路地裏の蛇の視線


「これから大きなことをするからね。皆それを目当てに来るものだよ」

 モーゼの背を追いながらノーチェは何気ない一言を一心に聞き続けた。
 男の言う通りなるべく人通りの少ない道なりを選んでいる様子は、多少疑うことを覚えたノーチェでも見受けられるものだった。彼は残ったりんご飴を両の手で持ち手が壊れるほど強く握り締め、ぼんやりと見ているだけとしても警戒を解くことはまずなかった。――本当に商人£Bに明け渡されないかがやはり不安だったのだ。
 ――といえども、半ば強制的に人通りの少ない道を選ぶのは必然のようだった。
 モーゼの背を追っていたノーチェは不思議と人に囲まれることが多くなった。――正確にはモーゼを慕う人間に囲まれるような形になった、というのが正しい話だ。とぼとぼと後を付いて回ると、モーゼを見かけた住人達がやたら好意的に男に話し掛けていくのだ。
 その誰もが大抵「何故黒い服を着ているんですか」という質問ばかりで、それを毎回同じ言葉を返していく。「ひとつの警告だよ」――なんていうやり取りを、もう片手で数えるには指が足りないほど見てきた。ノーチェがぼんやりと見ているだけでもモーゼは露骨な疲労を見せることはなかったが、笑みを浮かべていた筈の表情が多少ひきつっているような印象を受ける。
 この人はこの街で一番慕われているんだろう。――彼がそう思っていると、男は徐に振り返って「いい加減人通りの少ない所にでも行こうか」と裏へ誘われた。賑わいを背に薄暗い路地裏を足音がふたつ響いた後、僅かに開けた場所へと出る。住宅の裏側は荒んでいるというわけではないが、表通りほど手が施されているわけでもない。離れた向こうに大きな石壁があり、自然物と思われる植物がちらほらと見受けられて、木陰に椅子などが置いてある程度。
 終焉とはぐれる前まで居たような場所によく似ていることから、あの男もまた人通りの少ない裏通りを選んでいたのだろう。

 ――あの人は怒っているのだろうか。

 モーゼが気晴らしに祭りについての話を進めるものの、ノーチェは後を付いていくだけでろくな返事もせずに歩を進める。顔は俯かせて、はぐれてしまった終焉が今どんな感情を抱いているのかを考えながら、手元に収まるりんご飴をぼんやりと見つめる。
 アメに包まれた果実は大変甘いのだと終焉は言った。――正確には甘いと即答しただけではあるが、あの終焉が「甘い」と即答したのだ。チョコレートの類いほどではないだろうが、それなりに甘いのだろう。
 そう思えば思うほど、足早に男の元へ戻りたいという気持ちが高まるような気がした。何せ普段から欠点のひとつも見当たらない終焉が、いやに不調を訴えかけるように意識を手放すことが多くなったのだ。時間を共有し始めたのはほんの二月ほどではあるが、それでも終焉を見るノーチェは男の調子を感覚で判断する程度には慣れた筈だ。

 何もできない奴隷という立場にあるノーチェが唯一できることとすれば、人間観察だろうか。以前のように活発――だったような気がする――に動くことはなくなった分、人間の顔付きに目がいくようになった。一言で表すなら「顔色を窺っている」というのが正しいだろうか――。お陰で彼は感覚で接することができたのだ。
 元々誰がどう動くのか、という予想がつくのは、ある両親の間に生まれたからこその賜り物なのかもしれない。
 そう思えば終焉の様子を窺うのは酷く難しく思えた。凝視していれば分かる程度の表情の変化はほんの一瞬で、無表情で繕ったかのような顔は感情の色を浮かべてはくれないのだから。普通ならば言葉にこもる筈の感情も、男にはこもらないのだ。
 理由は単純だろう。以前説明を受けた、「感情を表に出せば死ぬ」という事情が男の感情を奪うひとつの原因なのだ。彼自身未だそれを目にしたことはないが、それは酷く厄介そうで、どの程度の感情を表に出してしまえば死に至るのか、まるで分からない。
 万が一それに直面してしまえば、体の芯から震えるような、見覚えのない恐怖に襲われることは間違いないだろう。終焉が血を流した――それだけで見覚えのない恐怖に襲われたノーチェは、もしも自分が手をかけたとき、一体どのような感覚に襲われるのかとそれを握り締める。
 ――もしも、この手で終焉を殺めたら残るのは、見知らぬ後悔なのだと、無意識ながらも確信を得ていて――

