雨上がりの晴天に咲かす会話


 ――夢を見た。不思議と酷く懐かしいと思う夢だ。
 見知らぬ景色、見知らぬ場所。家具を挟んだ向こうに居るそれに、何かを語り掛けている夢だ。鮮明には映らないその光景に、僅かながらにもどかしさすら覚えて眉を顰めるが、打開策は何ひとつ見付からないのだから無駄な行為だろう。
 ――そうだと思いながらも、浮かべていると思われる怪訝そうな顔をやめられないのは、目の前のそれが、思うように視認できないからだろうか。
 焦げた茶色にほんのり赤の交じる色合いの部屋。隅には本棚があり、目の前にはやけに造りのいい仕事机がひとつ。その上にはいくつもの文字が書かれた書類と、羽根ペンやインクが置かれている。風を感じることがない所為か、ぴくりとも動かない書類に重しは存在していなかった。

「――――」

 そこで目の前に居るそれに向かって唇を開いているのだが――、いかんせん、何を紡いでいるのかは定かではない。軽快に語り掛けているのだが、かろうじて見えるその面影は、あくまで自分とは全く立場の異なる存在だ。あまりに場違いな態度に、叱咤を喰らうかと思っていたのだが、その客観的な予想は的を射なかった。
 語り掛けたお陰か、背を向けていたそれが踵を返してこちらを見る。
 朧気な面影の中で微かに見えるのは、いやに澄んだ金色の瞳。まるで月明かりのようなそれに覚えたのは畏怖や感動ではなく、珍しいという感情だけだった。
 何がそうさせているのかは覚えていなければ、心当たりもあるわけがない。ただ、その無機質で何の感情もこもっていない瞳がやけに心許なく、不安の色にまみれているのだけは何となく分かっていた。だからきっと、「どうかしたのか」と声を掛けたに違いない。でなければ、僅かに見開かれ驚きを覚えたようなその瞳に、釘付けになどなっていなかった。
 目の前のそれは一度瞬きをした後、ゆっくりと唇を開いた。はっきりとは見えていないが、形が良く、女のようにふっくらとしたものだったと思う。――よくよく見れば、それの肌は女のように白く、汚れひとつない綺麗な肌だった。男である筈の彼でさえ無意識に、ああ、綺麗だと思ってしまうほどだ。
 ――そう思うからこそ、目の前のそれが男であるのだと分かった。
 ――それ以外のことは何ひとつ頭に入ってこなかった。
 声色はどんなものだったか。気が付けばそれは唇を閉ざして、再び背を向けてしまった。思わず彼も目を向ければ、そこにあるのは赤黒い厚手のカーテンの隙間からちらりと覗く、透明な硝子。その向こうは不安になるほどに空が暗く、黒煙にも似た色合いの空に、落ちてきてしまうのではないかと思ってしまうほど。時折稲光が雲の隙間を駆けていって、今にも大粒の雨が降ってくるのではないか、とさえ思ってしまった。
 そんな空をそれはずっと眺めているようで、不思議に思った彼は何気なく一歩、また一歩と足を踏み出した。
 今にも手のひらから溢れ落ちそうなほど揺らめく視界に抗うよう、必死に目を凝らして、それに歩み寄る。失礼に当たるのではないかと思うものの、こちらに気が付いたそれは一度だけ視線を寄越すだけで、咎めるようなことはなかった。――確証は得られないが、そんな気がしたのだ。
 代わりに視線を逸らされたような気がして、彼は何気なくその顔を覗き込んでしまった。
 ――黒地に不規則な赤のメッシュが交じるものの、女のように艶やかな髪は目を見張るほど。その隙間から見てしまったのは、珍しいことこの上ない表情だった。

◇◆◇

 朝、目が覚めると、ノーチェは大きな欠伸をひとつ。眠たげな目を擦りながらゆっくりと起き上がって、何気なく窓の方へと視線を向ける。遮光カーテンは仄かに明るさを帯びていて、外の景色など見なくとも晴れ渡っているのだと分かる。
 それにほんの少しの鬱陶しささえ覚えながら寝具の端へ移動すると、同時に扉がノックされる。トントン、と調子のいい軽い音だ。くぐもることもなく素手で小突いたのだと思わせるような、そんな音。男は普段から手袋をはめていることを視野に入れれば、そのノック音は珍しいものなのだろう。
 彼は返事をすることもなく、ただ扉に視線を向けるだけだった。寝起きということもあって返事をすることが億劫でもあったのだが、する必要もないのだと、心のどこかで思っていたのだろう。
 やってきた無言の時間を了承と得たのか、ノーチェの部屋の扉が小さく音を立てながら抵抗もなく開いた。

