雨音に潜む違和感


 沢山の菓子を発見した後、終焉は吹っ切れたかのようにそれをひたすらに食べ続けた。キャンディをひとつ、クッキーを完食し、立て続けにまたキャンディに戻る。――それだけでは飽きたらず、角砂糖を直接口へ放り込んでいる光景をまざまざと見せ付けられ、ノーチェは信じられないものを見るような目付きでそれを見る。
 甘い、甘すぎる。見ているノーチェやリーリエが胸焼けを起こしそうになるほど、終焉はひたすらに糖分だけを摂取している。紅茶やミルクティーなどの飲み物になど目を向けず、止まることを知らないその口はぐっと男の袖に隠れる。拭われたのだ。
 頭が痛くなるほどに甘ったるいものだと彼は思った。二人の話し合いはとうに終わっているのか、ただノーチェを交えて他愛ない話をする。「最近変に風邪が流行っている」だとか、「今日の夕飯は何がいい」だとか、「梅雨は過ごしにくい」だとか――そんなものだ。
 リーリエは一度ノーチェのことを知っているかのような口をしたが、それは気のせいだと言いたげにノーチェについて質問を投げていた。「好きな食べ物は何」や「誕生日はいつ」など、答えられそうなものばかりだ。
 それを彼はぽつりぽつりと答えていたが、時折口を閉ざして答えることを拒否することもあった。――と言うよりはあまり考えたくないものなのだろう。奴隷になる前のことは今思い出したところで酷く虚しくなるだけなのだから。
 その中で特別意識はしていないが、聞かれた所為で漸く気が付いたことがあった。それはリーリエが屋敷に来てから軽く一時間は越えた頃だろう。ノーチェや終焉と話を交えている間に、リーリエは何かに気が付いたかのようにぼうっとしてからノーチェに口を開く。

「少年はエンディアのこと、名前で呼ばないのねぇ」

 ――と、何気なく呟いた言葉がノーチェの胸を突き刺すように鋭かった。
 ぽかんとしたまま、ノーチェはリーリエの顔を見つめる。「え?」と口を洩らしてしまいそうな表情に、女は軽く首を傾げる。何か可笑しなことを言ってしまったのかと終焉に問い掛けていたが、男もまたそれに気が付いたように口許に手を当てて「そうだな……」と小さく口を洩らしている。
 特別意識したことのなかったノーチェは改めて指摘を受けた後、固まった思考を動かすべくじっと一点を見つめていた。終焉は全く気に留めていないようで落ち込むような素振りは見せていないが、それが本心なのか嘘なのかは判断しかねるだろう。何せ男は何の感情も抱いていないと言えるほどの無表情を湛えている。仮に落ち込んでいるとしても、表に出さなければ誰にも気が付かれないだろう。
 そんな終焉をぼうっと見つめて彼は考える。何故終焉の名前を知っているにも拘わらず、「アンタ」や「あの人」で済まそうとするのか。自分が名前を気軽に呼べる立場ではないから、と言ってしまえばそれで終わるのだろう。――しかし、その程度では収まらない奇妙な違和感がノーチェの思考に邪魔をする。
 ただ一口で済まそうとすれば形にならない言葉がいくつも頭に思い浮かんで説明しようがなかった。だからこそ彼は一番しっくりくる言葉を選んで、ぽつりと呟きを洩らす。