「――なかなかいい度胸だね」
「……!?」

 ――不意に投げ掛けられた言葉に、彼は咄嗟に肩を震わせた。
 あまりの声の近さに顔を上げたとき、目の前にあるのは酷く淀んだ藤色のような瞳だった。祭りの明るさがどこにも見当たらず、夜の暗さにまみれている所為か、よりいっそう不気味に思える瞳にノーチェはサッと目を逸らす。
 終焉や挑発的なヴェルダリアの目付きが獣のように鋭いと例えるならば、目の前の男は粘着質な――例えるなら蛇のように絡み付くような目が特徴的だろうか。恐怖とはまた違った感覚を「不気味」と捉えたのは本能によるものか――絡み付くような目が嫌で、彼はそれから目を逸らしたのだ。

「おや、困らせてしまったね。ごめんごめん」

 モーゼは苦笑を洩らしながらノーチェから距離を取り、再び案内をするように彼に背を向ける。「君があまりにも話を無視してくるものだから」なんて笑うように言っているが、ノーチェは得体の知れない感覚に思わず「……すみません」と言葉を洩らす。

 終焉の表情や感情が「抑えつけていることにより読めない」のなら、モーゼという男は「笑みで蓋をしてひた隠しにしていることにより読めない」のだと彼は気が付く。
 初めて見た感覚に駆られたのは紛れもない不気味さだ。陰の残る瞳が何を思っているのかも分からず、加えて何があっても微笑みを絶やさない表情が仮面のように顔を覆っている。「素顔」は見受けられず、そこにあるのは微笑――人間を「人間」として見ていないような、見下したような笑みだ。
 素顔が見えず、会って間もないノーチェがそれに気が付いたのは、あくまで彼が奴隷という立場だからだろう。重くなる足で付いていく男の背中では何も読めないが、先程の目は明らかに彼を見下している目だった。似たような視線を幾度となく与えられたノーチェはそれがすぐに分かり、思わず謝罪の言葉を口にする。
 そうでもしなければならないと思ったのだ。そうでもしなければ――目の前の男が何をしでかすか、分からなかったのだ。

 「いやいや、そんなに畏まらないでいいよ」モーゼはノーチェの言葉を背に受けて機嫌良く笑っているように見せた。相変わらずの黒い服を靡かせて歩く姿は神父そのものであるが、表情こそはまるで変わらない――周りを見下している笑みのままだ。
 彼はそんなモーゼの言葉を信じない方がいいのだと学びつつ、重くなる足をゆっくり、ゆっくりと進めていく。
 本当に終焉の元へ帰れるのか不安になり始めたのだ。今更商人≠フ元へ戻されたり、どこかへ売られたりということに驚くことはないが、今まで世話をしてくれた男へ何も返せず、黙ったまま消えることは許せないような気がした。――何故だか酷く気怠げなあの姿が頭から離れてはくれないのだ。
 加えて先程与えられた不気味な感覚が体を這いずって止まない。願わくば一度終焉に会い、この不気味さを払拭してから再び奴隷人生に戻ることができるのならば、彼とて文句はなかった。