「……おはよう」
「…………ん……」

 ――そう小さく挨拶を交わしながら、終焉はノーチェの部屋へと足を踏み入れる。彼はそれを無言で許し、終焉の行動をただ目で追った。行き先は勿論、締め切られた遮光カーテンの元だ。
 シャッ、と軽い音の後に眩しいほどの光が部屋の中に差し込んでくる。それがあまりにも眩しくて、ノーチェは堪らず「うっ」と声を上げながら、顔を背けて目を擦る。じんわりと目が温まるような痛みに涙すらも浮かべていると、終焉が「いい天気だよ」と小さくひとりごちる。
 だろうな――なんて言わずにちらと視線を向ければ、終焉は窓の外を眺めたままぼんやりと立ち尽くしていた。普段のコートの姿ではないのは、男が朝食でも作っていたからだろう。キリのいいところで手を止めて、眠っているであろうノーチェを起こしにくる辺りが、几帳面だとでも言い表すべきだろう。
 相も変わらず主夫のような男にノーチェは言葉を投げることもなかったが、僅かながらも何が言いたいのかは分かっているつもりだ。窓の外を眺める顔付きが普段よりも穏やかで、愛でるような優しい表情をして、微かに安堵の息を吐く様子を見れば嫌でも分かるほど。
 「……今日は晴れてよかったな……」何気なくそう呟けば、終焉はノーチェに視線を向けた後、「晴れてくれなければ困るな」と苦笑する。その顔は本当に困るような笑い方で、冗談など口にしていないことがよく分かる。「完璧」を体現しているからこそ、だろうか――その様子にノーチェは珍しささも覚え、もう少し長引いても面白かったのではないかと思う。
 思うのだが――やはり面倒事を避けたい彼は、首を横に振って「やっぱ普通がいいな」と小さく口を洩らした。いつまでも子供のように怯えられてしまっては、匿われているノーチェとしては平常の終焉であることが一番のようにも思えるのだ。

「…………今日のご飯は……?」

 話を戻そう。
 そう言わんばかりにぽつりと呟いたノーチェは、ちらりと終焉の顔を横目で見ながら寝具の端へと移動すると、「そうだな」と、まるで独り言のように呟いた。ゆっくりと考え込むように部屋を歩く足取りは、軽くもなく、重くもなく。思案を繰り返すように一度目線を天井へ向けたと思えば、ちらりとノーチェに視線を寄越す。
 酷く澄んでいながらも暗い瞳に彼はぼんやりと見つめ返していると、終焉が「たまには外での朝食はどうだ」と彼に小さく問い掛けた。
 ノーチェはそれに何かしらの考えがあるのかと思い、小首を傾げるが、嫌ならいいんだぞと呟く様子に、怪しげな考えなど見て取れないのは十分に理解できた。――というよりは初めから何も考えていないか、昨日の出来事をどうにかして忘れてほしいとさえ思っているだろう。
 ふう、と溜め息にも似た吐息をひとつ。ほんのり眉を上げてゆるりと立ち上がると、「行く」とノーチェは答える。相も変わらず裾の長いスラックスを引き摺りながら窓辺に近寄って、ただ茫然と外の景色を眺めた。
 嫌になるほどの晴天だ。空は明るい水色に彩られ、点々と浮かぶ白だか灰色だかの雲が流れ、その合間に昇りつつある朝日が大地や森を照らす。二階からの眺めではこれっぽっちも視認することなどできないが、遠く広がる森や草木には露が溜まっているのだろう。煌々と照り付ける太陽の光を反射して、これでもかと言うほど煌びやかに輝いているのかもしれない。

「……外ってことは…………何か軽いもんなの……?」

 ノーチェが外を眺めていた視線を扉の方へと向け直せば、今にも出て行こうとする終焉の姿が視界に映る。彼の言葉に気が付いた男は、一度振り返ると「まあ、普段のように軽いものだよ」とだけ呟いて、早々に立ち去ってしまった。
 
