勝ち組の人生

 彼の人生を一言で表すとするならば、「人生の勝ち組」だった。
 容姿に恵まれ、才能にも恵まれ、家は地位が約束されていた次期当主。家を継げるよういくつもの勉強を強いられ、マナー教育は絶対に怠けられず、あまつさえ嘗められないよう、武力も求められたものだ。彼は幼い頃からそれを「仕方ない」で済ますようになっていた。
 仕方がない。長男だから。他に兄弟が居ても、避けられない運命なのだから。甘んじて受けてやろう。――そういう心持ちだった。
 その教育が功を奏したのだろう――、彼が齢十になる頃には何もかもが完璧だった。料理ができれば掃除も上手くできる。花を活けられれば美味しい紅茶も淹れられる。母国語のみならず、いくつかの世界の言葉を覚えて話せるようになった。
 彼は次期当主になるに相応しい人物と変貌したのだ。両親は肩を震わせ、喜びを露わにした――ことなど一切なかった。寧ろその逆――彼を虫を見るような目で蔑み、罵倒したのだ。
 その理由は彼の瞳にあった。
 彼の容姿は申し分ない。金色の髪に健康的な肌。ベストやブーツの似合う、宛ら「英国男子」そのものだっただろう。――しかし、彼の両親はその瞳をひたすらに蔑んだ。両親の瞳は新緑の色を湛えていたというのに、彼は分離してしまったかのような金と青のオッドアイを持ち合わせていた。
 一時的に両親の仲が著しく悪くなったのは言うまでもない。どちらが浮気をしたのか、夜通しただ口喧嘩が絶えなかった。
 だが、彼の髪色は正しく両親のそれそのもの。試しに行った血液検査でも、それは二人の子供であるという証明でしかなかった。

 ――では、この瞳の色は一体どこから来たのだろう。

 彼の両親は口論したことを互いに謝罪し、再び仲睦まじい間柄へと戻った。それは、まるで出会った頃のような熱意を潜ませていたのだ。
 ――彼はその理由を知っていた。やけに勉強を強いては様々なことを学ばせて嫌になるほどの生活を送らせた理由も、自分の目が色違いである理由も、誰よりも早く知っていたのだ。
 彼の容姿は申し分なければ、暮らしにおいては人生の勝ち組だった。だが、そんな彼に一つ欠点を述べるとするならば、体に見合わないほどの異常な「食欲」だろうか。
 彼は異常なまでに空腹を訴えた。何をするにも何かを食べ続けていなければ、気が狂うような空腹がその身を苦しめ続けた。以前一度だけ空腹に耐えられず彼は参考書の数ページをひたすらに口にした。破いては口へ運び、破いては口へ運び――その繰り返しの最中、面倒見のいい侍女が彼の行動を止めるに至った。
 幸い彼の体に異常は見られなかったが、その一件において、彼は家中の者から好奇の目で見られるようになった。何て気味の悪い次期当主様だろうか――そんな言葉が飛び交って、やがて彼の耳に届く。
 ――それと同時期だっただろう。彼の妹が産まれたのは。
 女だから当主にはなれない――そんな考えが両親にある筈もなく、二人は我が子の誕生を喜んだ。勿論、その瞳は新緑の色に染まっていて、両親の愛情を一心に受けて育ったのだ。
 それも彼は重々理解していた。そもそも当主になどなりたくなかった彼は、何をせずとも喜んでその地位を譲っていたに違いないが、これが両親と呼ばれる生き物のあり方なのだろう。その身に見合わない教養を強いて、やがてその身が壊れてしまえばいいという、低能のやり方だ。
 そんなことをしなくても適正年齢になれば出ていってやるのに。――なんて、彼は大きな溜め息と共に苛立ちを吐き出した。日を追うごとに増していく食欲がじわりじわりと彼の理性を食んでいく。幼虫が木の葉を少しずつ食べていくのと同じよう、彼の理性は着々と失われていった。
 ――そして、彼が齢十四の頃、一時的に理性が食欲に飲み込まれてしまった。

 気が付いたときには目の前が赤に染まっていた。ぬるぬるとした感覚が手のひらを伝い続ける。口の中には柔らかく温かな奇妙な食感が蔓延っていた。――気持ち悪い。そう思っていても、それを喰らう手は一向に止まる気配を見せなかった。
 噎せ返るほどの錆びた鉄の香り。床に倒れる金に近い薄茶の毛髪。翻るそのメイド服に、彼は「あーあ」と言った。

