寝付けない夜と風呂上がりの男


 目覚ましにしては刺激すぎる出来事に加え、非現実的な命≠フ話。そして――終焉が呟いた「秘密」の微笑みから早くも三日が過ぎた。運良く雨が降っていない晴れた夜空を見るのは久し振りで、ポツポツと瞬く星々は街中では見かけることはないだろう。
 そんな星空を部屋から眺めるノーチェは、茫然と感嘆の息をほう、と洩らせば空に高く昇る月を見上げる。満月に満たない欠けた月はやはり見る者を魅力するような輝きを放っていて、思わず胸中に感動にも似た感情を募らせる。
 ――夜はいい。頭を振り回すような雑音が一切届かないから。目が眩む眩しさも、夜になればただ微笑むだけの月がじっとこちらを見つめているだけだ。真昼の暑苦しさも和らぎ、いくらか過ごしやすい気温にまで下がる。時折寂しささえも覚えるときがあるが、それに気が付かなければ非常に過ごしやすい。
 窓辺に佇むノーチェは飽きもせず月をぼんやりと見上げて、時折溜め息のようにふぅ、と肩を落とす。普段ならとっくに眠りに体を委ねているところだ。月が高く昇るこの時間まで起きていることが知られれば終焉は怒る――ことはないだろうが――無表情でノーチェを質問責めにするに違いない。
 彼は月から軽く目線を落とすと、鬱陶しげに頭を掻いてみせる。
 ――正直苦手なのだ。無表情で凝視されるのは。
 恐らく本人は気が付いていないであろうその光景を思い出し、ノーチェは眉を顰める。双方異なる色を持つ瞳が逸らされることもなく、じっと顔を見つめてくるのだ。端から見ても分かる異質さは向けられる側になれば更に理解できるものがある。
 身動きが取れなくなるのだ。視線で身体中を釘で打たれたように、蛇に睨まれた蛙のように。本人は与えているわけではない威圧感が体の動きを縛り、呼吸さえも忘れさせようとしてくる。――その時間が苦手になりつつあるのだ。
 終焉は生まれながらにして無表情なのだろう。ノーチェでさえ今はろくに表情も作れない状態だ、表情の変え方が分からないと言われても納得できてしまう。何気なく自分の頬をつねりあげてみるが、奴隷になる前の表情が何ひとつ作れない。笑えと言われて笑える現状ではないからだ。
 だからこそ理由もなく指で口の端を押し上げてみて――酷く虚しい気持ちになった。馬鹿らしい、と一言。再び窓辺に手をかけて月を見上げる。先程からほんの少し傾いたように見えるのは気のせいではないだろう。
 認めざるを得ない。ノーチェは寝付けなくなってしまったのだと。柔らかな寝具でも、温かな風呂上がりでも、月が微笑む夜も更けた時間帯でも、心地のいい眠気が来なくなってしまったのだと。
 ノーチェは溜め息を吐き、ゆっくりと窓の縁から手を離す。何度目かの視線の槍に晒されると思えば酷く心が億劫になるのだが、一人では時間を潰しようがない。終焉の元へ向かって、多少話にでも付き合ってもらおうかと思ったのだ。足元の絨毯は暗く赤色を僅かに黒に染めている。何かに躓くとは思えないが、物音を極力立てないよう何気なく神経を張り詰めてみせた。
 ゆっくりと足を踏み出して片足に重心をかける。過去を懐かしむような気持ちで微かに軋む床に焦りを感じながら、そっと扉に手をかける。警戒するものは何もないと知っているが、無駄に気を張り詰めて疲れを呼ぶのも睡眠を得るためにはひとつの手段だと思えるのだ。
 ――しかし、人間である以上飽きというものは唐突にやってくるもので、ノーチェは瞬きをして茫然と足元と階段を眺めると、肩の力を抜いて普段通りに階段を下りる。終焉は未だに起きているノーチェに対して何かしら言ってくるだろうが、彼も彼で何かしらの文句をつけてやろうかと考えていた。
 結局終焉はノーチェに何かを遠慮しているのか、ろくな手伝いもままならず何もできない日々が続いている。今回眠れなくなった原因は何もやらせてくれない終焉の所為もあるのだろう。「アンタが結局何もやらせてくれないから、眠れなくなった」――なんて言ってしまえば、終焉の視線の槍も掻い潜れるのかもしれない。
 そう心に決めながら階段を下りきり、曲がった先にある薄暗い部屋の扉をノックする。最低限の常識は奴隷になった今でも頭にあるもので、控えめながらも扉を叩く音は終焉に聞こえることだろう。
 ――だが、数分経っても扉の向こうからやってこない返事に、ノーチェは首を傾げる。
 時刻は夜中の二時だ。流石の終焉も眠っているのだろうかと思い、諦めようと踵を返すと、不意に離れた場所から扉の開く音がした。音の発生源は階段を越えた向こう――浴室がある方から聞こえてきて、ノーチェは納得するようにぼうっと視線を投げながら徐に歩き出す。
 風呂に入っていたのなら部屋に居ないのも当然だ。彼は終焉を待ち伏せるように客間のソファーに座りながらその陰を待った。ソファーは相変わらずの心地好さを誇っていて、最早気に入る程度には座る頻度が高くなっている。それに体を沈めながら足をぷらぷらと揺らしている時間は退屈しのぎには持ってこいのものだった。
 ソファーに当たる足を思うままに揺らし続けていると、時折自分が何をしているのか問い質したくなることがある。丁度その頃、桃の香りを漂わせながら扉が開いた音がした。ノーチェはその音を聞いて、無表情な顔を見ることを覚悟の上で「なあ」と呟く。

