夢か現か


 ――深い深い夢を見た。夢か現実か、それすらも分からなくなるほど深く、そして、不思議と懐かしい夢を見た。

 ――はあ、と熱のこもる熱い吐息が洩れる。額や頬が熱く、体はどうにも寒さを訴えているように、背中に悪寒が走る。体は鉛のように重く、目の奥は鈍い痛みをひっきりなしに伝えてくる。
 ここはどこだろうか。――そう考えていながらも、歪む視界に捉えた天井はただ渦を巻くようにぐらりと揺れて、彼は堪らず瞳を閉じた。
 人の気配があるようには思えない。じっとしているにも拘わらず、不思議と吐き気が腹の奥から沸き上がってくる。咳はあまり出ないが、その分彼を襲う熱は普段よりも高かった。

 今朝方起きた頃は特別熱が高かったようには思えない。起き上がった際にほんの少しの違和感――どこか気怠いような、頬が熱いような、そんな異変はあった。
 しかし、動けないほどではない。
 好戦的な性格と、負けず嫌いの一面が体の違和感を「気のせい」と捉え、彼は無理にでも動き回った。本職は殺人鬼――父と母から受け継いだ生き方を変えるつもりなど、到底ないからだ。

 体が弱るのは鍛えが足りないせい。――そう言い聞かせることが常だった。

 ――しかし、やはり体は素直だとよく言ったものだ。
 朝から動き回った調子の悪い体は、時間が経つ毎に少しずつ不調を訴えてくるようになった。体の節々は軋み、痛み始める。頬から胴体へ熱が広がる。背中に広がる寒気は、不意に彼の意識を奪うようになった。
 こんな状態では――に仕えることもままならない。苦笑を洩らされ、冷めた視線を投げられ、呆れられたように溜め息を吐かれる始末だろう。
 それだけは避けなければならない。懸命に積み上げてきた信頼が崩れてしまうのは一瞬だ。彼にとってそれはどうにかして避けておきたい状況であり、今までの苦労が水の泡になることを示している。

 彼は一番のお気に入りでいたいが為に、奮闘している筈なのだ。失望されることは避けておきたかった。

 避けておきたかったのに――膝から崩れ落ちるのを、彼は止められなかった。

 ――そうして目を覚ましたと気が付いた彼が見たものは、見知らぬ天井だった。特別華美な装飾はないが、どうにも見慣れない木目が不規則に並んでいる。チョコレートのように濃い茶色のそれに、飾られた照明はどこにでもある普通のもの。いやに静かで心地のいい空間に、彼は寒さも少しずつ忘れつつあった。
 ――しかし、寒いものは寒い。
 唐突に迫る悪寒に堪らず身を震わせていると、不意に扉が開くような音が鳴る。軋んだりも、何かが引っ掛かるような音も特にないのだが、「開いた」という事実を突き付ける音だけはそれとなく分かった。
 だからこそ彼は何気なく音のした方を見て、ほんのり表情を露わにする。体調が悪く、体が上手く動かせない彼にとって、驚きを示すのはそれが精一杯だった。

「――何だ、起きたのか」

 扉を閉める音と、淡々とした抑揚のない静かな声が、やたらと音のない部屋に響く。
 白いシャツに黒地のベスト。普段つけている眼帯もどこへやら。普段とは打ってかわって妙にラフな格好をしている男に、彼は思わず顔を逸らしてしまう。休憩真っ只中か、それとも単純に今日一日は仕事に打ち込まないのか――、
すっかり動きやすそうな男の姿に顔さえも隠してしまう。
 普段ならば休憩なんていうものを取っているのかも分からない男が、やけに身軽な格好をして彼の前に現れた。それが嫌でも「自分が男の時間を奪っている」ということを突き付け、酷い罪悪感に駆られてしまう。
 彼にとって男は上司だ。一時的に反抗を見せたが、圧倒的な力に捩じ伏せられ――というよりは、ある程度応戦したものの、本気を見せられて死にかけた程度――自ずと付き従うようになった。どれだけ付きまとい、どれだけ馴れ馴れしくしてみようとも、男は人間を理解するためだけにそれを嫌とも思わなかったようだ。