「…………名前だと、思ってないから……?」

 自分で呟いたにも拘わらずあくまでも疑問系なのは、ノーチェ自身もよく理解していないからだろう。――だが、例えるならこの言葉が一番だと思ったのだ。
 終焉は自分で自分の名前は“終焉の者”だと言った。それをノーチェは忘れているわけではない。しかし、それが名前なのかと訊かれれば、彼は理由もなく首を横に振るだろう。ただの感覚的なものであるので、聞いた側は不思議そうな顔をするに違いない。
 すると、ノーチェの言葉を聞いた終焉は目を閉じると、そうか、とだけ呟いた。落ち着きを取り戻すような仕草で、まるで深呼吸をしているかのような行動で。ノーチェは可笑しなことを言っている自覚はあったが、終焉をそうさせるものではないと思っていた。
 男はほんの少し顔を顰めながら再びキャンディをひとつ。可愛らしい包装紙に巻かれた丸い形のそれを口の中へ放り込むと、舌の上で転がさずにそのまま噛み砕いてしまう。
 それ相応の大きな力を加えない限り砕けることのない丸い形の飴玉が砕かれるのを見かねて、ノーチェやリーリエは男が不機嫌になったのかと思った。鈍い音を立てながら咀嚼されていくその様子を見るのはこれが初めてで、リーリエは咄嗟に背筋をしゃんと伸ばす。口許は妙に緩み、頬を伝う冷や汗は女が妙に緊張しているのだと分かった。
 茫然としながらそれを見つめるノーチェは、徐に「舌切れそう」と呟きを洩らしてみる。不機嫌であればその言葉にさえ食って掛かってくる筈だろう。――しかし終焉はそれを聞くや否や、手に取ったキャンディを見つめると、「それもそうか」と小さく口を溢す。

「…………ヒリヒリする」

 もごもごと口の中を舌で巡回し、男は小さな痛みを訴えた。ノーチェの言葉も虚しく、終焉は噛み砕いていた破片で口内を切ってしまったようで、納得がいかないような、微妙な顔付きをしている。無表情を崩し、不機嫌のような、それでいて顰めっ面のような――眉間にシワを寄せて、ふて腐れるような表情だ。
 そんな顔もできるのか、とノーチェが思った矢先、隣に座っているリーリエが唐突に笑いながら「あんたそんな顔もできんのね!」と男を指差して言う。まるで正反対の二人を交互に見ながら、ノーチェはぼうっとそれを眺めていると、終焉は呆れるような表情のまま持っていたキャンディを口に放り込んだ。
 ノーチェが見付けてしまった大量の菓子類は全て終焉の物。話によると、作る時間すらも惜しいときに口にしていたいとき、口が寂しいときによく食べる用だそうだ。
 黒い男に彩り豊かな甘いそれは、やけに映えるものだ。女子供が喜びそうなファンシーな色合いは終焉には全く合わない。その味でさえ男が気に入るものなのだと想像もつかないものだが、世の中とはまさに数奇なものである。
 ノーチェは徐にそれをひとつだけ手に取って口へ運んでみる。ほろほろと溢れるように柔いクッキーを噛み砕いて、咀嚼を数回繰り返してみる。さくさくとした軽い食感は確かにいつかの自分が慣れ親しんだもの。――しかし、妙な物足りなさに見舞われ、彼は徐に噛み砕く行為を止める。
 リーリエも倣うように茶菓子をひとつ口にした。「これ美味しいわね〜!」と、傍らに酒瓶を抱えているとは思えないほど、淑女染みた一般的な感想を紡ぐ。終焉もまた美味いなどという一般的な言葉を洩らすのかと思えば、いつか聞いたそれが躊躇いなく口から紡がれた。