 ――気が付けば男との距離は数メートル空いていて、このままでは見失ってしまうのではないかと思えるほど。未だ裏道を歩く所為か、周りの景色が季節のように変わるわけではなく、ただ石壁と程好い手入れだけが施された道なりが続いているだけ。石畳から弾かれた雑草がさわさわと穿き慣れない靴を撫でて、夜のために僅かに冷えた風が頬を撫でる。
 いっそのこと見失った方が早いのではないかと彼は思う。――しかし、ルフランの住人ではないノーチェには、自分がどこからどこへ流されたのかを説明するのは難しい話だろう。人混みへ混ざれば商人£Bの目も掻い潜れそうなものではあるが、彼もまた迷子同然になってしまうのだ。
 幸いニュクスの遣い≠ナあるノーチェは夜目が利く。特別可笑しな出来事に巻き込まれない限り見失うことはまずないだろう――。

「…………?」

 ――不意に先を進むモーゼの手のひらが制止を促すように向けられた。同時に、夏だというのにも拘わらず妙に冷たい何かが足元を掠めるような気がして、ノーチェは思わず身を捩らせる。
 何かあるのだろうか――。
 そう思った矢先、モーゼが徐に唇を開いた。

「……やっぱり祭り事、少しは減らしてみるのもいいのかもしれないねぇ」

 ぽつり、呟かれた言葉に今までの見下すような色は含まれていなかった。寧ろその逆――ただ静かに燃えるような怒りがふつふつと沸いているような、僅かながらも怒りがこもっているような気がしてならない。
 作り上げたような声色は消え失せ、代わりに低くくぐもった声がモーゼという男の素性のひとつなのだろうか――。
 「何かが来るような気がするんだけど」――生身の人間である筈のモーゼは薄暗い前方から何かが来るような気配を感じているようで、足を動かせずにいる。――だが、祭りの光は言うほど届かないのが裏道というものだ。一本道しかない前方はいやに薄暗く、目を凝らしようもない。
 加えて男は多少目が悪かった。
 それでも余所者であるノーチェを庇うということは、商人≠謔閧ヘ遥かに善人の部類に入るのだろう。
 彼は立ち止まったモーゼとの距離を保ちつつ、何気なく脇から顔を覗かせる。身長は然程変わらないが、俯きがちのノーチェは相手を刺激しないよう、こっそりと前を見るのだ。
 ノーチェの目に映るのは一人の男だった。祭りには似つかわしくない洋服を着て、何かを抱えながら一心不乱に走ってくる。道中後方を確認しては再び前を向くものだから、盗みか何かを働いた人間だろうか。
 そう言えば犯罪率上がるって言ってたな――なんてことを思いつつ、ノーチェは小さく唇を開く。

「……走ってくる…………一人……」
「……おや、目がいいのかい。助かるねえ……他に何か特徴は?」
「えっ、あ……」

 助かるだなんて言われるとは思わなかったノーチェは肩を震わせると、咄嗟にそれを凝視する。言えるほどの特徴はないが、ただ何かを抱えているのがひとつの特徴だろうか。

「…………何か持ってる」

 小さく小さく呟けば、「じゃあスリだ」と言ってモーゼはゆっくりと微笑んだ。
 男はそのまま制止のための手を胸元に寄せると、白い手袋を取る。そのまま前方へと差し出すと、ノーチェに向かって「離れていてくれるかい」と呟く。彼はその言う通りに今までよりも長い距離を取ると、石畳を駆ける足音が少しずつ大きく聞こえてきた。
 暗い闇の中でもノーチェは真昼のように視認することができるが、モーゼは彼ほどの目を持っていないようだ。何か問題があればどうするつもりだろう――そう心配を胸にノーチェはその様子を見守っていたが、余計なお世話、というものだった。
 微笑む男の瞳が一瞬だけ火を灯すように鋭くなる。優しげな微笑から一変、ほんの少し私情を込めた瞳と同時にまとう雰囲気が変わったような気がした。
 ――夏だというのに酷く寒かった。

