残り香に酔う


 なるべく部屋にいると言った手前、終焉は無鉄砲にどこかへと向かうわけにはいかなかった。けれど、これからの飲食も、入浴も、体の状況も考えると――、部屋の中にいるのは得策ではなかった。

 ノーチェが目を閉じてから数分。ゆっくりとした呼吸音が僅かに聞こえてくる。ほんの少し苦しそうな顔をしているが、彼は無事に眠りへ落ちることができたようだ。頬に伝う汗を小さく拭ってやりながら、終焉はその顔を見て僅かに顔を歪める。
 弱りきっていた体をどうにか戻してやろうと、奮闘していた結果がこれだ。
 ぼんやりとノーチェの体を眺めてみると、ほんの少しの違和感が彼の体にまとわりついているのが分かる。命を蝕んでいく病のように、黒い靄のようなものが手足や、胸元を掠めているのだ。
 黒い、黒い――その正体が、紛れもなく終焉の者≠フ一部であることを、男は十分に理解していた。まるで死を告げる何かのように、もうもうと沸き立つそれが、男は嫌いだった。

 白い猫とて、例外ではなかったのだ。

 このままではよくない。
 男はノーチェの顔を拭ってやったあと、手を引いて惜し気もなく踵を返す。部屋にいろと言われていたが、傍にいるだけで何らかの影響すらも与えかねない。少しずつ体を蝕んでいくだけの影響ですら、今のノーチェにとっては命の危険すらも呼び起こしてしまうからだ。
 ――とは言え、傍にいられないだなんて、終焉が彼に告げることもできなかった。
 時折見掛ける寂しそうな雰囲気も、孤独を抱えているような顔付きも、彼には到底似合わないからだ。その似合わない顔を数回遠巻きに見つめると、どうにも男の中にある良心がズキリと痛む。彼にそんな顔をしてほしくはないと、懸命に気を紛らせてやろうとするのだ。

 全ては彼を愛しているから。その感情に嘘偽りなど、ある筈はない。

 部屋の扉を開けて、音もなく閉めてやって。廊下に出てから一息吐いた終焉は、頭を左右に振ってこれからのことを考える。肌を刺すような冷たい空気も、今の彼にとってはただの弊害でしかない。なるべく過ごしやすい条件を整えていなければ治るものも治らないだろう。
 掃除に洗濯。庭の草木に降り積もった雪を払い除けて、僅かに差し込む太陽に当たるように仕向けなければならない。風呂を掃除して、寒い中戻ってくるであろうリーリエを少しでも労るように、温かい湯船を用意しておかねばならない。万が一ノーチェが何かを食べたいと言っても対応できるよう、食べられるものを少しでも用意しなければ。

 ――ほう、と息を吐き、終焉はゆっくりと階段を下りる。やることをひとつひとつ頭の中に並べ、何から手をつけようか頭を悩ませる。特別念入りにしなくても清潔を保てている掃除を手早く済ませ、風呂を沸かしてやろうかと男は考える。
 外は時折雲の隙間から僅かな光が差し込むが、日が隠れたままの状況が長く続き、肌を刺すような寒さが身に染みる。地面には雪が降り積もって寒さはよりいっそう強く感じられる筈だ。
 その中をリーリエは意地で飛び込み、光のない森の中へと走っていった。他でもないノーチェの薬を作るためだけに。
 そんな女のために風呂のひとつやふたつ、用意してやらなくてどうしたものか。

「入浴剤はまだあったか……時間は掛かるだろうから、その合間に手料理のひとつくらい……」

 ぽつりぽつりと独り言を洩らしながら、終焉は階段を丁寧に下りる。考え事を頭の隅に追いやりながら足を踏み外さないように、足の裏でしっかりと階段を踏み締めた。絨毯の上の掃除もしなければ、なんて思いながら階段を下りきる手前でぴたりと足を止めてしまった。
 足を止めた先、つい先ほどノーチェが血を吐いてしまった箇所が目に入る。遂に体調を崩してしまったノーチェの対応に追われ――と言うよりは、柄にもなく慌ててしまい――掃除のことなど忘れてしまったその場所に、赤黒いシミが残っている。すっかり酸化してしまったのか――当初見ていたものよりも遥かに黒く濁っているように見えるそれに、男は「しまったな」と口を溢す。

「これは上手く取れるだろうか……ただでさえ血は落ちにくい筈だ……早く対処しなければならなかったな……」

 自傷気味に薄ら笑いを浮かべて、男はそのシミを後にする。
 階段を下りきり、首を横に振りながら酸化してしまったそれが落ちるかどうか、頭を悩ませる。階段にあるその絨毯は長く、一枚になっているようで、到底引き剥がして丸ごと洗う、なんてことはできそうにない。一部のシミに対して懸命に対応するしかないようだ。
 骨が折れそうだな――なんて言って、男は洗面台へと向かった。