 ――そんな彼も役割があれば、男にも役割がある。

 彼の仕事内容は殺人鬼の名に相応しいものがあれば、今までに一度も取り組んだことのないようなものがあった。己の感覚を研ぎ澄ますために何度も魔法の使い方を学び直しては、血を失いすぎて倒れることもしばしば。
 その度に何度加減を覚えろと言われたことだろうか。
 ――そう注意を促す男は頂点に君臨する、彼にとって上司のようなもの。彼に比べて十分すぎるほど強く、賢く、誰よりも多忙な存在だ。彼が知る限り、男が十分な休憩を取っていることは少なく、常日頃仕事に追われているような存在だ。

 ――そんな男がふらりと彼の前に現れるものだから、彼は気まずくて顔を逸らしたのだ。

 彼が目を覚ましてから視界に入れた生き物は、男ただ一人。初めて会ったときよりも遥かに交流を深めた彼にとって、男が何をしに来たのかなど、手に取るように分かってしまう。
 彼は男の部下だから。部下の面倒を見るのも男の役目なのだ。

「何故顔を逸らすんだ。気分でも悪いか?」
「…………別に」

 ほんの少し心配そうに――とはいえ、やはり淡々としている――男の言葉に、彼は小さな声を絞り出した。喉の奥が渇いているかのように出しにくい声は、彼が力ずくで出したようなものだった。
 ばつが悪い。常日頃から注意を促されているにも拘わらず、彼は自分の限界を試したくてその言葉を無視してしまう。どれだけ血を失おうが、どれだけ体が悪かろうが、持ち前の性格で全てをなかったことにして、隠して戦いに臨むのだ。
 その結果がこれなのだと、現時点で嫌でも気が付かされてしまうのを、何度も繰り返しながら――。

「やはり人間のことは人間に任せるのが一番だな」

 ――彼は何となく悔しさにより唇を噛み締めていると、突然体が浮く感覚を得た。あまりの突然の出来事にほんの一瞬、何が行われているのかすらも理解ができなかった。茫然としているノーチェの目の前に現れたいやに綺麗な顔立ちに、ぽかんと口を開けてしまった。

 眼帯の下に隠されていた金の瞳は透き通るほど輝かしく、まるで宝石でも眺めているような気持ちになった。薄金――よりもどこか琥珀に近いその色は、光に透かして見ればどこまでも透き通り、ガラスを彷彿とさせてくるのではないかと錯覚すら覚えてしまう。
 白く日に焼けてもいない肌は女のようで、触れれば触り心地が良さそうだと彼は思った。
 男のくせに睫毛が長いだとか、髪が綺麗だとか、見た目に反して力強いだとか――そういったものが一瞬の隙に頭の中を駆け巡り、男がふと顔を上げた辺りで彼の意識がハッとする。

「な……何してんの……?」

 疑問と動揺が混じる声色で、彼は男に問い掛けた。
 男は彼の体を抱き抱え、あろうことか横抱きにして部屋を出ようと扉へ歩く。成人男性一人を軽々と抱える様は、やはり勇ましい。時折体のどこかしらが女のようだと思ってしまっても、やはり男なのだと納得せざるを得ない。
 背中や足を支える腕の逞しさは彼にも劣らない。ただ――男がそんな行動を取るとは思わなかった彼は、目を丸くしたまま咄嗟に男の首に手を回す。

「介抱するなら寝室がいいと聞いたので。折角だ、この俺が運んでやろう」

 喜ぶがいい。――そうやけに偉そうな口振りで男は扉を開けて、廊下へと出る。窓の外一面に広がる風景は綺麗で、あまりにも眩しい。ちらほら見受けられる住人達は思うままにはしゃぎ、体を鍛え、御茶会なんてものを開き、笑う。
 殺しに溢れている世界だと、誰も思わせないような光景に、彼は頭を痛めた。外の眩しさがあまりにも体に悪い。ぐらぐらと揺れるような錯覚に陥るものの、現状が彼の理性をぐっと繋ぎ止めていた。