「足」

 ――ぱちん、と心地のいい破裂音にも似た音が鳴らされる。それが指を鳴らした音なのだと気が付くのに時間は掛からず、それを見守っていたノーチェは瞬きをひとつ。
 暗闇に紛れて近付いてきたものの足に季節外れの氷が一瞬、まとわりついた。音と共に現れた氷は動かそうとする足を凍らせて動きを抑制――そのまま何かを投げ出して倒れるようによろめくそれを、捕まえようという算段だったのだろう。

「おや?」
「あっ」

 ――たったひとつの誤算といえば、距離があまりにも近すぎたことだろうか。
 足を止められ躓くように倒れ込んできたその手はモーゼにあまりにも近く、手が顔の横を通りすぎる。ノーチェの目から見てもそれは一目瞭然で、衝突は免れないと思うほど。
 ナイフの類いを持っていなかったのは不幸中の幸いというやつだろうか。薄暗い場所から出てきたそれを男は動かずに見ていて――じゃり、と砂が擦れ合うような音を立てながら足を半身引いたのをノーチェは聞き逃さなかった。
 倒れ込むように伸びてきた手を両手で掴み上げ、その勢いを利用するようにモーゼはそれの体を投げ飛ばす。それの体は倒れた勢いを利用された所為か、見た目よりも軽々と背負われ、背中から石畳へと強く打ち付けられる。――所謂背負い投げをしたモーゼはその手を離すと、「いやぁ、危ない危ない」なんて言って笑う。

「ああよかった、君に当たらなかったね」

 そう言ってノーチェの姿を確認するが、彼自身肝が冷えたような気持ちで先程の行動を見守っていて、僅かに焦りを覚えた。
 ――というのも当然だろうか。ノーチェの足元には先程投げ飛ばされたスリの男がいて、目を回しながら石畳でのびている。勢いを利用された衝撃は計り知れないものだろうが、それ以上に頬を掠めた風に彼は嫌悪感を隠せなかった。
 確かに離れていろと言われていたのだが、何をするのかが明確になっていなかった以上対処のしようがなかったのだ。先程よりも距離を取っていたとしても、それが投げ飛ばされれば当然空ける距離は更に広くなければならない。 そうであれば、真横を通り過ぎるなんてことは起こらなかった筈なのだ。
 ――とはいえ彼は怒りを露わにすることなどまずなく、ただ無表情でモーゼをじぃっと見つめるだけ。たったそれだけでノーチェの言いたいことが分かると言わんばかりに男は両手を掲げ、「ごめんごめん」と平謝りを繰り返す。

「だから君に当たらなくてよかったねと――もう忘れてくれないかい……凝視されるのは苦手だよ」

 未だじっとりとした目を向けるノーチェにモーゼは勘弁しろと言って、投げ出され落ちたそれを拾う。スリと言うだけあって男が持っていたのは女物の可愛らしいサコッシュで、こういうことが陰で行われているのだ、と彼が認識するのに時間はかからなかった。
 目を回し気を失うそれにモーゼは小突いてやった後、ノーチェに「先を急ごうか」と告げる。彼は瞬きをしながらこれはどうするのかと問えば、「そのうち見付けてくれるから」と男はほくそ笑んでノーチェを手招いた。

 モーゼ曰くこれから噴水広場で大きな見世物があるという。「花火は知っているかい」という問いに彼は「……一応」と小さく呟くと、「なら話は早い」と要らぬ世話を焼き始める。
 それは花火を使った見世物だという。勿論燃えるようなものでなければ、火を使うような類いではない――一言で言うなら魔法でぽんぽんと生み出して、祭りを賑やかにするそうだ。
 当然殆どの人間がそれを扱える筈もないということから、火を使う普通の花火を使うこともある。その大半が線香のように小さくも、パチパチと音を立てて輝く手持ちの花火だ。あまりにも大きいと問題が起きかねないと教会≠ェ思案した結果、線香花火が採用されたのだという。
 魔法で生み出した花火は燃え尽きることがないが、実物の線香花火はすぐに消えてしまうと批判を食らったものだが――今では納得してもらっているというのだ。
 曰くそれは一種のパレードとも言えるような賑わいを見せるようで、住人にはとても気に入られているのだ。

