ざあざあと音を鳴らしながら降り頻る雨は体を強く打ち付けた。じっとりと肌にまとわりつくような鬱陶しいほどの湿気は感情を揺さぶって、時間が経つにつれて増していく蒸し暑さと言えば「最悪」以外の何ものでもない。雨が打ち付ける石畳の香りはアスファルトのそれに近く、その独特な香りにヴェルダリアはぐっと顔を顰める。
彼は言うほど雨が好きではなかった。寧ろその逆、体にまとわりつく衣服の感触が酷く苦手で雨は嫌いだと言ってもいいほどだった。教会へと帰る道中、鈍く暗い雲から落ちてきた雫を認知するや否や足を速めたが、流石梅雨といったところだろう――瞬く間に雨量を増してヴェルダリアはあっという間に全身が濡れてしまった。
ずぶ濡れになった服は乾いていた頃よりも遥かに重く、絞れるほどの水を含んでいるのではないかと思えるほどだった。濡れた長い赤髪も頬にまとわりつき、彼は鬱陶しげに金の瞳を細める。濡れた手でべったりとついた毛先を払い、手近にあった店の屋根の下に身を潜める。ふう、と一息吐きながら空の向こうを見上げるが薄暗い灰色一色に彩られているだけだった。
これじゃあ当分やまねぇな――そう人知れず呟きを洩らした。流石の賑やかな街並みも雨の中ではしんと静まり返っていて、物寂しい雰囲気を漂わせている。よく見れば店内や家の中でちょこちょこと動き回る人影を見る限り、機能はしているのだと思えるが、いかんせん人通りが少ない。あの晴れ渡る空の下に比べれば、雨の日の街はどこか寂れた雰囲気をまとっているように思えた。
彼はべたつく衣服を指で摘まみ「気持ち悪ぃ」とひとつ。愚痴を溢して湿気を追い払うように手を仰ぎ、顔に風を送る。酷く湿った空気が気を滅入らせる。梅雨だと頷かせる高い湿度と妙に高い気温は彼の気分を害すには十分すぎて、ヴェルダリアは思わず深い溜め息を吐いた。
こうなるくらいなら傘のひとつでも持ち歩けばよかった、と彼は思う。ちらほらと見かける人の姿は雨具を常備していて、ヴェルダリアのように雨宿りしている者などめったに見かけない。備えあれば憂いなしと言いたげに次々と折り畳み式の傘を取り出すのだ。
当分やまない――そう呟いた通り、雲と雨の量を見る限り一日中は降り頻るのだろう。空の向こうのどす黒い雲は風に押されて悠々とこちらへ近付いてくる。最早無事で帰るには傘を買うのが懸命なのかもしれない。――しかし、たった傘一本に使う金が勿体ないと彼は悩ましげに首を傾げる。
一言で表すならヴェルダリアは教会に居候しているような状況だ。衣食住は約束されるが、それ以上のものを求めるのはお門違いだろう。何より彼は言うほど教会が好きではない。そんなものに借りを作ろうなど、ヴェルダリアのプライドが許さなかった。
「待ってても仕方ねぇし帰るか」
ぽつり、小さく呟いた独り言が量を増した雨音に掻き消される。彼は二度目の溜め息を吐いて、赤茶色のブーツで石畳を踏み締める。不意に鳴らされるぱしゃんと水が弾ける音。何気なく音がした方へ目を向けると、嫌でも知っている黒いそれが目に映る。
そこにはヴェルダリアと同じように傘も差さず雨に身を晒す終焉が居た。長く風に靡いていた黒髪は今や雨に濡れて細い糸のような滑らかさなど微塵も見当たらない。だが、女のような艶は相変わらずで、長い睫毛を持つ切れの長い瞳はヴェルダリアをじっと見つめた。
あまりにも興味なさげなその空虚な瞳にヴェルダリアは思わず手を背に回す――その手はするりと空を掠め、彼は「あ」と口を開いた。
彼は今仕事用の物を持ち合わせてはいない。――つまり、等身大ほどの大きさにもなる十字架を模した大剣を所持していないのだ。
終焉殺しの異名を持つヴェルダリアの仕事は、教会に命じられた街の安全を守る他にひとつ、終焉を見つけたら即座に刃を向けること。最早暗黙の了解になる他、ヴェルダリア以外には務まらないとさえ言われている。
それがすっかり体に染み付いてしまった彼は咄嗟に終焉を狩るために大剣を取ろうとしたが、教会絡みではないまま外に出てしまったことが終焉にとって功を奏したのだ。彼はバツが悪そうに小さく舌打ちをすると徐に伸ばしていた手を下ろす。