「――やはり、私が作った方が美味いな」

 迷いのない言葉。不味いものは作らないという絶対的な自信。ひしひしと体に伝わるその自信を、ノーチェとリーリエは全身で感じ取っていた。歪みない王者のようなその凜とした口調は最早称賛するに値してしまうほど。男の自信に全く疑いもしないのか、リーリエは「あんたがそれを言ったらおしまいよ」なんて言って、次の菓子へと手を伸ばす。
 その傍ら、終焉の発言にぼうっと一点を見つめていたノーチェは確信せざるを得なかった。
 多少であるが確実に――しかもかなりの確率で――舌が肥えている。それも今に始まったことではない。終焉と出会ってからまだひと月を跨いだだけであるが、今に至るまで欠かさず食事を摂れと促され続けたのだ。初めの異変にこそ気が付かなかったが、たったひと月、跨いだだけ――ただそれだけでかなりグルメになったような気がした。
 この口に含んでいる菓子もまた違和感に苛まれる原因のひとつだろう。
 ノーチェはそれを飲み込みながら終焉を見やると、背筋が凍るほど冷たい瞳と目が合った。特別感情がこもっているわけではない。向こうが何気なく首を傾げ「どうした」と言わんばかりにノーチェを見つめている。その手にはまだ飽きることもなく収まり続けるキャンディの山。彼は「何でもない」と言って目を逸らしたが――、舌が肥えた原因は確実に目の前の男だ。
 終焉の作る手料理は絶品だ。大袈裟に言うならば、終焉の手料理だけで店を出してもいいと思えるほど、だ。それほどまでに男の手料理は奥が深く、噛めば噛むほど味わいが出てくるもの。それは甘味ひとつにとっても抜かりなく発揮されていて、口に含んだときの香りといえば素晴らしいことこの上ない。
 独り暮らしだから極められた――そう決めつけてしまおうかと思うものの、ノーチェの目の前でまともな飲食をしている姿を見せない終焉に言えることかは定かではない。定かではないが――そのレパートリーの豊富さは最早驚き以上のものがある。
 一口に事前に調べて挑戦している、と言ってしまえばそれまでなのかもしれない。だが、終焉の部屋の本棚を見たノーチェだから分かることがある。終焉はレシピの類いを全く持っていない。せいぜいあったものは「おやつに最適のお菓子のレシピ」くらいで、後は各言語を学ぶための参考書程度。中身こそは目を通したことはないが、男の口から「本を見て作った」などという言葉は聞いたことがない。
 恐らく、そして確実にこの手料理は男の才能だとさえ言えるものだ。蕾が春を待ち侘びて花を咲かせたときのように、男のこの才能もまたある日を境に見事に開花したに違いない。その才能は生きる上で最大の武器となるだろう――。
 それを一心に受けているノーチェにはこれといって大した武器もない。生きていくのがやっとの思いで、ただ死にたがりながら生に縋りついているみっともない人間だろう。
 そう思えば思うほど、ノーチェは自分が惨めでちっぽけな人間だと思った。目の前や隣に居る人間はそれぞれ得意なことがあるというのに、自分にはこれといって何の取り柄もない人間だと――いや、ある。人並み外れた力がノーチェにはある。それの所為で奴隷になったと過言ではないのだが――。
 そうして同時に思うのだ。こんなちっぽけな人間が、奴隷になって尚、随分と手の込んだ料理を口にできるのは贅沢なことではないのかと。

「……そうねぇ……あんた、無駄に料理が上手いしね……そう思うと少年は贅沢よ〜? 毎日食べられてるんでしょ?」

 思考に陥っていたノーチェに声をかけ、リーリエはその顔をじっと覗き込んだ。よく見れば赤い瞳の奥底にキラキラと光る何かが輝いているように見える。丁度同じようなことを思っていた彼はリーリエを茫然と見つめながら、「やっぱそうなのか……」と改めて認識した。
 一般的に料理を任せられる立場に居る筈の女にでさえ、舌を唸らせるほどのものを作るのだ。機嫌が良ければ良いほど、料理に表してしまえるその手の器用さはただのプロ以外の何ものでもない。あまつさえ料理だけに留まらず、掃除や洗濯もお手の物。独り暮らしにしておくにはあまりにも勿体ない物件だ、とリーリエは笑いながら言う。
 対して終焉はその言葉に動かされるわけでもなく、ただ黙々と目の前の菓子に手をつけているだけであった。特に量の多いキャンディは持ち運びにも便利だという理由で買い溜めたらしいが、その数は最早手のひらに載せられるほどしか残っていない。
 これを「甘党」の言葉だけで済ませてしまうのは合わないような気がするが、それ以外に見合う言葉が見つからなかった。
 この極度の甘党である人は飽きもせずひたすらに甘いものだけを口にしていて、不意にノーチェの胸の奥がもやもやと形容しがたいものが募った。喉の奥に押し込んだ筈のものが競り上がるどころか、胸元が締め付けられるような違和感が彼を襲う。
 ――酷い胸焼けがした。ノーチェは男が紅茶に砂糖やミルクをいっぱいに入れた理由がよく分かったが、許容範囲を超えるそれを見ていると嫌気が差してくるのだ。それも隣に居るリーリエも同じのようで、「何かお腹いっぱいだわ」と呟いて呆れたような目をしている。
 そんな中で終焉は舌の上でキャンディをころころと転がしながら、「そうか」とだけ呟いた。