 ノーチェは歩きながらも「ふぅん」と呟くが、「あまり興味がなさそうだね」とモーゼは苦笑する。
 ――当然彼には祭りに対する興味が湧かないのだ。首輪の効果も相まって、楽しむよりも早く帰りたいという意思の方が湧いて出てしまう。彼は居候させてもらっている身だが――あまりにも賑やかな街並みと人の多さに疲労さえ覚えるのだ。
 「……あんまり」そう正直に呟けば先頭を切る男は「まあ仕方ないよね」と背を向けながら言葉を紡ぐ。表通りの賑わいを置き去りに裏通りを進む彼らの前にあるのは、ただ仄暗く細々とした分かれ道と中途半端に手入れされた街並みだけだ。やはり足音はどこか響いているようにも聞こえるほど。灯りと人の少なさ故か――表よりも遥かに涼しいと思ったのは気のせいではないだろう。

「――ときに少年」

 ――不意に唇を開いたであろうモーゼの声が、ぼんやりと足元を見つめながら歩いていたノーチェの耳に届く。少年っていう年齢じゃないんだけど――そう思っていると、彼の返事を待たずに男が徐に振り返って笑った。

「君は、永遠の命≠信じるかい?」

 やんわりと頬を撫でる生温い風と、モーゼの目が酷く不快に思えたのはこれが初めてだろう。
 確信を得るような口調ではない。ただ、信じているか否かを問い掛けているだけのものだ。――しかし、その表情にあるのは先の見えない仮面のような笑みで、細められた瞳には何かを探るような意志を感じてしまう。
 永遠の命≠ニいえば彼の脳裏に浮かぶのはたった一人で、それ以上に可笑しな体を持つ存在を目にしたことはない。傷はたちどころに治ってしまい、死んで尚同じ命を繰り返すというのだから、端から見ればいやに好ましいものなのだろう。
 しかし、とうの本人はそれをやたら嫌がっているようで、奴隷であるノーチェに「殺してくれ」と頼むほどだ。便利だと思ってしまうが、得てしまったが最後、ろくな人生を送れたものではないのだろう。
 理由は定かではないが、終焉は死にたがっているのだ。ノーチェ自身も自分の人生に何かを見出だせているわけでもない。――だからこそ、それが本当にいいものであるのか、考えさせられてしまう。

「…………」

 永遠の命≠宿していると告げた終焉の存在を――死んだ筈の命が甦っているのを――知っている以上、彼の答えは決まっているようなものではあったが、あくまで彼は頷くこともせず黙りを決め込んだ。目の前の男が何を思ってそれを問い掛けたのかノーチェには知る由もなければ、知りたいとも思っていない。教えようと思えば教えることはできただろうが――ノーチェはそれを黙秘で避ける。
 ――目が、表情が不気味なのだ。祭りが行われているとは思えないほどの、陰のある不気味な顔。先程から何度も見掛ける胡散臭い、信用してはいけない類いの表情だ。終焉の存在と命が本当にあると知れば何をされるのか、なんて誰もが予想できてしまいそうなものだった。――それ故に彼は押し黙ることを決めたのだ。