命を狩るための道具がないのなら手を出すわけにはいかない。終焉の力は底知れないのだ。表情が変わらないまま戦闘に臨む姿を見る限り、男にはまだまだ隠しているものがある筈に違いない。そうである以上好戦的な彼にもまた自制というものが働くのだ。
ゆっくり手を下ろすヴェルダリアを見て終焉は興味がなさげに彼から目を逸らす。疎かになっていた足を再び動かすと、鳴るのは石畳を踏み締める固い音ではなく、雨によってできた小さな水を踏み締める音。小さく水飛沫を上げながら終焉は雨に体を晒し、街の向こうへと歩いていった。
終焉の屋敷から歩いてきたヴェルダリアに分かるのは、終焉が屋敷へと向かって歩いていないことだろう。彼は小さく首を傾げてそのまま終焉の背中を軽蔑するように目を細める。
雨音がよりいっそう強くなった気がした。べたつく服に思わず「あーくそ!」とヴェルダリアが声を荒らげる。何をしても不快感が拭えないのは百も承知であるが、胸のうちに募る蟠りを吐き出すように声を荒らげなけらば気が済まなかった。
――ぱしゃん
そんな水音が一際大きく聞こえたような気がして、彼はそれに目を向ける。視線の先に居るのはぽつぽつと歩く人を真似るように傘を差し、立ち尽くす一人の青年。燃えるような淡い炎の色を持った髪にルビーのような瞳が酷く印象的な女だった。
「……レイン、お前」
薄暗い瞳に静けさを湛えながら立ち尽くすレインと呼ばれた女は、以前終焉の怒りを買い、商人の盾にされそうになった女だ。彼女もまた教会とは関係なしに街を彷徨いていたようで、シスターのような服とは違い、清楚な私服を身にまとっている。淡色の七分丈のカットソーに踝まで伸びるロングスカートが黙りのレインによく似合っている気がした。
ヴェルダリアが思わず驚くように瞬きをしながら言葉を洩らすと、レインはスカートに隠れる足をつい、と前に出して彼の元にそうっと駆け寄る。その容姿に見合わない黒い傘はまるで曇天を思わせるようで異質だった。
レインの手元にあるのはひとつの傘。それをヴェルダリアの方へ差し出すと、彼女は何も言わずただじっとヴェルダリアの顔を見つめる。仄暗いルビーの瞳に間抜けな表情を浮かべたヴェルダリアの顔が微かに映っていた。「……何だ?」と差し出された理由も分かっていながら彼はその行動に問い掛ける。
「俺はもう濡れてるから別に要らねぇよ」
彼はレインが差し出した傘を手で押し返すと嫌そうに屋根の下から体を出そうとした。
「…………」
――すると、レインがヴェルダリアの体を押し戻し押し返された傘を再び目の前に差し出す。その反動にレインの手元から黒い傘が弾かれるように落ち、雨に濡れていない体がみるみるうちに濡れていくのが見てとれた。雨粒が大きさを変えたのか、跡が大きく服に染み渡る。
「おいおい濡れるぜ」押し返されたことに驚きを覚えながらも紡いだ言葉に、レインは落ちた傘を茫然と――まるで手元から落ちたことが不思議で仕方ないと言わんばかりに――見つめて、彼へ顔を向け直す。「傘を差してください」なんて今にも言い出しそうな顔付きで、差し出す傘を尚もヴェルダリアに近付けた。
「……だからよぉ、俺は要らねえってば。そう遠くねぇだろ? 差さなくても問題なんて」
「…………」
彼は終焉殺しの異名を持つことと、好戦的な性格で程好く周りから恐れられている。――しかし、そんなヴェルダリアにも頭の上がらない――と言うよりは何を言っても聞いてくれない――存在が居る。それが他でもないレインそのものだ。
レインはヴェルダリアが何度必要ないと言ってもろくに話を聞かなかった。それどころか口を開く度にぐいぐいと傘を押し付けてきて、自分の体が濡れることなど気にも留めていない様子だ。端から見ればただ好意を押し付けあっているカップルのように見られる可能性さえあるのだが、雨が降っていて人通りが少ないことから、そのような噂など立つ兆しもない。
彼は「しつこいぞ」と口を溢したが、レインはそこはかとなく顔をしかめてじっと彼を睨むように見つめている。このままでは――多少手遅れな気もするが――どちらも風邪を引きかねない。更に言えばレインは女だ、目のやり場に困ることが懸念されるだろう。
ヴェルダリアは一向に引く気配のないレインに大きく溜め息を吐き、頭を掻いた。じっとりと湿った汗が指先に伝う。それが嫌で小さく舌打ちをすると「仕方ねえなぁ!」と気を紛らすように一言。レインが持つ真新しい傘を手に取って留め具を外す。