「…………アンタ達、話終わったの……」

 ――この酷く甘い空気をどうにかしようと、不意にノーチェが口を開いた。何せ、女は雨が降る前にこの屋敷に訪れていて、ノーチェと共に終焉の帰りを待っていたのだ。何かしら重要なやり取りをするに違いない。
 そんなノーチェを他所に終焉とリーリエは一度目を見合わせると、「もう終わった」と言って軽く笑った。彼が二人から離れた時間はそう長くもないというのに、二人の用事は既に終えられていたというのだ。ノーチェは微かに首を傾げると、リーリエが何かを思い出したように「あ」と両の手を合わせて終焉に口を開く。

「ねえ。折角だからあんたの作ったおつまみ持って帰りたいんだけど、持ってきてくれない? 甘いものでも何でもいいから!」

 ね、お願い。そう言って懇願するように強く目を閉じたリーリエに、終焉は酷く嫌そうな表情を浮かべた。
 ――しかし、それも一瞬のこと。「仕方ないな」と男は席を立つと、波のように揺らめく黒い髪を靡かせて客間を後にする。背が低ければ女とも間違えられそうなその後ろ姿に、ノーチェは目を向けていると、「少年」と女が呟く。
 声をかけられた方を見れば、先程の季節のように移り変わる表情など全く見受けられなかった。まるで嵐の前の静けさのような静寂。心の奥底を見透かしてくるような真剣な眼差しに、彼は思わず息を呑むと、女は言う。

「一度しか言わないからよく聞いて。エンディアにも言わないから」

 そう、女らしからぬ恐ろしいほどの静かな声色でぽつりと言葉を紡ぐ。

「――体に気を付けなさい」
「…………?」

 意図が読めず、思わず彼は首を傾げるが、構わずにリーリエはこう言った。「あんたの人生はあんたのものなんだから、他の誰かに委ねちゃ駄目よ」――と、諭すような一般論だ。
 女はノーチェが奴隷だと知っているのだろうか。思う限り、彼が自分からそう述べたことは記憶にない。もしかすれば首元にある忌々しい黒銀の首輪がそれを物語っているのを理解したのかもしれない。
 ――何にせよ、彼にはその言葉が酷く気に食わなかった。まるで、人生の全てを投げ出して死に逃げるな、と言われているような気分だった。
 酷く打ち付ける雨音はやけに耳障りで、止むことだけを望まずにはいられない。それと同時、この異様な静寂さがやけに気に食わず、誰でもいいから壊してくれ、と思ってしまった。――そうでなければ口から、喉の奥から吐き出されそうなのだ。
 アンタに一体、俺の何が解るんだ、と。

「残念だけど私にはあんたの状況なんて分かりやしないわ」

 心を見透かされたようなその言葉に、ノーチェは寒気さえも覚える。

「でもお願いよ。私はね、人生を投げ出さず、あんたはあんたの信じた道を進んでほしいと思ってる。たとえそれが間違っていても、生きていてほしいのよ。だって後悔なんてしたくない――そうでしょう? だから、あんたはここまで来たんでしょう」