 ちらり。軽く俯いている顔を動かさず目だけでモーゼを見れば、男は何かを探るような目をじぃっとノーチェに向けている。身体中に蛇が這うような気味の悪さは二度も体感したくはなかった、というのが本音だが――あくまで自分を「奴隷」として扱わない終焉を、下手に売る真似をする気など毛頭なかった。
 その程度の人間性は未だ保てていることに小さく安堵の息を洩らしていると、モーゼは「まあいいや」と言ってノーチェから目を逸らす。「実際にあったらそれこそ吃驚するからねえ」なんて言って、冗談だと言わんばかりに肩を竦めるのだ。
 モーゼは恐らく何かを企んでいる。確証は得られないが、首輪により押し込められていたノーチェの血が小さく騒ぐ。両親から受け継いだそれは紛れもなく彼の力に成り得そうではあるが、それに耐えられる精神を持ち合わせていないばかりに得などしないと思っていたが――そうでもないのだろうか。
 ノーチェは自分の疑いを悟られないよう、無表情のまま「…………便利そうだけど」と小さく口を洩らす。便利そうだけど、他の人間にはよくない目で見られそうだと告げれば、モーゼは彼を背にしたまま「それもそうだね」と他人事のように呟く。

「それでも私は、死人を甦らせたいと思っているんだよ」

 石畳を踏み締めて歩くモーゼによると、永遠の命≠ヘ所持者のみならず、死人さえも甦らせることができるそうだ。人魚の肉を食べれば不老不死になるという話が音もなく蔓延るように、永遠の命≠所持しているものを喰らえば死者が甦るという。
 そんな非現実的な――命のあり方に背くような――ものが実際に可能だとするのならば、ノーチェが「死にたい」と告げた相手は相性が悪いのではないのだろうか。仮にノーチェが死んだとしても、彼を愛しているという終焉ならば禁忌を犯すのではないだろうか――。
 ぐっと息を呑み握り締めるりんご飴を掴む手にやはり力がこもる。持ち手が折れるということはなさそうではあるが、手のひらに食い込む爪はほんの少し肉を貫いたような気がした。ちくりと痛みが走るものの、ノーチェにとってそれは気に留める程度のものでもなかった。

 街の中心から離れるように歩き始めること何十分経ったのだろうか。体感で言えば、一時間近くは歩いているのではないかと思えるほどの足の疲労に、彼はほう、と息を吐く。何度も外へ連れ出されることがあっても、終焉は人混みを嫌っているようで足早に屋敷へと帰ることが多かった。足が疲れたと思えるほどに歩いたのはこれが初めてではないだろうかと、頭の片隅に休憩の二文字が息を潜める。
 疲れたと、まだなのかと言えるような性格はしていないが、中心の賑わいから随分と離れたところに来たと言っても過言ではないだろう。祭りの残響を置き去りにして久し振りに味わう疲労感に、彼は「本当に商人≠フ元へと送られるのではないか」という考えだけが顔を覗かせる――。

「――っと……ここら辺でいいかな」
「…………」

 ふと気が付けばモーゼの足が止まる。男の一言にノーチェは足を止めると、小さく顔を上げる。ちらりと顔を見やれば辺りを見渡して、「あまり時間がないや」なんて肩で笑う。一体何があるのかと思えばモーゼは小さな路地裏を指差して「ここをまっすぐ歩くといい」と言う。

「ごめんね。祭りがもうすぐ大きくなるから最後までは案内できないんだ。ここを歩いていくと目的の場所に着くよ」

 多分何も起こらないと思うけれど。そう言われてノーチェは指を差されている方へと顔を向けると、いやに静かな路地裏の先に僅かな広さが見てとれる。建物で囲まれているからだろうか――その道は酷く薄暗く、人気のない様子がやたらと恐怖心をそそるようだった。
 本当に終焉の元へ辿り着けるのだろうか。そんな疑問がノーチェの頭を掠める最中、モーゼは「こうしちゃいられない」と彼を横切る。――不意に鼻につくバラの香りが、酷く不愉快だと思えたのもこれが初めてだっただろう。