 ――つもりだった。

 珍しく手袋のない手が、男の意思とは反するようにゆっくりと伸びる。白い指先が赤黒いシミを軽く撫で、そうっと腰を下ろす。顔を近付けると黒く長い髪が階段の上に落ちるよう、雪崩れてきた。ぱらぱらと滑らかな髪が視界に入るが、どうにも終焉は気にも留めていない。
 ほんの僅かに漂う錆びた鉄の香りが、男の鼻を擽る。その度に喉の奥を鳴らすように、生唾を呑み込むような音が鳴らされる。ただ一点だけを見つめる男の瞳は鋭く、まるで獣のように爛々と輝いている。
 そして、シミを指先でなぞり、笑いながら言うのだった。

「――ああ……なんて、美味そうな…………」

◇◆◇

 ――どうにも暑苦しくて目を覚ましたらしい。
 薄暗い部屋。火照る頬に伝う冷たい空気が程好い目覚ましになる。うっ、と多少の唸り声を上げてから、今まで滅多に動くことのなかったそれが小さく動いた。
 寝返り――などではなく、すっかり目を覚ましてしまったよう。終焉は何気なく目を通していた本を軽く閉じると、ノーチェに視線を移す。ゆっくりと目を覚まし、彼はいの一番に男の顔を見た。汗ばんでいて、癖の目立つ髪が今ではしっとりと濡れている。
 風呂に入れてやりたい気持ちを抑え込み、終焉は本を机の上に置いて、「どうした」と問い掛ける。終焉の顔を見るノーチェは、眠たげに――けれど、怠そうに瞬きをしてから唇をきゅっと結んだ。
 話す気力がないのだろうか。首を振ることも、唇を開くこともなくじっと終焉を見つめるだけだった。

「……喉は渇いていないか? 念のため飲み物は持ってきているよ」

 男は小さく息を吐いたあと、椅子から立ち上がりノーチェの元へと近寄る。額に手を押し当てて熱を確かめようと右手を挙げたが、何かを考え込むように彼の目の前でぴたりと止まってしまった。
 リーリエの言葉が頭に残る。弱りきっている彼に手を伸ばした結果が、悪化を呼んでしまえば元も子もない。
 終焉は彼を見つめ返すようじっと視線を向けていた。ノーチェから見れば、僅かに口許だけで微笑みを表した男が、妙に冷めたような瞳を向けているように見える。何かを考え込むような――それでいて、戸惑っているようなそれに、ノーチェの手指が動いた。

「…………ノーチェ」

 男が伸ばしかけていた手を、ノーチェがぐっと握る。ひやりとした氷のような冷たさ。熱を帯び、溶かされるのではないかと思えるほどの熱さ。冷たさを奪うような熱に、終焉ですらも小さな驚きを覚えたが、彼はいやに気持ちよさげに目を閉じていた。

 ――緊張が体を支配しているのだと、男は漸く理解をする。

 万が一彼に触れたことで、彼自身に何らかの影響を与えてしまうのではないかと。弱った体に追い討ちをかけてしまって、取り返しのつかないことになってしまうのではないかと。そういった懸念による緊張が体を支配し、上手く体を動かせなくなっている自分がいると、自覚をした。
 それほどまでにノーチェという人間は、終焉にとって大切な人間だ。彼の代わりなど誰一人としていない。

 自分を殺せる存在がノーチェだけということが尤もな理由ではあるが、それ以上に深く、強く、彼を愛してしまっているのだ。

「…………薬はまだだ。もう昼に差し掛かりそうだが、食欲はあるか……?」

 ――しかし、そんな感情も表にすら出せない。なるべく悟られることのないよう、男は平常を装いノーチェに問い掛けた。彼はその問い掛けに応えるような素振りを微かに見せつつも、やはり言葉は出すことがない。終焉の手を握りながらじっと男を見つめ、興味なさげに視線を逸らすだけだった。
 暗に「食欲がない」と示しているのだろう。
 素っ気なくもしっかりと応えてくれるノーチェに対し、終焉はほんの少しだけ緊張が解れたように「全く」と言った。食欲がない彼に対して無理に食べさせるつもりは毛頭ないが、少しでも何かを口に入れてほしいという気持ちがあるのだ。

「薬が来たら嫌でも口にしてもらうからな。空きっ腹には良くないらしいから」

 ――そう呟くと、ノーチェは小さく眉を顰め、不機嫌そうな顔をした。
 食欲がないと伝えているのに、嫌でも食事をさせようとする終焉に対して多少なりとも不満があるよう。彼の言いたいことがほんの少し分かるような気がして、男は「文句を言うな」とノーチェに呟く。
 弱々しく握られている手を離すと、妙に物寂しそうな顔をするものだから、終焉は頭を悩ませた。このまま触れたとして、問題はないのだろうか――またも恐怖にも似たような感情が体を支配し始める。

 初めて手のひらを汗が滲むような錯覚を覚えた。鼓動が高く、強く、不快なほど脈打っているような感覚を得た。万が一のことが起こってしまったら、どうすればいいのかと、息が詰まる。