 聞き覚えのないその言葉に、ノーチェは頭を金槌で殴られたかのような衝撃を感じた。
 ――何を言っているのか分からない。理解できない。目の前の女が自分に対して話し掛けているようで、全く別の人間に話し掛けているような錯覚。それは、女と初めて対面したときの違和感と恐ろしいほどに酷似している。
 あれだけ喧しいと思っていた雨の音がいやに遠く感じた。もう少し屋敷の向こうへと入っていけば、雨音などこれっぽっちも聞こえないのではないか、と思うほど。それほどまでに女の言葉はノーチェの頭を、胸を揺さぶって、目眩さえも覚えさせてくるようだった。
 始めに頭によぎるのは「こいつは何を言っているんだ」という疑問。相も変わらず相手はノーチェを知っているかのような口振りをしているが、ノーチェ自身はリーリエのことを何も知らない。もしやよく似ていて全く別の人間と間違えられているのではないかと思ったが、その赤い瞳は真っ直ぐにノーチェを見つめている。
 そして次に思ったのが、――自分の存在についてだ。
 仮にリーリエやヴェルダリアが知る「ノーチェ」が、自分自身だとするのなら、彼らのことをまるで知らない「ノーチェ」は一体誰であるのか。出会った人間が口々に言った「ここに来た」という意味不明な言葉が、どうしても頭について離れない。
 もしかしたら自分は本当に生きていてはいけない存在なのかもしれない――そんな考えが、目の前に突き付けられたような気がした。

「手作りものしかなかった」
「やぁん! それで十分よぉ〜!」

 凍てつくような静寂を裂いたのは他でもない、屋敷の現持ち主だった。客間に足を踏み入れ、小さな包みを片手に載せて女に話し掛けている。ノーチェは遠く失いかけていた意識をぐっと引き寄せると、自分が手を握り締めているのが分かった。荒れた爪が手のひらに食い込み、微かに跡を残している。
 リーリエは先程の静かな声色など微塵も感じさせないほど、上機嫌に終焉が作ったというつまみを受け取っている。恐らく女は生家に帰った後、それをつまみに酒を嗜むつもりなのだろう。
 二人の様子を見つめていたノーチェは、不意に終焉と目が合った。ここに来てからというものの、やけに人と目が合うことが多くなった気がする。男の瞳は見れば見るほどガラス玉のように透き通っているように見えて、その奥に得体の知れない暗さを持ち合わせているように思えた。
 この街には不思議な人が多いな――そう、先程の違和感をひた隠しにするよう、彼は茫然と終焉の顔を見つめているつもりだった。

「…………どうした?」
「……え」

 心底心配するような声がノーチェの耳を掠める。間抜けな声を返せば終焉は顔色が悪い、と言う。

「……リーリエ、何かしたのか……?」
「少年に何かしたらあんた怒るからしてないわよ! でもしちゃってたらそれは謝るわ……」

 先刻まで居たのはお前だろう――、そう咎めるような眼差しが女を射抜く。それにぐっと体を強張らせると、リーリエはノーチェの方へ近寄ったかと思えば「ごめんねぇ」と申し訳なさそうに両頬を包んだ。
 何故顔を包まれるのか理由は分からない。挙げ句、それをこねるようにぐにぐにと回されて、ノーチェは自分の考えていたことが次第に馬鹿らしく思えてしまう。真剣に悩んでいた筈なのに、謝罪の意を見せながら頬で遊ぶ女の行動に、頭の中にあった思考の塊が弾けるように散らばったのだ。
 「いい……いいから……」鬱陶しく思えてきたノーチェは咄嗟に両手を掴み、リーリエの手を引き剥がす。「あらそう」と呟いた女の顔に反省の色は見受けられず、寧ろ「何を反省すべきことがあるのか」と言いたげなものだ。敢えて言うなら「豪快」という言葉が似合うような、花の色の移ろいによく似た女だった。
 ほんの少し、鬱陶しい。――そんな思いがノーチェの胸に募る中、ふとリーリエがソファーに置き去りにした酒を抱え、「帰ろうかしら」と微笑む。金の髪が空気を含むようにふわりと揺れた。外は未だに雨が降り続いていると言うのに、女は雨具の類いを一切持ち合わせていない。