 明言しない辺りがあの人らしいな。
 
 そう考えながらノーチェは暫くの間、気が抜けたようにぼうっと出入り口を眺める。終焉が出て行った扉は音もなく閉ざされて、向こうの音など何ひとつも聞き取れないほどに静まり返った。まるで、昨日のことなど嘘のようだと言われているようだった。
 
 ぼんやりと思考に陥った後、彼はゆっくりと箪笥へ向かい、数回着回した衣服を取り出す。未だに真新しい衣服が何着か出てくるものの、彼自身そこまで拘りを持たない所為か、同じようなものを何度も着ているのだ。商人≠フ元に居た頃とはいくらか清潔であると思っているのだから、まだマシな方だろう。
 極力忌まわしい首輪が目立たない黒のシャツに袖を通し、日常的に歩きやすいサイズのスラックスに履き替える。息苦しくならないよう、首元のボタンは数個開けっぱなしにして、ベルトを通せば外行きの姿の完成だ。
 着替えて脱いだ部屋着を慣れない手付きで賢明に畳み、崩れた寝具をなるべく綺麗に整えてやる。あくまで匿われ居候という形で居座っているのだ。未だ息を潜めているノーチェの中の常識を、何とか表に出すことで、最低限のことはできているつもりだった。
 よし。そう小さく口を洩らして彼は部屋の扉を開ける。僅かにきぃ、と音を立てて開いた扉の向こうには、多少近く思える天井と高価そうな明かりが存在しているだけだ。どこをどう見ても金持ちを彷彿とさせるが――、この家の持ち主が終焉ではないと思い出すと、彼は扉を閉めて廊下へ足を踏み出す。
 ざり、と素足には絨毯の質感が伝う。それを意に介することもなく、彼は歩いた先にある階段に差し掛かると、降りた先のエントランスで朝食を片手にノーチェを待つ終焉の姿があった。普段より涼しげに思えるのは、真っ黒なコートを着ていないからだろうか――。
 ノーチェが階段を下りてくるのを待っているのか、艶やかな黒に不規則な赤メッシュが交じる髪の隙間からちらりと覗く金と赤の瞳に、彼は足早に階段を下りる。トントン、とくぐもった足音に、手のひらをするすると滑る手摺り。「急がなくてもいい」――そんな男の言葉を差し置いて、終焉の元に辿り着いた彼は「ぼーっとしてた」なんて呟く。

「待った……?」
「待っていないよ」

 ほんの少し見上げる形で終焉を見やれば、男は空いている片手でノーチェの頭を撫でる。普段の黒い手袋などはめていない白い手で、柔らかくなってきた白い毛髪を堪能するように、くしゃりと撫でる様はまさに父親のよう。――しかし、頭を撫でているときの終焉の目付きは誰よりも優しく、言葉にも言い表せないほどの愛しげなものだった。

「……ほんと、撫でんの好きな……」

 抵抗しても無駄なことを知りつつあるノーチェは、されるがままでいると、その視線に気が付いてしまう。静かに交わった視線にあるのは、やはり好意だろうか。――ふと、何食わぬ顔で「愛している」と紡がれた言葉を思い出し、ノーチェは頭に置かれた手を小さく叩いてやる。「朝ご飯食わねぇの……」そう言葉を紡げば、終焉はハッとしたように「そうだな」と言って手を離した。
 金の取っ手を握り、扉を開けて中庭に出て行く終焉の後を、ノーチェは履き慣れない靴を履いて追っていく。外に出れば嫌でも目に入る煌めきは、そこら中に生えている若草や、木々、花壇の花から見えるものだった。特に屋敷の壁に沿うように植えられた紫陽花にはいくつもの露が乗っているようで、辺りからキラキラと、まるで宝石のように輝いている。
 ああ、眩しいな。――なんて思いながら向かった先、ガゼボの下にある白い家具を終焉が丁寧に水滴を拭いている。それを手伝おうとすれば、もう終わると制止を喰らって、彼は渋々席に着いた。
 拭いたとしてもひんやりと仄かに冷たさが伝う椅子に、僅かに嫌悪感を覚える。――それでもすぐに引いたその冷たさに彼はほう、と一息吐くと、目の前に置かれたそれに目を向ける。
 やはり外で食べるものといえばサンドイッチが定番なようで、タマゴやらレタスやらハムやらが贅沢に使われた、一口サイズのものが広い皿に並べられていた。何を思ったのか、中にはホイップクリームとイチゴを挟んだものがあって、堪らず「これは……?」と問えば「遊び心」と男は答える。