「……クソみたいに不味いな」

 この程度では満足しない。質よりも量が欲しい。――彼はゆっくりと立ち上がると、その侍女の死体を後にする。彼の中の食欲が囁きかける。もっと量を。上質な肉を。――人間を。
 ――彼が妹に手を掛け、両親に見付かったのは言うまでもないだろう。
 こうして彼は勝ち組の人生を終えた――筈だった。

 彼は両親との縁を切られ、家を追い出された。一時期別邸で穏やかに過ごしてしたが、人攫いにより、遠くの街へと彼は売られていってしまった。概ねそれも両親の仕業なのだろう。「何だ、快適だったのに」なんて彼は売られながら茫然と流れに身を任せる。時折逆らえば水責めや火傷など、様々な傷を負わされたが、何もかもがどうでもよかった。
 ――そのときまでは。
 顔の良さから女に無理を言われ、夜を共にしたある日、彼は勢いよくそこから起き上がる。そして、何もかもが信じられないというように咄嗟に顔を手で覆って、俯いてみる。随分と伸びてしまった髪が顔の横から垂れてきたが、最早気にもならない。
 齢二十五になった頃、彼は思い出してしまった。――あの人が来る。行き場もなく、身寄りもなく、あまつさえ自分が何者なのかも覚えていない、黒い男が来る、と。
 何故だか忘れていたそれを思い出した後の彼の動きは素早かった。それほど彼にとって重要なことだったのだろう。
 彼は隣で悠々と眠る女の寝首を掻き、絶命したその肉を一口。「不味い」と言って衣服を着て家を出る。――しかし、女もまた彼に愛想を尽かしていたようで、開いた扉の先には見慣れた商人達が揃って出迎えてくれた。
 随分と丁寧な出迎えに彼は舌打ちをひとつ。「クソ」と悪態を吐いたとき、強い衝撃と共に視界が暗転する。殴られた、と気が付くのは地面に倒れて数秒のことだった。商人は「厄介なじゃじゃ馬だな」なんて彼を卑下していて、その足で頭を踏む。

 ――覚えていろよ、溝鼠共が。

 彼はそう心中で呟いて、そのまま気を失った。

◇◆◇

 思えば下らない人生だった。面倒な教養、冷めた態度の両親、恵まれてしまった地位――その何もかもが下らない人生だった。その中で彼に与えられたのは暴食≠フ意志。それは、ウサギのような形をしていて、全長はゆうに十メートルは超えているであろう、大きな化け物だ。
 それは彼に言った。「面白そうだから憑いちゃった」と。女のような声色で、軽々しく彼を依り代に選んだことを語った。特別な理由はない。ただ、面白そうだから――そんな理由だ。
 暴食≠フ意志に取り憑かれたからこそ、彼は目の色が両親と異なっていた。常人よりも身体能力は高く、学習能力もそれに劣っていない。研ぎ澄まされた聴覚は誰がどのように何を行っているのか、という情報を与えてくれる。気を失っている間につけられていたのであろう体の痛みは、目が覚めると同時に少しずつ治っていった。
 ――これほど暴食≠ノ感謝を抱いたことはない。
 手首に巻かれた縄が、何の理由もなく微かに緩んだ。

「顔もよしのこの人間、多少年季が入っておりますが、その目の美しさは金に代わ――ッ!?」

 視界を覆っていた黒い布がハラリと足元へ落ちていった。――直後、彼の肘が両サイドに構えていた商人の顎へ当たる。マイクを持っていた片割れはそれを落とし、耳を劈くほどの音が大きく鳴った。舌を噛みきればよかったのに、と彼は思うが、現実はそうも上手くいかないもので、ただ二人とも気絶するだけだった。
 すると、突然大きな悲鳴が上がる。会場と思われる場所は案外小ぢんまりとしたもので、我先にと出口へ向かうその人混みを見ると、彼は冷めたように一瞥している。
 金の毛髪を揺らし、素足のまま彼は床を踏み締める。ぺた、と小さな音が鳴った。――すると、突然周りに居たのであろう商人の仲間達が揃って彼に向かう。その手元には刃物か銃が収まっていて、最早彼を商品として見ていないようだった。
 気に留めるべきはその男達の行動ではなく、彼の顔付きだろうか――。彼の目はどこか虚ろで、表情という表情は一切浮かび上がらない。目元には多少の隈が存在していて、よく見れば体つきも常人のそれと比べれば痩せているように見える。
 その様子を保ったまま彼は自分に迫り来る商人に向かい合った。刃を向け、走る商人の手を蹴り上げ、素早く下ろした後勢いを保ったまま回し蹴りをひとつ。素足だというのにも拘わらず、その威力は強く、相手は床に倒れ込む。そのまま真横に振るわれたナイフを屈んで避け、床に手をついて後方へと足を振る。踵に鈍い痛みが走るが、最早そんなことを気にしている暇もない。
 ちっ、と頬を掠める熱が飛んできた。数本の髪を犠牲にしながら彼はそれに目を向けると、どこから調達してきたのかも分からない銃を構えた商人が視界に入る。撃つことに躊躇いを覚えていない顔、――どうせ役に立たない奴は殺す気だったのだろう。
 それがただ自分に向いただけ――彼は軽蔑するようにそれを一瞥した後、ゆっくりと立ち上がる。
 ――彼は恵まれていた。暴食≠ヘ彼に力を与える代わりに、いくつかの常識を奪い去ったが、まるで支障はなかった。数少ないとされる力を持てている以上、これといって不満などまるでなかったのだ。
 パンッ、と破裂音が二つ。――と同時に彼の足がつい、と弧を描く。すると、足元の影が具現化して、彼を守るように前へと躍り出る。その影に向かった銃弾が水に落ちるように波紋を立てた後、その奥から彼の鋭い目が男を見る。