「誰が、こんなところ、見るかもわかんねぇってのに」

 下ろしてくれよ。
 彼はそう言いながらどうにか男の手から逃れようと必死に身動ぎを繰り返す。思いの外男の腕はしっかりと彼の体を抱き留め、思うように腕の中から抜け出すことができない。熱に苛まれている、ということもあってか――上手く体に力が入らないことも相まって、身動ぎを繰り返す彼は次第に目眩を覚える。
 ――しかし、この程度で根を上げる彼ではない。頭の奥にまで響くような頭痛を押し殺し、「下ろせって」なんて言えば、男が漸く彼を見た。

 ――金の瞳が何らかの意図を含んだような視線を投げる。ただそれだけ。
 たったそれだけの男の行動に、彼は動きを止めてしまった。

 穏やかな瞳だった。まるで恐怖を与えるような存在であることを知らせないような、酷く優しい瞳だ。ほんのり微笑んでいるような、慈愛に満ちたそれは、彼の動向をじっと観察しているようにも見える。
 けれど、彼はその視線に僅かな威圧感を覗き見てしまい、ぐっと息を呑む。
 ――体が動かない。まるで外側から幾重にも縛り上げられたように、身動ぎすらも許されない。
 その現象を起こしているのが、目の前にいる男だと彼は十分に理解している。理解した上でかろうじて動く表情筋を動かしてやれば、男がほんの少しだけ苦笑を洩らした。

「じっとしていろ。わざと公然に赴いてほしくはないだろう?」
「――!?」

 冗談だと思いながらも、彼は男の言動に驚き、目を丸くする。「嫌に決まってるだろ」と呟くものの、男が本当に人前に出てしまうのではないかと不安がよぎる。いい歳をした成人男性が、男に横抱きにされている姿など、見られてしまった暁には良からぬ噂が立てられかねない。
 そうでなくとも、現状彼の自尊心はすっかり傷付いてしまっているのだ。これ以上のことが起こってしまえば、どこか人の目の届かない遠くへと行ってしまいそうだった。

「醜態を晒したいのなら手伝ってやるぞ」
「…………嫌……普通に……」
「なんだ、つまらんな」

 男はくつくつと笑いながら彼に語るが、当の本人は醜態を晒したことを想像して、すっかり血の気をなくしていた。先程まで何とか強気な態度を保てていたはずなのに、今では男の腕の中でぐったりと体の力を抜いている。男との会話が原因でそうなっているわけではないのは明白だが、どうにも間が悪い。「無事か」と男が問えば、彼は小さく呻くだけだった。
 思うよりも不調が現れているようだ。彼を抱き抱える男の腕に伝うのは、人並みよりも遥かに高い温度。それが、普通ではないことは男ですらも理解している。荒く繰り返される呼吸も、額を伝う汗も、普通ではないことは確かだった。

「……馬鹿だな」

 ――そう、小さく呟いてから、男は彼を抱き抱える手に力を込めた。その感覚にふと意識を取り戻したのか、彼は小さく体を震わせたかと思うと頭痛を訴え始める。「頭いてぇ」とすっかり抵抗を忘れた彼は男の肩に寄り掛かるのだ。
 弱りきった体を抱え、男は小さく溜め息を吐く。そしてそのまま唇を開いたかと思うと、比較的小さな――とはいえ普段からそれほど大きくもない――声で彼に語りかける。

「目を閉じていろ。気分が悪くなっても責任が取れない」
「……う……」

 そっと声を掛けてきた男に対し、彼はいくらかの疑問を覚えた。一体何をするつもりなのかと、訊いてみたくなったような気がした。堪らず閉じかけていた目を抉じ開けてしまうと、彼の視界の端に黒い影がふわりと揺れ踊る。
 直後、辺り一面が黒に包まれた。夜や影程度では済まされないような、少しの光も届かない一面の黒。これが男の言う「闇」であると理解すると同時に、目の前の光景が一変する。
 ほんの一瞬。一面の黒に包まれたかと思えば、晴れた視界の先に映るのは見慣れない部屋。壁に添うように立て掛けられた本棚にはいくつかの本がある。空気の入れ換えのために開けられた窓からは風が吹き、薄手のカーテンが揺れる。ほんのりくすんだような赤黒い絨毯に、必要最低限のものだけ揃えられた家具は、彼の見慣れないものばかりだ。
 極め付きは部屋の大半を占める大きな寝具。人一人が使うにはあまりにも大きく、質の良さそうなそれは一際存在感を増している。
 男はその寝具に彼を載せて、汗ばむ顔を白い手で軽く撫でた。熱を持つ頬に男の手はあまりにも冷たく、彼は反射的に強く目を瞑り、「うっ」と小さく声を上げる。その直後に額に当てられるその手は心地がよく、彼は次第に肩の力を抜いた。