「どうせ雨はやまないしね」

 分かりきったような答えを呟くよう、笑う様は見ていて心地のいいほど。リーリエは迷うことなくエントランスへと足を運ぶと、慣れた様子でハイヒールを履いて、すらりと背筋を伸ばす。後をついてきた終焉やノーチェには馴染みのないその靴は妙に痛々しく、歩きにくそう、の言葉がよく合う。
 それを女は気にも留めないのだろう。迷うことなく取っ手に手をついた女は角をまさぐって、ひとつの傘を取り出した。「貸して頂戴な」と花のように微笑む様は、あれでも女なのだと思わせるものに他ならない。それに終焉は「好きにしろ」とだけ呟いて、早く出ていけと言わんばかりに手を振る。

「少年もまたね」

 また、お茶をご馳走してね。女はそう言って彼に控えめに手を振ってみせた。ノーチェはそれに首を縦に振って頷くが、手を振った方がよかったのかと思ったときにはもう、閉まる扉の隙間からリーリエが傘を差して足軽に歩いているのが見えていた。
 ――バタン。音を立てて閉まる扉を見て、終焉が何かに気が付いたかのように扉へと近付く。――それに彼はハッとした。ヒビの入った取っ手を終焉はじっと見下ろしていて、ノーチェはそれを言い出すタイミングをすっかり見失ってしまう。
 何をするわけでもない、怒るわけでもない――ただ無言の時間だけが、彼の体をじりじりと焼き続けた。
 ――不意に終焉がノーチェへと振り返る。音もなく、何の脈絡もなく。それに驚いたノーチェは、一瞬だけ息を止めた。だが、終焉が軽く手招きをしているのを見て、徐にその傍へと歩み寄る。懸念していた激怒が来るのかと思ったのだが――、やはり検討違いになるのだろう。男の表情は誰よりも柔らかく、優しく見えた。

「……私は、直す分野はとても苦手なのだがな……」

 ノーチェを手招いた終焉は、白い手でひび割れた取っ手を軽く掴み、誰が見てもゆっくりと、まるで握り締めるかのような力でそれを撫でる。上から下へ、汚れを拭い取るような手付きで。
 するとどうだろう。終焉が撫でた辺りからひび割れていた筈のそれが跡形もなく元に戻っている。非現実ながら説明をするのなら、男がその手でひびを拭い取ったのだ、と言い表すのがよさそうな現象。終焉は下へ下へ――最後まで取っ手を撫でると、ゆっくりと手を離した。勿論男の手のひらに汚れのひとつもついていないが、それと同様に取っ手にも傷がひとつも残されていない。
 この程度の修繕は私でも扱える魔法なのだ、と終焉はその出来を見て多少誇らしげに言った。両手を腰に当てて、横目でノーチェを見やる。彼はそれを見て、驚き――ではなく、ただ何かを責め立てるように眉を顰めている。
 普段の多少の変化ならば幾度となく目にしてきた終焉は、思わず唇を開きかけた。何せ今のその顔は多少、ではなく、露骨に嫌悪を表していたからだ。
 だからこそ思わず男は「どうしたんだ」と声をかけようとした。――しかし、徐に紡がれる彼の言葉に動きが止まる。

「――……アンタ、怒ったりしねぇの。それ、やったの、俺だぞ……?」
「…………」
「俺が……わざとやったとか、思ったりしねぇのかよ……」

 唸るように紡がれたノーチェの言葉に終焉は数回瞬きを繰り返す。恐らく、彼が何を意図してそう言っているのか理解しようと試みているのだろう。ゆっくりと味わうようにその言葉の咀嚼を繰り返し、終焉は徐に口許に手を添える。ノーチェが顔を顰めながらちらりと終焉を横目で覗き見ていることにも気が付かず、小さく首を傾げる。
 数秒の沈黙が数十分の長い沈黙に思えた頃、終焉は漸く小さく唇を開いた。訝しげな声色で、且つ不思議そうに「……怒られたいのか……?」と彼に問いかけた。