「――……要らねぇな……」

 そう言って彼は前に躍り出た影に手を入れると、何かを掴むように手を握りしめ、徐に引き抜く。そこから現れたのは長い槍だった。その色は黒く、暗く――それこそ影で造られた造形物なのだ、と理解させる色を湛えている。
 商人達はそれに呆気に取られたかのように茫然と口を開いていると、突然そのうちの一人の額に槍が刺さる。まるで、骨などないと言いたげにすんなりと突き刺さったそれに、身を任せるように男が後方へと倒れた。
 まるで荷物を床に落としたような音が鳴った。すると、商人が青ざめた顔で一度彼を見やると、咄嗟に背を向け逃げ出した。――その直後、男を背中から貫いたのはやはり、影の色を湛えた槍だった。
 槍は役目を終えると溶けるように影に戻る。彼の前にあったそれも、同様に足元に戻った。
 「時間がないなぁ」彼は独り言のように呟く。齢は二十六を迎えている。ぺたりと床を踏んで階段を上ろうとすると、視界の端に見慣れないものを入れてしまった。――腹減ったな、と彼は心中で呟きながらそれを見る。
 そこには一人の少女が居た。正確には何人かのボディーガードを連れて、だ。少女は軽くスカートを揺らしながら白いタイツを穿いた足で彼に近寄ると、ばちぱちと拍手を送る。

「お見事でした」

 その表情は少女そのものだというのに、まるで血生臭いものをいくつも見てきたと言わんばかりの微笑みだった。――白い肌に長い灰色の髪をツインテールに纏めた片目の少女は、彼を見ても尚怯える素振りを見せず、一礼をしてその小さな背をしゃんと伸ばす。
 ――何だ、こいつは。
 それが、彼が抱いた印象だった。警戒をするように一歩後退りをする。何せ、こんなところに子供が来る筈がないのだ。多少のボディーガードが少女を守るように囲んでいるところを見ると、それなりの人間だということが分かる。――しかし、彼は今しがた二人を殺めたのだ。それに怯えない子供など、怪しい以外の何者でもない。
 彼はただじっとりとした目で少女を眺めた。探るように頭の先から足の先まで。蛇が絡み付くようにじっくりと、ただ黙って眺めた。それに少女も何も言わず、その目を黙って受け入れる。
 ――美味そう。次に抱いた言葉がそれだった。
 くぅ、と腹が鳴る。それを合図に彼は少女へと手を伸ばすと、横から男らしい手が彼の腕を掴む。いつの間にか少女よりも数歩前に出ていたボディーガードが彼の動きを制したのだ。
 彼は鬱陶しそうに腕を手早く捻り、自由になった手で先程まで腕を掴んでいた手を引き寄せる。ボディーガードである男の重心が前に倒れ、彼はその顔面を空いた片腕の肘で勢いよく叩き潰す。
 骨がぶつかり合う音。潰れた蛙のような鳴き声。男がそのまま倒れ込むと同時、待機していたそれらが一斉に彼に刃を向ける。
 何もかもが彼の想定内だった。倒れた男の懐を素早く漁り、出てきた拳銃で駆け出してくる男の膝を打ち砕く。ドン、と放たれた一発が掠れることもなく命中して、一人は倒れる。もう一人は素手で彼に挑むようで、その豪腕をぐっと顔に近付けた。
 彼は間一髪でそれを避けると、避けた方向に待ちわびていた足が顔に向かって振るわれる。形のいい靴が目に見えて、彼は拳銃を携える手で咄嗟にそれを防ぐ。すると、意識が疎かになった片手が拳銃を持つ手を叩く。
 カシャン、と拳銃が落ちる音が床に響いた。