 ここはどこだろうか。茫然とする意識の中で、彼は薄ら目を開ける。霞んだ彼の視界には「ボス」らしからぬ柔らかな表情で、微笑む男が一人。心配なのか、それともまた別の理由でそんな表情を浮かべているのか――彼には分からない。ただ、その顔を見て酷く安心感を抱いた彼は「ここは……?」と小さく言った。

「俺の部屋だ」
「……!?」
「お前の部屋を知らないからな。やむなく俺の自室に連れてきた」

 男の言葉に彼は驚き、咄嗟に飛び起きた。その反動でぐらりと揺れる視界と体に、抵抗する気も起きず、彼の体が倒れる。そのすんでで男の腕が彼を支え、「大人しく寝ていろ」と男が言った。
 誰一人として知らないであろう男の自室に、彼は不本意ながらも足を踏み入れてしまった。一度は確かに気になっていた男の部屋は、眠るためだけに帰るような質素な部屋だ。その部屋の中にひとつだけ扉があり、何のために用意されているのか――気になってしまった。
 ――しかし、そんなことは今は重要ではない。
 男に押し戻され、仰向けになる彼は慌てたように「戻る」と言った。この部屋は男のために用意された部屋だ。仕事詰めの毎日を送る男が唯一気を休めることができる場所だ。まさに理想を体現する男がゆっくりと羽を休め、彼すらも見たことのない一面を見せられる場所なのだろう。
 そんな場所で眠るなど彼自身がまさに許せなかったのだ。

「アンタの部屋を使うとか、普通に考えて無理だって……」

 徐に体を起こし、彼は這うように寝具を降りかけた。自分がこんな場所で休んでいいはずがないと思ってのことだ。
 ――しかし、彼の言動を見て男はくつくつと笑ったかと思えば、彼の額に指先を当てる。そうして静かな声色で彼の名前を呼んだ。

「ノーチェ・ヴランシュ」
「――!」

 酷く静かで、一種の恐怖すらも覚える男の声に彼の動きが止まる。まるで体を縛られたかのような異様な拘束感に、彼の目が丸くなる。男が何かをしている試しはないが、男が与えてくる威圧感は彼の動きを止めるには十分だった。

「俺の言うことが聞こえないのか? 大人しく寝ていろと言っているのだ」

 彼は動きを止めたまま横目で男の顔を見やる。男は柔らかく笑っているものの、この言葉の端々には到底機嫌の良さなど窺えなかった。自分の言うことを聞かないなんて思ってはいないであろうが、聞かない場合には何をされるかなんて分かったものではない。
 彼は渋々男の指示に従い、ゆっくりと布団をかぶり始める。すると、男は満足そうに「よろしい」と言って、彼の頭を撫でる。ほんの少し汗ばんだ髪が男の白い肌にまとわりつくのを見て、彼は「やめろよ」と呟いた。
 女のように白い肌が汚れるような気がして、酷く気に食わなかったのだ。

「何も気にしなくていい。お前はただ、今日はよく寝て、体を休ませればそれでいい」

 しかし、彼の抵抗も虚しく男はただ彼を撫で、柔く微笑む。まるで気に入っている飼い犬を愛でるような顔付きに、彼の気持ちが僅かに絆された。
 気を抜いてしまったからだろうか。ゆっくりと呼吸を繰り返す彼に、少しずつ鈍痛が襲い始める。初めは気のせいだと思っていた強い痛みは彼の頭を蝕み、目頭が無駄に熱を持ち始めた。泣くつもりなど到底ないというのに、勝手に目尻から涙が溢れてしまう。堪らず「だせぇ……」と自虐の言葉を洩らすと、男はどこからか取り出したタオルを彼の頬に当てた。