「街に行くと稀に売っているのでな。真似てみた」

 美味いかは分からないが。
 そう言って白い椅子を引いて席に着く男に、彼は「わかんねぇのかよ」なんて心中で悪態を吐いて、じぃっと、穴が空くほどに見つめる。丁寧に盛り付けられたそれのすぐ隣にティーセットが置かれているものだから、用意周到だと思わざるを得なかった。
 終焉はティーポットを手に、カップにトトト、と注いでいくと、流れるようにノーチェの分にまで紅茶を入れる。芳しい香りの、鮮やかな色合いの液体に、「注いでやればよかったか」と思うものの――その考えは杞憂だったようだ。何食わぬ顔でミルクと砂糖を入れる男の姿は、平常そのものだった。

 男は覚えていないのだろうか。覚えていないのなら、余計に悩まなくて済むのだから好都合だ。

 彼もまた見習うように紅茶に手を伸ばし、出来立てのそれに小さく口をつける。唇から熱が走り、思わず引き剥がしかける手を押さえ、舌先の火傷に細心の注意を払いながら喉の奥へと押し流す。――やはり美味い、の一言に落ち着いてしまう、そんな出来だった。
 ほう、と感嘆の息を吐きながらカップをソーサーの上に置いて、終焉が手ずから作り上げたお手製のサンドイッチをひとつ。小さく開いた口へ運んでちまちまと食む。咀嚼を繰り返し、少しずつ飲み込んでまた食べ進める。表情が何ひとつ変わらないが、どうしてか、美味いなと思うのが常だった。
 そんな様子をじっと見つめられているような気がして、ノーチェは徐に視線をサンドイッチから終焉へと向ける。その先には森や生け垣を背にした終焉が、ただ黙ってノーチェの顔を見つめていたのだ。
 鋭さを兼ね備えた獣のような瞳が、寸分違わずノーチェへと向けられている。
 ――それに歯痒さを覚えた彼は、「何……」と呟いてみれば、男は軽く首を横に振って「いや、」と囁くように言った。

「美味そうに食べてくれているな、と」
「…………」

 よく分かったな、なんて彼は言わなかった。その代わりに瞬きをひとつ落として、首を縦に振ってやる。隠しているわけではないが、特別口にする気もないノーチェにとって、肯定は男の言葉に対する答えだった。
 そのノーチェの行動に、終焉は確かに口角を上げて「それは良かった」と甘栗色のミルクティーに口をつける。紅茶より濁りが増して、甘さを含んだそれを飲んでから、彼と同じようにサンドイッチへと手を伸ばした。目的は勿論、遊び心で作ったというイチゴのものだ。
 ノーチェは自分の手元にあるそれを口にしながら終焉を眺めていると、口の端についたクリームを指の腹で拭いながら「まあまあだな」と男が独りごちる。

「これならケーキを食べていた方がマシかもしれんな」

 そう口を洩らす終焉に「だろうな」と呟いてやって、彼は柔らかなパン生地を噛み切って咀嚼する。
 朝であり晴れたこともあって、辺りからチチチ、と小鳥が囀っているのが聞き取れる。日の光が差し込むガゼボの下で飲食をしていると、おこぼれ目当てに寄ってくるようで、白い丸テーブルに見慣れない小鳥がちょんと降り立った。
 そう言えば初めてこの下で紅茶を飲んだときも小鳥が来たな、と思い、ノーチェは何気なく終焉の足下に視線を投げる。そこに初めて見かけた筈の白い猫は見当たらず、そんな都合がいいわけないか、と姿勢を戻す。
 すると、終焉がどこか不思議そうにノーチェを見つめていて――、その無表情に耐えかねた彼は「猫は居ないんだなって思って」と終焉に告げた。あの日見た光景はそんな都合良く見られる筈もないと思いながら。

「あの猫はもう来ないよ」
「……?」

 ノーチェの言葉に応えたそれに、ノーチェは引っ掛かりを覚える。あからさまに含みのある言い方に微かに眉を顰めると、終焉が小さく――然れど確かに悔しそうに、憎たらしそうに表情を歪ませたのが分かった。