「……なあ……ちょっといい」

 そう呟いた矢先に見たのは――無表情ではあるものの、どこか気の抜けたような表情を浮かべる終焉が居た。
 ぺたりと絨毯を踏み締めるその足は腕や顔のように白く、爪はやはり黒い。一筋のラインが入ったスラックスを穿いているが、ぼんやりとしているからだろうか――やけに丈が長く思える。上半身はノーチェが今までに見たことのない薄手の服を着ていて、新鮮以外の何ものでもない。
 鎖骨をなぞるようにVラインを描いた襟ぐりと、七分丈の袖が特徴的なその服は謂わば部屋着だろう。ゆったりと楽そうに、裾をしまわずに力なくぼんやりとノーチェを見つめている。風呂上がりだからだろうか――薄暗い部屋の下で見る終焉の頬はどこか色付いているように見えた。
 ノーチェは終焉の無表情が苦手だったが、気が緩みきったこの表情は嫌いではなかった。漸く人間味溢れる表情が見られたと思い、妙な安心感さえも覚えてしまう。その間にも終焉はノーチェをじぃっと見つめていて――不意に首を傾げるのだ。

「…………起きてる……」

 「何故寝ていないんだ」の言葉が来ると思っていたノーチェは、終焉がポツリと呟いた言葉に思わず数回瞬きをして、「起きてるよ」と答えてみせた。何なら「全然動いてないから眠くない」とさえ言おうかと思っていたのだ。
 しかし、終焉はノーチェの返事を聞くと、「そう」とだけ呟いて欠伸をひとつ溢してみせる。大きく口を開いて目尻に涙を溜めて、終焉は眠いのだと簡単に察することができた。言葉を用意していたノーチェは出鼻を挫かれたような何ともやるせない気持ちに苛まれ、むっと唇をへの字に曲げる。すると、終焉は覚束ない足取りでノーチェの傍へ近寄ると、最早約束の、頭を撫でる行為に出た。
 ノーチェと同じくらいの終焉の手のひらは、随分と温かかった。
 彼はそれに多少の驚きを覚えてしまう。何せ終焉の手はいつでも冷たく、氷のようだった。風呂上がりの所為もあってか、今回に至っては温もりを持っていて、確かに生きた人間の手のひらをしている。手や指先は相変わらず人とは違った色を持っているが、人肌の温もりは確かにあるのだ。
 いつの日にか、終焉が自分を化け物だと言っていることを思い出したノーチェは、「どこが化け物なんだよ」と心中で小さく呟きを洩らしてやる。
 終焉の表情は普段見るよりも遥かに優しかった。先程から思えるのは、これが本当に気を許した様子なのだということ。結局のところ終焉も周りに気を張っていてろくに休めてはいなかったのだろう。特に日中は、ノーチェですら終焉に隙があると思わせないほどの振る舞いをしている。理由は定かではないが、気を抜けない何かが男の中にはあるのだろう。
 例えば教会≠竍商人≠ェ最もだろうが、それだけに留まらない理由があるような気がするのは気の所為だろうか――。
 ノーチェはゆったりと終焉に撫でられながら男の顔をじっと見つめた。返ってくるのは単純に柔らかな視線と、今にも弧を描きそうな口許だ。鋭い獣のような視線は降り注いで来ないのだろう。そう思えばほんの少し心が軽くなったような気がした。
 僅かに鬱陶しく思え始めた男の手を退かそうと手を伸ばした矢先、ノーチェの瞳に映るのはじっとりと湿った艶やかな黒髪。湿気ったというよりは水を含んだままという方が正しいのだろう――水が滴り落ちる様子はないが、乾ききっていないその様子に、彼は珍しく頭を揺さぶられたのだった。