「体が病原菌と戦ってる証拠なんだろう? 何もださいことはないさ」

 俺からすればお前たち人間の体は面白いよ。
 男はそう言って彼の汗やら涙やらを拭いてやり、宥めるように再び頭を撫でる。男の冷えた手先は今の彼にとって心地好く、頬に滑るや否や彼はその手にすり寄る。最早格好がつかないなどと思っている余裕はない。彼はただ、体を這うような心地悪さから逃れたかった。

「先程介抱の仕方も聞いたからな。息抜き代わりに俺が診てやる」
「…………いや……休めよ……」
「俺の部屋にお前がいるんだ。休もうにも休めまい」
「……そうだった」

 男は彼が妙に甘えてくることに気にも留めず、すり寄ってきた彼の頬を指先で撫でて笑う。ほんの少し、ひとりごちるように「犬みたいだな」と男が呟いたが、彼は聞こえない振りをした。他人に自分がペットか何かだと思われることは酷く気に食わないが――、男の呟きに対しては特別苛立ちを覚えることはなかった。
 彼は知っているのだ。ボスが人間よりも遥かに動物を愛でていることを。男曰く「動物は裏切ることがないから」、その信頼を一心に受けられるのだ。
 彼でさえ一変の疑いもない瞳を向けられたことはない。それなのに、動物ごときが男の信頼を得ているのは少しばかり腹立たしい。嫌いではないこの男にどれだけ寄り添い、期待に応えようとも――彼は曇りのない信頼を得ることはできないのだ。

「――…………」

 ――そう思えば不思議と悔しく、胸の奥に厚いものが込み上げてくる。熱を出してしまったことによる情緒の不安定さが影響しているのか、彼は撫でられながら再び涙を流すと、男は困ったように微笑む。

「……参ったな。俺は主以外の宥め方を知らない」

 犬が泣くことはない。その点を考えると、やはり男は彼をしっかりと人間として見ている。
 「別に、気にしなくていい」堪らず彼がそう呟くと、男は首を横に振った。看病すると言った手前、離れる気はないのだろう。しきりに彼の頭を撫で、懸命に宥める姿は物珍しい。何事もそつなくこなす男が苦戦しているのを見かねて、彼は何気なく、この人も人なのだと思えた。

「そうだ、何か欲しいものはあるか? 取ってきてやる」

 ふと気を逸らすように話をするものだから、彼は理解ができず、瞬きをひとつ。そうして離れていく手に寂しさを覚え、彼はそれを目で追っていた。冷えていた手のひらが頬を離れ、宙を漂う――それがあまりにも寂しく、気が付けば彼の手は男の手を掴む。
 眠気と熱と、知らない間に溜まっていた疲労により、彼の手のひらは酷く熱かった。

「――……どうした?」

 彼が男の手を掴んで数秒。なぜ引き留めたのかも分からない男は、小さく首を傾げながら彼に問い掛ける。何かしらの理由があって留めたのだろうが、彼は特に唇を開くことはなかった。ただぼうっと男の顔を見つめるものだから、男は小さく唸る。
 ――初めて見るような光景に彼はほんの少しだけ優越感を抱いた。自分以外は知り得ないであろう男の顔は、下手に人間を装う人外よりも遥かに人間らしかった。この人も自分と同じなのだという嬉しさが半分、彼の胸に募る。

 ――そうして遂に、夢だか、現実だか区別がつかなくなった。

 男にしては小綺麗な顔立ちに長い睫毛、絹のように滑らかな黒い髪、日に焼けていない白い肌。女が憧れていそうな容姿を持つ男に彼は目を奪われる。透き通るような金の瞳も、まるで酸化したような暗く赤い瞳も、彼は知っているはずだった。
 知っているはずなのに、どういうわけか違和感が残る。まるで長い間その顔を見ていなかったときのような懐かしさに、彼の胸に募るのは悔しさばかりだった。

「…………いらない……」
「…………ん」

 ぽつりと絞り出した言葉に男は聞き返すよう、首を傾げる。相変わらずボスらしくないような優しい顔をするものだから、彼の情緒が更に不安定になるような気がした。

「いらない、から……アンタはどこにも、行かないでくれよ」

 理由もなく溢れ落ちた妙な懇願に、男は再び困ったように微笑むのだった。


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