「……そうじゃねえよ……だって、普通、物を壊されたら怒るもんだろ……殴ったりするもんじゃねえの」

 そうしてあわよくばこの命の灯火が消えてしまえばいい。――そう言いたげに彼は数十センチ高い終焉の顔を見上げた。ノーチェ自身ではない終焉にとって、彼が一体どのような気持ちでその表情を浮かべているのか分からないが――、終焉にとってその表情は不安に濡れる子供のように見えてしまう。
 見上げた終焉の目は不思議そうでもなく、訝しげでもない。ただ無表情がそこにあるだけで、ノーチェを責め立てるような目ではなかった。
 それが妙に気に食わないノーチェは、つい終焉から目を逸らしたが、その場から立ち去ろうとは思っていなかった。服の裾を手で握り締めて唇を噛み締める。唇が切れて血が出てしまいそうなその行為に終焉は「やめろ」とだけ呟くと、案の定彼の頭を撫でる。

「生憎私はその程度で貴方に怒りを表そうとは思っていない。物が壊れるのは当然のことだろう」

 柔らかな毛髪が終焉の手を軽く包んだ。――死人のように冷たい。そんな感覚がノーチェの頭に伝う。触れられれば背筋が凍るような、ひやりとした冷たさを覚えるものだ。包み隠さず率直に言うのなら――まるで、血液が流れているとは思えないほど。
 それを頭の先で感じているノーチェは一度目を閉じると、「そういうんじゃない……」と小さく呟いて、恐る恐るといった様子でこう言った。

「薄々分かってんだろ……俺が死にたがってるってことくらい……」

 それでも自分で死ねないことくらい――と。ノーチェは終焉の手を払うことなくぽつりぽつりと呟きを洩らしていた。小さく開かれる唇は震えてはいないが、ハキハキと話せるような雰囲気ではないことがよく分かる。それを終焉は責めることもなく、急かすこともなく、ただノーチェの言葉の続きを待っている。
 やがて彼が続きを話さないと思うや否や、笑わずに「悪いな」と口を溢して彼の頭を再び撫でる。

「残念ながら私は貴方を殺さない、私に貴方を殺せない」
「…………なんで……?」

 男が笑った様子はない。しかし、その口調は誰がどう聞いても柔らかく、割れ物を扱うような優しいものだった。何故、とノーチェは小さく男に訊いた。分かりきっている筈の答えが返ってくることも気に留めず、不満そうに軽く唇を尖らせる。
 ――言葉にすることは重要らしい。
 そう不意に呟いた終焉は、ふて腐れ気味のノーチェの頬を包むと、先程屋敷を出ていったリーリエと同じように頬をこねくり回す。女ほどではないが、肌触りのいいそれは滑りがよく、女を彷彿とさせるようなものだ。
 ノーチェはその行動に呆気に取られ、声を上げることもなく、ただされるがまま。状況に理解が追い付かず、ただ思うままの表情――それこそまさに顰めっ面とでも言うべきだろうか――を浮かべている。眉を顰め「こいつは何をしているんだ」と言いたげな表情そのものだ。
 彼は思わずその両手を掴み、「何すんだ」と一言。トゲを含んだ張りのある声――とまではいかないが、明らかな嫌悪が滲み出ている。