◇◆◇

 ゆらゆらと揺れる頭を止める気もなく、終焉はそれをぼうっと堪能している。濡れる髪にかぶさるのは白く柔らかなタオルで、頭を揺さぶられている理由は勿論ノーチェに拭かれているからだ。
 何気なく呟いただけの「拭こうか」の言葉を、当然のように断られるかと思いきや、終焉は二つ返事でタオルを差し出しながら応えた。ノーチェはソファーに腰掛けながら、何故か床に座っている終焉の髪を撫でるように拭っていく。始めこそはこれを軽い運動だと捉えていたのだが、心地よさそうに――しているのかは分からないが、いやに上機嫌の終焉を見て――これも悪くないのかもしれないと思い始める。
 見れば見るほど黒い髪は女のようで、一房手に取ってみても失われない艶めきに感心さえも覚える。ノーチェと同じ洗髪剤を使っている筈なのにここまで違いが出るということは、そもそも髪質自体が異なっているのだろう。立てば腰まで優に届く長い髪を彼は丁寧に拭きながら、思っただけの疑問を投げ掛ける。

「……何で髪伸ばしてんの……?」

 鳥の声も聞こえない静まり返った屋敷にノーチェの声は響くように消えて、終焉が数秒間を置いてから「んー……」と口を溢す。

「…………お褒めいただいた……」

 終焉の口から紡がれた言葉は、聞き慣れないほど恭しい言葉遣いだった。

「……綺麗な黒い髪だと…………お褒めいただいたのだ……」

 いやに眠そうに話す終焉がちらりとノーチェを見やると、終焉の髪を拭いていた彼は一度動きを止める。すると、男は髪を一房手に取ると、顔の傍に寄せて「……綺麗?」とだけ呟いた。まるで警戒心も知らない子供のような発言にノーチェは面食らいながら茫然とした後、小さく頷く。
 男の髪は確かに綺麗なものだった。街中では見かけない黒い髪は、光に当たると顔を変えるようにキラキラと輝いてみせる。月明かりに晒せば暗闇に溶け込む存在が姿を現して、終焉がここに居るのだと示しているようにも思える。尚且つ触れたことでよく分かる髪の柔らかさは、ノーチェのものとはまた別のもののようだった。
 ひとつ気になるといえば黒地に混ざる赤い毛髪だろうか。光の下では時折存在感を増すそれは、暗闇になれば髪に存在を溶け込ませて認識ができなくなってしまう。それが黒髪には鬱陶しいものに思えてしまって残念と言えば残念なのだが――アクセントとして見れば赤髪もまた黒髪を映えさせる重要なものに思えるのだ。
 それをノーチェは確かに綺麗だと思った。何気なく手のひらに載せてみると、それが癖の残らないストレートなのだとよく分かるほどだ。終焉は彼の答えに満足げに微笑んだ後、「ノーチェの髪もいいものだな」と再び彼の頭に手を伸ばす。漸く柔らかくなった癖のある毛髪をノーチェ自身は特にいいものだと思った試しはないが、終焉の随分と嬉しそうな表情を見かねて指摘を挟もうとする口を噤んだ。