「――死んだそうだ」
「――…………」

 終焉の言葉にノーチェは「え、」と呟いた筈なのだが――それは言葉としてではなく、あくまで吐息のように微かに溢れ落ちただけだった。
 
 男の言葉に驚きを覚えていないわけではない。
 以前見かけたときに傷を負っていたのだから、それが悪化して死に至らしめる嵌めになったのかもしれない。しかし、死ぬような傷には見えなかったのだから、事故にでも遭ってしまったのかもしれない。終焉の口振りはあくまで「自分の目で見たもの」ではなく、「人伝で聞いたもの」のようで、核心的なものではない。
 ――そう、いくつもの思考が脳裏を駆け巡ったのだが、何故だか彼の目は男の表情に釘付けで、朝食を食べる手すらも止まってしまうほどだった。
 そうしてふと思い出したのは、目が覚める前に見ていた知らないようで、酷く懐かしい夢だった。時間が経ってしまったこともあり、その夢の殆どを思い出すことはできないのだが、確かに思い出せるものがひとつあった。
 終焉の苦虫を噛み潰したようなその表情を、彼は夢の中でも見たような気がしたのだ。
 ――それは酷く淀んだ雲が視界に映る場所で、見慣れないからこそ珍しいと思ってしまったもの。故に忘れていた筈の光景をほんの一部思い出して、ノーチェは茫然と終焉を見やる。
 驚きが脳を刺激しているのは確かなものだった。何せ、彼が夢で見たその人物は、終焉に最も似ているからだ。

「――どうかしたのか」

 ――不意にぽつりと終焉がノーチェに問い掛けた。
 彼は自分がぼうっとしていることに気が付き、男の声にハッとして肩を震わせる。何でもない、と口をついて出た言葉がそれだった。何でもない筈がないというのは、終焉も察しているようで、穴が空きそうなほど彼をじぃっと見つめていたが――口を割らないと知るや否や、男は大人しく身を引く。
 「そうか」なんて無愛想に呟いた。歪めていた筈の表情は初めから変わっていなかった、と言うように無に移り変わっていて、ノーチェは小さく目を擦る。相変わらず変化を見せるのは一瞬の出来事で、変化があったことが気のせいではないのかと思えるほど。彼はいそいそと残りの朝食を頬張りながら、上目でちらりと男を見やる。
 よく考えれば終焉に似ているというだけで、終焉その人であるとは断言できないのだ。他人の空似というものの可能性すらあり、夢はただの夢でしかない。ノーチェ自身や終焉に関係していると、はっきり言えたことではないだろう。

 もそもそとサンドイッチを頬張っていると、視界の端で終焉が椅子に寄り掛かりながらほう、と息を吐いているのが見えた。疲労感でも覚えているのかと思っていると、それは強ち間違いではなく。時間が経つ毎に青みを増している空を眺め、「疲れたな」と苦笑を洩らす。

「……主にアンタがな」

 男の言葉が昨日の出来事を示しているのは、何を言わずとも察することができた。
 雷が鳴る度に体を強張らせる男を思い出して、ノーチェは独り言のように言葉を吐いてみせる。すると、終焉が「むぅ」と唇を微かに尖らせるのだ。
 
 終焉は雷が鳴るのに備えて常に気を張り詰めていたものの、いざ鳴れば肩を震わせて気を紛らせるように辺りを意味もなく歩き回っていった。やんだと思っていた風呂の後も、時折ゴロゴロと唸るような音が聞こえ、無意味な行動に出ていたのは記憶に新しい。

 アンタにしちゃ随分可愛いもんだったな。
 ――何気なくそう呟いてみれば、男は体を起き上がらせ姿勢を正したかと思うと、ほんのり苦笑を洩らして「男に可愛いと言うのか」と言った。物珍しく、自分を化け物と揶揄する割にはやたら人間じみた表情である。

「……それもそっか……」

 終焉の言葉に彼は思い立ったように呟きを洩らして、男のようにそうっと空を眺める。昨日とは打って変わってどこまでも青く、白に染まる雲を見て「……俺も晴れがいいかも」だなんて言って、ゆっくりと背伸びをした。
 未だに雨水が滴る草木は、太陽を浴びて煌々と光り輝くだけだった。


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