「……理由を教えてやろうか」

 調子の戻ったノーチェを終焉は軽く宥め、ほんのりと口角を上げて分かりきった答えを言った。

「ノーチェを愛しているからだ」

 だから私は貴方を殺さない、――殺せない。
 最もらしいその理由に、ノーチェは納得せざるを得なかった。男が彼を愛しているという理由は相変わらず分からない。もしかすると訊けば教えてもらえるだろうが、生憎ノーチェにはそれに対する興味を抱けるほど、終焉に興味があるわけではなかった。
 彼はむくれている表情をやめると、「意味わかんねぇ」と愚痴のように低い言葉を洩らす。男の両手を掴んで、ぐいと引き剥がすものの、これといって特別嫌だと思っていたわけではないのは確かだ。ただ鬱陶しかった、それだけに他ならない。
 終焉はそれに仕方なく手を下ろしてやる。「言葉にするのは恥ずかしいものだな」と、微笑みを掻き消した表情のまま彼に呟いた。感情の冷めきった顔付き、抑揚のない声色――それのどこが恥ずかしがっているのだ、とノーチェは横目で軽く睨んでやる。心持ちは不機嫌になった猫と同じ気分だ。
 そうして思い付くひとつの疑問を、男にぶつけてやった。

「……なあ、変な話……アンタ達の言う『ノーチェ』と、俺は、別人なんじゃねぇの? アンタが愛してるってのも、多分俺じゃなくて――」

 ――突然だった。目の前いっぱいに映り込んだ端整な顔立ち、透き通るほどに美しい瞳。あ、案外睫毛が長い――なんて思う暇もなく、頬に伝わる軽い違和感にノーチェが目を丸くする。頬をつままれているのだ、と気が付く頃には終焉が口をへの字に曲げて「何可笑しなことを言っているんだ」と不機嫌そうに言う。

「この世界に『ノーチェ』は貴方だけだし、私が愛しているのも貴方だけだよ」

 「冗談も程々にしてくれ」男はほんの少し、悲しげに眉尻を下げたと思えば、惜し気もなくノーチェから手を離しエントランスを後にする。「私にも紅茶を淹れてくれないか」と軽く振り返りながらノーチェに言えば、彼はやはりふて腐れるような顔付きで、ほんのりと唇を開く。

「……何で自分より料理が上手い奴に振る舞うんだよ……」

 ――なんて馬鹿にされることを懸念した上で、じっとりとした目付きをくれてやった。終焉は特に気にしている様子もない。ただ「それは残念だ」と置き去りにするように紡がれた言葉が、いやに寂しげに思えて仕方なかった。
 エントランスに置き去りにされたノーチェは、終焉が撫でていた取っ手に目を移す。まるで傷など初めからなかったと言うように存在するそれは、掃除した直後と同じように真新しい輝きを取り戻していた。魔法とは相当便利なもので、どこかの世界では生活に欠かせないものなのだ、と誰かが言っていたような気がする。
 そんな昔の記憶に思いを馳せていたノーチェの耳に、強さを増した雨の音が耳をつんざくほど強く聞こえてきた。バケツを引っくり返したような雨とはこのことをいうのだろう、と思う最中、遠くに聞こえる低く唸るような雷の音を聞き入れる。
 誰がどう聞いてもそれがいいものではないことは分かっていた。――特にノーチェにはそれが胸の奥の何かを刺激するような、大きな不安になっているような気がしてならない。「恐ろしい」という言葉だけで形容しきれない漠然とした不安が、足元に大きく広がっているような感覚が気味悪かった。

「ノーチェ。これからパンケーキを焼くんだが、食べるか?」

 遠くに聞こえる澄んだ声色。「まだ食べるのかよ」の一言も発することもなく、彼は徐に声のする方へと足を進めていった。
 男が手に掛けてくれないことは分かりきっていた。仕方のないことだ。来るべきその日が来たら、男の愛などという気の迷いは消えてなくなるだろう。それまでは奴隷扱いしない男に対して、思うままに付き合ってやれば文句は言われまい。
 キッチンの向こうで終焉は丁寧にエプロンを着けていた。「……じゃあ、ちょっとだけ」と言ったノーチェの皿に、十分すぎるほどの量が載せられていて、たっぷりかけられたメイプルの香りに胸焼けを覚えたのは、言うまでもない。


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