「アンタみたいになれんのかな……」
「……貴方は短い方がいい」

 ポツリと呟いた何気ない言葉に喰らった即答に思わず唇を尖らせて、ノーチェはタオルを手渡しながら終焉の髪を引く。くん、と引かれる感覚に終焉は僅かに目を丸くした後、何も被害が及ばないと知るや否や軽く目を閉じてゆったりとした呼吸を繰り返す。
 何の抵抗もない終焉にノーチェは家主がこれでいいものなのかと思ったが、その家主の髪をいじるノーチェ自身が言えたものではないだろう。引き寄せた髪を三つに小分けしてちまちまと編んでいけば、不格好ながらも三つ編みが一本出来上がった。
 一本の三つ編みはまるで尻尾のようで、編んだ毛先を軽く揺らしながら茫然と髪を眺めるノーチェはどこか珍しそうな顔をしている。徐に「三つ編みできた」と終焉に伝えて見せてみれば、男は感心するように「ほう」と呟いていた。

「……三つ編みがお好みか……」

 小さく呟かれた終焉の言葉にノーチェは首を傾げ、「気にしたことない」とだけ言う。
 何気なく編んでみせた不格好な三つ編みはノーチェにとって特別な思い入れはない。いうならただ目の前にあった髪の毛に興味が湧いて、見よう見まねで三つ編みを編んでみせた子供と同じような心境だ。彼は目の前にあった黒い髪がただ垂れ下がっていることに小さな不満を抱き、何気なくそれを束ねた。ただ、それだけのことだ。
 だからこそノーチェは「アンタは何でも似合いそう」とだけ呟いて、毛先を惜し気もなく手放した。僅かにでも跡がついてしまえば癖毛を持つ者として多少の優越感のようなものを抱けただろうが――ほどけた髪は跡も残さず元の癖のない長髪へと戻っていった。
 恐らく男の髪は女が羨むほどのいいものなのだろう。ノーチェは試すように自分の髪に触れてみると、触り心地が全く違うことに気付かされる。艶めきから始め、触った瞬間の柔らかさの質や、撫でたときの指を滑る感覚がまるで違うのだ。
 これが「個性」なのだろう。
 ノーチェは徐に目を俯かせると、終焉が息をするようにポツリと「何でもか」と小さく呟いた。それは、蚊の鳴くような声に最も近く――耳を澄ますか、夜も更け静まり返った頃ではないと聞き取れないようなものだった。運が良く彼がそれを聞けたのは夜も更けた真夜中の二時だ。長い髪を靡かせて振り返るその顔を見ながら軽く首を傾げる。
 ノーチェが見つめたその表情は、「嵐の前の静けさ」を体現しているかのように静かで、ひとつの歪みもないただの無表情だった。
 瞳が揺らぐ気配もなければ、口の端や眉すらもピクリとも動かない無表情――向ける言葉は違えど、男のその表情にも「綺麗」という言葉が似合っているような気がした。普段暗い瞳はルビーやトパーズのように透き通っていて、暗闇で見る男の目は随分と綺麗なものなのだと彼は見つめている。
 そんなノーチェの思考を読み取るように終焉はゆっくりと唇を開くと、「やはり綺麗だ」とその無表情を緩めた。

「貴方の瞳は本当に綺麗だ」

 ――どの口が言っているのだと呟きかけた言葉を、ノーチェはぐっと喉の奥に押し込んだ。
 先程よりも僅かに緩くなった顔には安堵するような表情が滲んでいる。ノーチェは座ったまま終焉の顔を見つめ「そうでもないと思う」なんて言ってみせるが、それすらも終焉は緩く受け流して「綺麗だよ」と納得させるように口を洩らす。
 理由は未だに分からない。ただ男がノーチェの瞳をいたく気に入っていることだけはよく分かる。空に浮かぶ月をそのまま瞳に移したかのように色を変えていく瞳に振り回され、疲弊することが度々あったそれを、終焉は愛しいものを見るような目でよく見つめてくるのだ。
 そして、男は長く揺れる髪を摘まんで懐かしむように「髪型も、そう言うと思った」とだけ呟いてゆっくりと目を閉じた。気のせいだと思える程度に口の端を僅かに上げて、微笑んでいるのだと思わせるような顔をする。――それにノーチェは目を奪われていると、何かを見つけるように「笑ったりしねぇの……?」と問う。