「そうだ、何かあったら教会≠ヨおいで。君は面白いから歓迎するよ」

 やんわり微笑みながら男はノーチェに言葉を置き去りにして足早に歩いて行った。
 終焉以外に黒に身を包んだ男を見るのはモーゼが初めてだったな、と何気なく目線を足元に落としたまま、モーゼの言葉を頭の中で反芻する。教会≠ヨおいで、なんて歓迎される理由は特に思い当たりもしないのだが――ノーチェは溜め息がちに「遠慮する」と言葉を洩らす。
 品定めをするように、探るように、じっとりと蛇が這うような目を寄越す男の元へ行くくらいなら、終焉の元でひたすら手伝いをする方がマシだと思えるのだ。

「…………そう思えるんだから多分……良くなってるんだろうな……」

 ――そう言葉を洩らしながら土地勘のないノーチェはモーゼが指し示した路地裏へと歩みを進める。一時的に光の届きにくい場所に居るからだろうか――夏とはいえ酷く薄暗い場所に彼は陰気臭さを覚える。いくら雰囲気がいいと思っても、建物の隅にあるゴミと、小さな獣の気配は誤魔化しようがなかった。
 これもまた晦明たる所以なのだろう。光があれば闇があるように、表があれば裏があるこの街もまたありふれたものなのだと、思わざるを得ない。理想郷なんてものがないように、善意だけに溢れた街などどこにもないのだ。
 じゃり、と砂を踏みにじる音を背にノーチェはただ歩く。今回ばかりは目的があって動いている所為か、手元に収まる赤い艶めきが随分と頼り甲斐のあるようなものにしか思えなかった。それをぎゅうっと両の手で握り締め、落とさないようにと細心の注意を払いながら彼は歩く。
 道中ゴミ箱を漁る小動物を横目に見ながら進んでいくと、目の前が唐突に開けたのだ。

 ――眼前に広がるのは薄暗い街並みに灯る提灯と呼ばれる明かり。規則正しく一定の距離を保ち並べられたそれを目に、「一体どこから得たものなのか」を茫然と考える。街並みから言えば提灯だの花火だの、見た目や名前の響きからして似合わないものだが、時折外部から人間が来るという街だ。その人間に新しい文化を教えてもらったにしろ、やけに馴染んでいるなと不思議そうに見やる。
 まるで、遥か昔から――それこそ初めからルフランには根づいていたと言わんばかりに――当たり前のように受け入れられていることが不思議でならなかったのだ。

「祭りも店も、前々からあるもんなのか…………」

 ほう、と吐息を吐くように何気なく呟いて視線を動かすと、ノーチェは瞬きをひとつ。目の前には自分が街に入ってきたときと同じ出入り口が存在していた。少し歩いた先に見えるりんご飴を売る店舗は、初めに見たときと人の数は減っていたが、終焉とはぐれる前とは一切変わらない。その店舗の目の前にある路地裏で、終焉は体を休めていた筈だ。
 万が一はぐれたらさっきのとこで――そう呟いた自分の記憶が頭を小突く。人の通りは遥かに減っていて辺りが見渡しやすい。ちらほらと疎らに歩いている様子は見かけるが、終焉の姿を探せないほどではない。誰よりも特徴的なあの外見は一目見ればすぐにでも分かるだろう。
 ノーチェは辺りを見渡しながらゆっくりと小さく足を踏み出す。裏通りよりも遥かに空気が軽いような気がするのは、気のせいではないのだろう。先程よりも辺りは明るいのだ、早く終焉を見付けなければ――

「………………何で俺焦ってんだ……?」

 ――不意に足を止め、彼は茫然としたままぽつりと言葉を洩らす。自分がしていたことの行動を思い返しては首を傾げ、目線を足元に落とす。出入り口に着いてから間もないというのに焦るように跳ねる心臓が小煩くて敵わない。一体何を焦る必要があるのか、石畳の繋ぎ目をぼんやりと眺めながらノーチェはゆっくりと呼吸を繰り返す。
 愛していると言われて自分も絆されてしまったのかと思ったが――そういった感情を覚えていなければ、抱いていた記憶も一切ないものだから、はっきりとした答えは出なかった。
 ただ言うとすれば、この焦りは迷子になった子供が親を探すときのものと酷似しているのだろう。辺りを見渡しても見付けられない間に、見知らぬ人間に手を引かれてしまえば取り返しのつかないことになるように、彼もまた商人≠ノ存在を見付かることを心の底では恐れているのだ。
 ――ということに落ち着いた。自分を納得させるために探した理由の中で、これが一番しっくり来るとノーチェ自身が見付け出した理由だった。誰かを好いた試しがないノーチェが終焉に絆されて好きだと思うなんて――、間違いだと思ったのだ。