「っ……」

 その手がぐっと捻られた。
 逃げ切れない――彼は咄嗟に片腕を捨てる勢いでしゃがみこむ。敵わない相手には懐から忍び寄るのが一番だと知っている。だからこそ男の目下へしゃがんで、その顎を狙おうと目をつける。
 しかし、勘のいい男がそれを察したのか、彼が屈むと同時にその手を離し、咄嗟に距離を取った。――それがいけなかった。彼の足元には先程落とした拳銃が転がっていたのだ。
 彼はそれを手に取ると素早く標準を男の額に合わせ、安全装置が外れているのを確認し、躊躇いもなく引き金を引く――。

「――終わりにしませんか?」

 ――直前、彼の目の前に先程の少女が現れた。しかもその手は拳銃に添えられていて、やはり怯える素振りも見せずに彼の目を見る。光が遮られた会場の中ではその瞳が金だか黄土だかの区別がつかず、彼は驚くように目を見開きながら瞬きをした。

「シリル様!」
「平気です」

 シリルと呼ばれた少女が後方を見ることもなく、間髪いれずに大丈夫だと言った。彼は目の前に人殺しが居るのに怯まない少女に意識を奪われる。突然現れたその様子はまるで蝶のようだと例えても過言ではないだろう。柔らかな微笑みは少女というよりも、聖母すらも彷彿とさせるものだった。
 それに呆気に取られた所為だろうか。彼は自分が空腹と焦燥感に苛まれ何をしでかしていたのかを思い出す。少女の瞳は優しすぎる――まるで懺悔の告白をしなければならないという、妙な責任感に苛まれるのだ。

「もう、怯えなくていいんですよ」

 少女は彼に敵意が無くなりつつあるのを見て、ゆっくりとその頬に手を伸ばした。顔はいいがどこか痩せていて、見ていて不安になるものが彼にはあった。「怯えなくていい」と少女は言ったが、彼は何かに怯えていたわけではない。ただ時間がなかった。
 その焦りが怯えと認識されたのだろう――ふわりと微笑むその顔は、可愛らしい花が似合うほど、現状には不釣り合いだった。彼は徐に「何を言って……」と呟きかけたが、突然その小さな体に抱き締められ、混乱を覚える――。

「今まで頑張りましたね。もう、ゆっくり休んでも平気ですよ」

 頭を撫で、呟かれるその言葉は、彼の目元のそれを認識しているもののようだった。
 何を言っているのかは分からない。それを望んだ覚えもない。――しかし、彼の疲れきったその体に優しさが染み込んできたのだろう。ゆっくりと力が抜け落ちて、折角拾い上げた拳銃が再び音を立てて床に落ちる。それだけに留まらず、彼は酷い疲労感と眠気に襲われ、少女に寄り掛かるようにして意識を失ってしまった。

「――危険な真似は止すように申し上げた筈ですよ、シリル様」

 先程まで対峙していた男が少女シリルへと近付いていく。その口振りからして、雇うのは少女の両親ではなく、少女自身だと分かるようなものだった。「だって、見ていられなくて」少女はころころと愛らしい笑みを浮かべると、倒れるボディーガードを見つめる。
 彼らは命を落としたわけではなかった。一人は気絶し、もう一人は膝を抱えて痛みに呻いているだけだ。気絶した男はともかく、膝を打ち砕かれた男は最早復帰も叶わないだろう。
 少女は、命を落としたのは例の商人だけであることを知っている。何せこの喜劇を少女は初めから最後までじっくりと見ていたのだから。この腐った商売を壊してやろうと、心に決めていから。だから、この小さな会場に居合わせていたのだ。
 勿論それが終わりを告げればボディーガードと共に全てを台無しにしてやるつもりだった。何もかもを壊した後、犠牲者にはそれなりの支援と職を与えようとしっかり計画してからのものだ。計画は上々、少女は多少の緊張を胸にそれを決行するまでのイメージを固め続けていた。
 ――唯一の誤算は彼の存在だっただろう。

「…………」

 少女は腕の中で気を失う彼を抱く手に小さく力を込めると、指示を待つ男へと目を向ける。

「予定は多少ずれたけど、最後までやり遂げましょうか。それと私、――彼が欲しいです」

 だって漸く見付けたんですもん。にこにこと上機嫌に微笑む少女に、男はやれやれと肩を竦めながら溜め息を吐いた。

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