「……あんまり表情出さないし……嫌ならいいんだけど……何か、アンタ……笑ったりしたら綺麗だと思う……」

 気を紛らすように何気なく溢した言葉にノーチェは見知らぬ違和感を覚え、自分が可笑しなことを言っているのだと言いたげに首を傾げる。何故そう思ったのか理解ができない。口に出す予定もなかったのに、月の陰に背を押されるように言葉を呟いてしまったのだと言いたげに、微かに眉を顰めた。
 男相手に真っ向から綺麗だと言われるのは、言われる側も言う側も違和感に苛まれるだろう。不可解な顔をしているのではないだろうか――暗闇に溶け込むような終焉の顔をじっと目を凝らして見つめれば、案の定終焉は二回ほど瞬きをして――視線を落とした後、眉尻を下げる。

「……そう言えば……伝えきれていなかったな……」
「…………?」

 悲しげに小さく溢れた言葉にノーチェは瞬きを落とす。彼は可笑しなことを言った覚えがあるが、何故終焉が悲しそうな声色になるのかが分からない。男の言う伝え損ねていたというものは恐らく自分自身――終焉の何かに関するものなのだろう。
 彼が思うよりも抱えているものが多い終焉は、徐に顔を上げると、「死ぬんだ」と呟く。

「……死ぬ……?」

 ノーチェが不思議そうに聞き返すと、終焉は微かに頷く。

「……一言で言えば、私は人間ではないのだ。何となく、そうだと思うだろう……血の色も、肌の冷たさも……」

 そう言われてノーチェは納得できたような気がした。確かに数回触れただけで分かる男の肌の冷たさは氷のようで、そして死人のようだ。加えて血液の色は人間のものよりも遥かに黒く、墨を溶かしたような混じり気のない色を湛えている。それを一口で「人間ではない」と言われると、妙な納得が胸の奥にストンと落ちてきたような気がするのだ。
 人の形をしていながらも自分を「化け物」と揶揄する男が洩らした言葉に、控えめながらもノーチェは小さく頷くと終焉は「それが原因のようだ」と言う。

「人間ではないから……負荷を与えない筈の命≠ェ、私だけに負荷を与えている……」

 ――そもそも、永遠の命≠ニは名前の通り「永遠に同じ命を繰り返す命」そのものだ。本来ならば絶対に終える筈のない命であるというのに、終焉にだけ死を与えられるというのも可笑しな話である。永遠の命≠ヘ本来誰の手によって殺められたとしても、決して散ることのない命なのだ。
 その事実も含め、男は自分だけが負荷を抱く原因を「人間ではないから」だと見ている。肌の冷たさや血の黒さは命≠ノよる負荷などではなく、生まれながらにして人間ではないから手にしていたもの。それによって与えられた負荷は「死ねる可能性」と――

「……感情を表に出せば死ぬ」

 ――という、奇妙なものだった。
 告げられた事実に彼は混乱の色を浮かべ、どういうことだと問う。何せノーチェは終焉に死ねないということを告白されているのだ。それなのに男は「感情を表に出せば死ぬ」と紛れもなく彼に告げた。その浮き彫りになる奇妙な矛盾にノーチェは遂に「意味が分からない」と呟く。

「アンタ、死なないんじゃないの……?」

 自分でも分かるほど終焉を訝しげな目で見ているのが分かった。
 ノーチェは矛盾を告げる終焉に理由を求めると、男は「原理は他者に殺されたときと同じだ」と言う。
 ノーチェ以外の人間に傷をつけられた――もしくは殺された――終焉は、つけられた傷痕も残さず蘇生して目の前へと降り立った。その現場を見たことがあるノーチェは「そういうこと……」と納得するように小さく呟きを洩らす。
 原理が同じということならば、男は一度何かに殺された後、跡形もなく蘇生するのだ。死を迎える原因が「他者の手によって」ではなく、「感情を表に出したこと」となるのが最大の違いだろう。
 話を聞くが、ノーチェは終焉が感情を出して死んでしまうという光景が一向に思い浮かばなかった。普段無表情ということもあるのだろうが、小さな表情の変化では死を迎える原因にならないようで、死ぬ原因となるほどの感情の変化を見たことがないからだ。
 それな疑問が薄々終焉にも伝わっていたのだろう。男は「本当は見せた方がいいとは思うんだがな」と溜め息を吐くように洩れた言葉は憂鬱そうで、言葉の割にはやけに気怠そうな雰囲気を漂わせている。

