、夜桜を満喫することのできる大きな街だ。
 彼は追い出されたそこに帰り、やりたいことがあると言い、執事はできないと断りを申し出る。すると、シリルは瞬きを数回繰り返した後、「あなたが何者か分かった気がします」なんて言って、軽く首を傾げる。

「……でも、ここからルフランはとっても遠いですよ? 何せ、『最果て』と呼ばれるくらいですから」
「…………へぁ……?」

 シリル曰く、ここは彼の生まれ故郷であるルフランから遠く離れた最果ての街。治安は悪く、関所がいくつも並んでいるというのだ。極めつけはルフランへの道が閉ざされていることだろうか。少女は「最低でも道が開くのに二年は掛かるかと」と言って、悩ましげに微笑む。
 ハインツは足元から崩れ落ちるような感覚を覚えた。間に合わなければあの人の居場所がなくなってしまう。それだけは死んでも避けたかった。何故かと問われれば――『あの人』は彼にとって偉大な『兄』であるからだ。
 その様子を見かねたシリルはハインツに向かって軽く手を差し出し、「協力しましょうか」と言う。

「やらなきゃいけないことがあるんでしょう? 時間を早めるために手を回したり、別ルートを見付けたり、お手伝いしますよ」

 それは、シリルにとって何かの得があるようには見えなかった。何せ彼は執事などしないでルフランへ帰りたいと言っているのだ。それを協力しようなどと、少女の考えていることは不思議でならない。――そのことについて男も理解しがたかったのだろう。呆れた表情を浮かべたまま、二人に背を向けた。意図は分からなかった。
 彼はその差し出された手をじっと見つめていた。華奢な腕が協力をしようと握手を求めてくる。何とも頼りない小さなものだ。
 彼はそれをただで受け取る気はなかった。――というのも簡単な話、ハインツには拠り所がないのだ。

「……執事、やらせてくれるなら」
「……え?」

 彼の言葉にシリルが驚きを見せる。

「一度断った身だけど、帰れないし行く当てもないんだもん。暫くの間、置いてくれるなら、協力してほしいなぁ」

 苦笑混じりにハインツが伸ばした手を、シリルは両手で掴んで「勿論です」とやけに嬉しそうに笑って言った。
 ――素を露わにするタイミングを完全に失った彼は、嘘を吐き続ける嵌めになったのだ。

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