「…………む」
「……!」

 ほう、と胸を撫で下ろすような気持ちで小さな息を吐くと、来た当初とはうってかわって静かになった街に低い声が降り注ぐ。ハッとしてノーチェは顔を上げると、そこには相変わらずの無表情のまま色違いの瞳でじっと彼を見下ろしている終焉が居た。男は物珍しそうに「本当に辿り着けたのか」と呟いていたが、ノーチェは足早に終焉の懐へ入るように近付くと、「平気なの」と問う。

「……ここなら来れるって言ったけど…………アンタ、体……」

 体調悪いんじゃないの――なんて言おうとしたところで、不意に終焉がノーチェの頭に手を置いた。

「よくできたな」

 ――初めてのことをこなした子供を褒めるように、終焉はいやに穏やかな声色でノーチェを褒める。彼はそれに茫然と終焉の顔を見上げたまま「……何で……?」と小さく問い掛けた。
 ノーチェの問い掛けに終焉は小さく首を傾げる。男曰く「ちゃんと自分が言った通り戻ってこられたから」とのこと。案内を受けていたことも、どこまで流されていたのかも聞きはしなかったが、ただ戻ってきたことに対して何故か褒めたのだ。
 そのことにポカンと口を開いてノーチェは身動きも取れずにいた。

 ――酷く懐かしいと思えたのだ。自分と変わらない筈の手のひらで頭を撫でられ、褒められることが懐かしいと。
 覚えていない気がして確証も得られないのだが、恐らく小さい頃に父親にでも褒められたのだろう。それが酷似したのか、もしくは――終焉と離れていた分、撫でられるのがやけに嬉しかったのかもしれない。

 彼は何気なく自分の頭に手のひらを乗せると、終焉が「どうした」と問う。「何か変なことがあったか?」なんて言って不思議そうに見下ろしてくるのだ。それにノーチェは首を横に振ってから、徐に両手で持っていたそれをつい、と男の目の前に差し出す。
 赤く熟れた果実をシロップなどでコーティングしたりんご飴というもの。ノーチェ自身に馴染みはないが、甘いものが大層好きらしい終焉が甘いというのだから、それ相応の甘さなのだろう。結局貰ったひとつは落として台無しにしてしまったが――自分の手で買い求めたもうひとつを、彼は終焉へと押し付ける。
 男は一度瞬きをすると不思議そうに首を傾げて「それは」と呟く。恐らく「それは貴方が買ったのだろう」なんて言おうとしたのだろう。彼はそれを遮って「俺は別に食べたいって言ってない」と告げると、男は一度考え込むような素振りを見せた後――むぅ、と唸るような声を上げた。
 自分が納得いっていない事柄に出会すと妙な唸り声を上げる終焉は、ノーチェによって押し付けられるそれをゆっくりと手に取る。取って付けたような持ち手の棒切れは弱々しく、力を込めれば簡単に折れてしまいそうなものだ。それを終焉は柔く受け取って、「仕方ないな」と淡々と――しているがどこか嬉しそうに――呟いた。
 少しは喜んでもらえたのかも、だなんて何気なく思ってみると、不意に終焉の手元のそれに目が向かう。細長く、先端には紙のようなものが付いた棒状の何か。ノーチェはそれを指差しながら「何かすんの」と訊けば、男は――

「……まあな」

 ――とだけ呟いて、彼の手を引いた。


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