「……死ぬと疲れる……」

 呟かれた言葉はノーチェからすれば全く理解できない事象だ。終焉曰く死んだ後の蘇生は体力を消耗させるようで、男にとってノーチェを守る際は便利でもある反面、代償が大きいのだという。
 そもそも死ねば元には戻らないノーチェからすれば信憑性がない話のひとつだ。死んで生き返るなどという事自体が本来なら信じられるものでもないが――目撃したノーチェにとっては捉え方が変わるだろう。それを裏付けるように「疲れんの……?」と呟く言葉に、最早蘇生云々の疑問は含まれていないようだ。
 彼が疑問に思った疲労は、初めて見たときには全く見受けられなかった。終焉はただ笑みを浮かべながら人間達に向き合って、ノーチェに屋敷へ戻るように告げただけ。そこに疲労の色は見えず、――寧ろ有り余る体力を消耗させようという野生の無邪気な好奇心を見たような気がするのだ。
 その光景を思い出したと同時に彼はふと終焉が笑っていたことも思い出し、その旨も伝えた。アンタは笑ってたけど死んでいなかった、と先程の感情を出せば死ぬというものに指摘をしてみせたのだ。
 すると、終焉は口許に手を宛がい、「それは……」と唇を開く。
 それは――。

「…………今日は随分と、私に興味があるようだな……」

 ふと呟かれた言葉にノーチェは茫然とした。
 理由が飛んで来ると思ったのだ。笑っていた筈なのに死んではいなかった、その理由がしっかりと納得させるように来ると思っていた。――だが、告げられたのは明確に話を逸らすためのたった一言だ。誰がどう聞いても分かるほど、不自然に聞こえる男からの疑問だ。
 告げられない理由にノーチェは再び疑問を投げ掛けようとしたが――終焉とノーチェは謂わば主人と奴隷の関係だ。相手が話したくないというのなら、余計な詮索はしない方が懸命なのだろう。それも親しくない間柄であれば尚更のこと。彼は濁すための言葉を探すことを諦め、「別に、何となく」とだけ言った。

「……アンタが俺を知ってんのに、俺がアンタを知らないの……気味悪いだろ」

 取って付けただけの理由に違和感があるのは当然のことだろう。ノーチェは可笑しなことを言ってしまった、と言いたげにほんの少しバツが悪そうに顔を俯かせ、溜め息を微かに吐いてみる。
 終焉と話していればやって来るかと思っていた眠気は未だに来る兆しもなく、ただ起きているだけの疲労感が溜まっていく一方だ。夜も更けているというのに個人的な事情で早起きをしている終焉の時間を奪い、睡眠時間を削らせるのはいいものだとは言えないだろう。
 そろそろ眠ろうかと提案しようとノーチェは顔を上げると、終焉はただぼんやりとノーチェを見つめていて、怒りや困惑などの感情は全く存在しなかった。「それが眠れない理由か……?」不意に呟かれた言葉に彼は僅かに体を強張らせ、小さく肩を震わせる。
 眠れなくなっているのだ、と随分前から気付かれているようだった。
 ノーチェは言い訳を探すこともなく、嘘を吐くわけでもなく、「ちょっと違うけど」と言うと終焉は「そうか」と言葉を返す。

「……でもアンタ眠いだろ」
「ん、私は眠い……」

 ――夜はいい。周りの音が騒がしくないから。夜の祝福を受けているノーチェにとっても夜はどこか動きやすく、昼間よりも多少の気力が確かに溢れている。月の明かりは太陽より眩しいわけではなく、加えて鳥達の鳴き声も静かになり、心地のいい気温にまでなる。
 しかし夜は眠りの時間だ。人間であるノーチェでもそれは生まれながらにして刷り込まれた知識であり、終焉とて例外ではない。日が高く昇る朝のうちに起きて、月が顔を覗かせている頃に眠るという繰り返しの中で生きているのだ。
 ――最も、奴隷であるノーチェに朝も夜も関係がなかったのだが――今はそうも言っていられないだろう。
 奴隷商人から彼を奪った終焉は、自分が身を寄せている屋敷にノーチェを置き、何不自由のない生活を送らせている。融通が利くといえば利くのだが、時折終焉の威圧に耐えなければならないという欠点もある。――それでも奴隷である以上、彼は終焉の決めた時間やルールを守らなければならないというのが暗黙の了解というものだ。