 ――しかし、そんな終焉のことなど露知らず。ノーチェは離れた男の手に再び手を伸ばすと、次は頬に手を添えた。茹だるような熱が頬に集まっているのか、頻りに額やら首の近くに手を当てて小さく唸っている。まるで弱りきった小動物が助けを求めているような素振りに、男は僅かに微笑ましく思った。

 ――そして、喉を掻き鳴らす。

「――……こら」

 直前で終焉は握られている手に力を込め、息を吐くようにノーチェへと言葉を洩らした。彼は熱に魘されているのだろうか――男の手を離すことはなく、訝しげな顔をして小さく唸り続けている。
 頭が痛いだとか、体が重いだとか、そう言った弱音を吐くことはないが、どうにも苦しそうな顔が終焉の良心をつついていた。
 そんなノーチェに対して少なくとも欲を見せてしまっている自分を、男は恥じる。自分を戒めるように自傷行為に走ろうと思うものの、手が掴まれている以上、行動にも移せない。終焉は困ったようにじっとノーチェを見つめているが、彼はそれに気が付かないまま。熱い、とだけ呟いて苦しそうに息をする。
 ――そうして忘れた頃に強く咳き込み、終焉の肩が小さく震えた。

「水でも飲むか? 息苦しくなるよりはマシだと思うが」

 この現象も自分の体が影響しているのではないだろうか。
 ――そんな不安に駆られながらも、ノーチェに給水を促すと、彼は小さく頷いて男の手を離す。そうして漸く自由になった終焉は、事前に用意していたガラスコップの中に水を注ぎ、彼に手渡した。
 ノーチェはゆっくりと気怠そうに体を起こして、終焉から受け取ったコップに口をつける。勢いはないがちまちまとそれを飲む姿に、終焉はほんの少しの安心感を抱いた。何かを口にする気力は辛うじてあるようだ。

「…………ん」

 数回水を飲んだだけのノーチェは、それを終焉に差し出してコップを返す。「もう満足か」と男が問い掛ければ彼は頷き、もそもそと布団の中へと戻り始める。いつの間にか溢れ落ちていたタオルは寝具の上に落ちていて、終焉はそれに手を伸ばす。
 すっかり温くなっただけの濡れたタオルに心地好さはなかった。これではノーチェも不快感に苛まれるのか――、氷嚢を無理にでも添えておくべきだろうか。そんなことを考えながら終焉はむ、と小さな声を上げる。
 考え込むときの癖として唸ることがあるのを、終焉自身は知らないようだ。

 ――とにかく冷やしてやらないと。

 考えるのをやめようとした矢先、男の手に再び熱が伝う感覚が訪れる。
 タオルを掴んでいた手がそれを溢し、再び寝具の上へと落ちたのを見届けてから、男は瞬きを数回繰り返した。そして、驚くように彼の名前を呼び、苦笑も洩らすことなく首を傾げる。
 ノーチェの手が再び終焉の手を掴み、頬に添えていた。すっかり熱を帯びて赤く染まる頬に汗が伝う。拭ってやらないと――と思う男とは裏腹に、彼は掴んでいる手を一向に離そうとはしなかった。
 どうにも終焉の冷たさが心地いいようだ。
 あまり触れてほしくない気持ちを抱きつつ、臆することもなく自分に触れてくるノーチェに、終焉は思わず目頭が熱くなったような気がした。胸の奥から込み上げてくる何かに驚いて、男は堪らず頭を小さく振る。感情を表に出してはならない――それが、この世界で生きる男に与えられた枷だった。

 こんな世界で生きていて何が楽しいのかと男は頭を悩ませる。唯一の生き甲斐になりそうなものを見付けたとしても、自分の特異体質によって命を奪ってしまうのなら尚更だ。
 意図せず奪ってしまう命に嘆くより、思い切り殺してくれれば気持ちが晴れる。――そう、願っているにも拘わらず、唯一終焉を殺せるノーチェは、凶器を握ることすらもままならない。

 ――これは罰なのだろうか。

 ほう、と溜め息を吐き、男は気持ちを落ち着かせる。空いた手で湿っているタオルを持ち直し、額に滲む汗を拭う。湿った質感のそれが気に食わないのか、彼は妙に嫌そうな顔をするものの、終焉の手を離そうとはしなかった。
 具合の悪い体に冷たいものは良くないだろうな、なんて思いながらも男は振り払うことはしない。ノーチェが拒むことがない以上、終焉は彼を拒むことがないからだ。
 ――元よりノーチェのことを拒む理由はないのだが。

「……もう一眠りしておくといい。具合が悪いときは寝るのが一番だぞ」

 男が優しく声を掛けると、ノーチェは渋るような声を上げて終焉の手をぐっと握る。体が弱っている所為か――、比例してやたらと甘えたがるような一面がよく目立つ。離れてほしくはないのか、それともまた別の理由があるのか、終焉には分からない。
 ただ宥めるように頭を撫でてやってから「寝ていろ」と呟く。

「眠るまで傍にいよう。邪魔はしないようにするよ」

 そう言って声を掛け続けていると――、ノーチェの瞼がゆっくりと閉じていくのだった。


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