「……じゃあ寝る」

 自分よりも主人の優先を。
 奴隷として刻み付けられた彼の意志は揺るがず、ソファーに沈んでいた体を立たせると、「寝るんだろ……」とぼんやりとしている終焉の手を掴む。完璧な超人のような人物かと思えば、風呂上がりの終焉はいやに手間がかかり、立たせるのも一苦労だ。
 ノーチェがぐっと手を引くと、体に力を込めていなかったのがよく分かる。普通ならば重心が傾いているお陰で重く思えただろうが、彼も彼とて普通ではない自覚をしている。難なくその体を立たせることに成功したとき、ノーチェは二、三瞬きを繰り返し、離した手をじっと見つめていた。
 すると、終焉が猫でも撫でるような手付きでノーチェの頭に手を置く。柔らかな毛髪を指の間に絡め、愛でるようにゆっくりと手のひらで撫でて、「悪いな」と小さく呟くのだ。

「私の所為で眠れなくなったのだろう……如何せん、今の貴方が一体どこまで何ができるのか、分からなくて……肉体労働を、強いることもしたくなくて……」

 つい甘やかしてしまった。男は申し訳なさそうにそう呟くと、撫でる手をゆっくりと疎かにしていく。見上げる先にある終焉の表情は暗く、それでいて酷く眠たげな瞳をしていた。
 ――そうして漸く、終焉は呟いたのだ。

「――ノーチェ……私の、手助けをしてくれないか……?」

◇◆◇

 奴隷人生を強いられてきたノーチェにできることと言えば、自分を奴隷商人から奪い去り匿っている終焉の手伝いをすることだった。
 夜から一変、真新しい光に包まれた屋敷の中は眩しく、ろくに眠れていなかったノーチェは落ちようとする瞼を必死に抉じ開ける。目を擦り喉元に迫る欠伸を噛み殺してふわふわと漂う意識を懸命に奮い起たせようとする。時折頭を振るって意地でも起きようとするが、素直に落ちてくる瞼に従いたい欲が彼の胸に溢れる。

「……寝るか?」

 不意に問い掛けられた言葉にノーチェは首を左右に振って「寝ない」と言った。
 声がした方へ顔を向けると、シャツに黒いベスト姿の終焉が心配そうにノーチェの顔を覗き込んでいる。その顔に眠気のひとつもなく、彼は終焉を訝しげな目で見つめ、「……何でそんなピンピンしてんの……」と小さな声で呟いている。

 結局ノーチェと終焉は眠気がやって来るまでポツリポツリと話し合っていた。内容は他愛ない日常についてだ。眠れなくなってしまったノーチェができる最善のことを、無理のない範囲で行うこと。例えば――荷物持ちや料理の手伝い、掃除などの些細なことだ。
 彼は本当にそんなことでいいのかと終焉に問い掛けた。終焉は炊事洗濯、掃除などの身の回りのことは全て一人でそつなくこなす存在だ。たとえノーチェが手伝いなどしなくても生活には支障は出ないだろう。
 ――いや、寧ろノーチェが手を出すことで支障が出ると予想できるほど男は完璧だ。それは、バランス、色合い、美しさを全て上手く調和させ生けた花に「好きにアレンジを加えろ」と言われているようなものだ。流石のノーチェもそうすることに簡単には賛成できなかった。
 彼はそれを拒むようにもっと自分でもできそうなことを求めた。特に力仕事を得意――というわけではないが――とするノーチェは、自ら力仕事を終焉に強情る。奴隷としての労働が染み付いた今、肉体労働を強いられないなどまず有り得ないのだ。
 ――しかし、終焉は首を横に振って「そんなものを強請らないでくれ」とノーチェを説き伏せる。
 何度も言う通り終焉はノーチェを奴隷として扱いたくないのだ。彼の言う肉体労働――謂わば力仕事は、大概が常軌を逸した重労働ばかり。普通の人間であるならばすぐにでも潰されてしまうような肉体労働を彼は求めているのだ。
 それこそが自分の存在理由だと言わんばかりに。
 終焉はそんなノーチェの意識を変えたくて敢えて彼に手伝いをしてくれとは言い出さなかった。元より手伝わせる気などなかったのだが、ノーチェ自ら言い出すのなら無理に拒否はしないつもりだった。――過度な肉体労働を求めなければ。
 相手があくまで奴隷であることは重々承知していたつもりで、ノーチェが力仕事から離れられないと薄々気が付いていた終焉だ。体に合わない労働を求めるなら普段通り何もしなくていい、という旨を無愛想に伝えてやると、ノーチェが軽く顔を俯かせて「強情……」と小さく呟く。
 元々与えられるほどの力仕事など存在していないのだが、何もしないのは男として――一人の大人として――気分が悪かった。終焉が身の回りの手伝いで納得するというのなら、彼もまた納得せざるを得ないのだろう。
 彼はしぶしぶ頷くと、終焉は「そうか」と言ってから大きく欠伸をした。真夜中の二時などとうに過ぎているのだ。ノーチェ自身もどこか眠気を覚えてきたような気がして、部屋に戻ることを男に伝える。

「…………明日の朝からでいいのか?」

 ふと呟かれた言葉にノーチェは軽く考えるような素振りを見せてから、一度だけ頷いた。何故そう問われるのかが理解できず、眠たげな終焉の顔を見て首を傾げる。
 理由は痛いほど分かってしまった。

 キッチンの壁に立て掛けられた時計を見上げてノーチェは目を細める。時刻は朝の八時――終焉がノーチェを起こしてから早くも三十分が経過している。まずは生活習慣から終焉に合わせようと思い、男に起こすよう頼み込んだのだが――時間がよくなかったのだろう。未だ襲い来る恐ろしいほどの眠気と戦うノーチェは、隣に立つ終焉の顔を見て疑問の色を浮かべる。
 二人が部屋に戻った時間はほぼ同じだ。恐らく寝に入ったのも殆ど同じである筈なのだ。なのに――ノーチェよりも早く起き、眠気など感じさせないほどの清々しい無表情を飾っている。服は夜中に見たラフなものではないことから、スッキリとした目覚めを迎えたのだろう。
 終焉は一度瞬きを落とすとノーチェの問いに答えるべく、「まあ」と口を洩らす。

「寝ていないからな」
「………………は?」

 自分よりも遥かに疲労を蓄積している筈の男が一睡もしていない――そんな事実があまりにも衝撃的に思え、ノーチェは眠気が飛ばされたような気がする。見つめた先の終焉は素知らぬ顔をしながら朝食の準備をしようとキッチンの回りに手を出していて、「中途半端に眠るより目覚めがいいからな」と言った。

「……アンタ…………俺には寝ろって言っておいて……」
「私はいいんだよ」

 終焉はフライパンを片手に僅かに口角を上げて笑うと、ノーチェは納得がいかないように目を細めたまま終焉の行動を見守っている。何からできるかと問われれば自分でも答えられず、彼は終焉からの命令を待つばかりだ。
 終焉は常日頃から甘いものを食べていたいようで、冷蔵庫かいくつか決まった品物を取り出すと、ノーチェに「朝は何が食べたい?」と問い掛ける。彼は特に朝食を必要だとは思っていない所為か、何でもいいと答えることに抵抗がなかった。
 その返答が来ることを予期していたのか、終焉は「だと思った」とだけ呟くと、開けていた冷蔵庫の扉をそっと閉めてノーチェの元へと歩み寄る。

 返答を曖昧にした結果、朝食として用意されたのはしっかりと焦げ目がついた芳ばしい香りの――飛びきりの甘さを誇る、フレンチトーストだった。
 眠気に負けそうな彼にとってその朝食は胃への負担が重く、せめて朝食は要望を告げるか、自分で用意するかしよう。
 ――そう、ノーチェに決意させることに成功したのだった。


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