彼女はそれにどこか表情を明るめて落ちた傘を取りに行った。
「濡れてるから意味ねぇって言ってん…………おい何だこれ」
ばさ、と音を立てて勢いよく開いた傘には桃色のストライプの柄が程好く施されていて、女が使っても可笑しくないほど可愛らしいものだった。
――そもそも可笑しいと思っていたのだ。レインが使っている傘はあまりにも無骨で、男が使っても可笑しくない代物だった。その傘は体をいとも簡単に覆い隠してしまい、大きすぎると言っても過言ではないほどだ。何の装飾もなく持ち手は可愛らしさの欠片もない。
彼はレインが自分に不満があるのかと思い、徐に彼女へと顔を向けて様子を窺った。レインはヴェルダリアの言葉に傘を拾う手を止めてヴェルダリアを見やる。そこには可愛らしい傘を開いたまま固まってレインを見つめるヴェルダリアが居た。
ほんの少し状況を理解するのに時間が掛かったのだろう。レインは雨に打たれながらそれをぼうっと眺めていると、咄嗟に首を横に振ってヴェルダリアが言いたげにしていることを否定する。
――聞けばそれは教会の長、モーゼがレインを遣いに寄越したそうだ。その際にくつくつと笑いながら「これを持って行きなさい」と傘を手渡したそうで、彼女はそれに従っただけだという。
モーゼが笑っていたのはヴェルダリアの反応を想像してだろう。それにまんまと嵌まってしまった彼は酷く不愉快で、胸の奥が――腹の奥が煮えきるような感覚を覚えてしまう。食道を通って出てきそうな鬱憤を言葉に乗せたら目の前の女が自分のことだと思って傷ついてしまいそうで――彼はそれをモーゼのために取っておいてやろうと言葉を呑み込む。
落ち着いて深呼吸を繰り返した。しかし、手元にあるそれを見る度に腸が煮え繰り返るような気分に陥って、ヴェルダリアは表情を歪める。弾かれるように屋根の下から体を出して、軽く焦るレインの手から黒い傘を奪い取った。
「こっちのはお前が使ってろ」
開いたままの傘をつい、とレインへと押し付けた。雨が凌げるよう手に取るまで頭の上に差してやって、だ。ばたばたと傘の中で反響する音は心地よく、レインは茫然とヴェルダリアの顔を見上げる。その光景が何かを彷彿とさせてくるような気がして、彼女は暫くの間身動きが取れなかった。
その間にもヴェルダリアは傘を差すこともできず新しく体を濡らしていく。思わず「どうした」と問い掛ければ、レインはハッとした様子で慌ててその傘を手に取り、小さく口を開いた。
「……有り難う、ございます」
「――やめろ」
レインの小さな言葉に彼は間髪入れず口を挟む。純粋無垢な礼に対して冷めきったその声色は彼女を怯えさせて、身を縮める。余計なことをしてしまったのではないかとレインの胸にいくつもの不安が押し寄せる。形のいい唇を不安げに震わせて、薄暗い瞳を揺らめかせた。
そんな彼女に彼は手を伸ばし、濡れきった頭を撫でてやる。それは先程のノーチェを撫でるような乱暴な手付きではなく、小さな生き物を愛でるように優しいものだった。濡れきった髪に手が当てられくしゃりと音を立てるが、乱暴でないのは相手が女だからだろうか。
それともまた別の理由があるのだろうか――。
「無理して俺と話すんじゃねえよ。喉痛めんぞ」
ふ、と微笑んでやってヴェルダリアはレインから手を離した。今まで人を見下したように嘲笑う男が浮かべるとは思えなかったほどの柔らかい微笑みに、レインは微かに――それも悲しそうに――微笑んで小さく頷く。自分の首元に軽く指先を置いた。そこにあるのは黒いチョーカーを模した首輪のような何か。ほう、と吐息を吐いて落ち込むような様はまさに憂いを帯びた淑女そのものだろう。
ヴェルダリアはそれを横目に一度目を閉じる。先程から雨音が傘によってくぐもったような音へと変わった。雨粒が体に当たらなくなったのは好ましいことだが、既に雨に濡れているヴェルダリアとしては雨避けができているとしても素肌に付着する衣服が厄介で仕方ない。加えてレインはそれとなく薄着ときたものだ。ところどころ透けて見えるそれに彼は小さく舌打ちを溢し、濡れた服に手をかける。
ホックを解いて慣れた手付きで上着を脱ぐと、黒いインナーが顔を出した。七分丈のそれは違和感なくヴェルダリアに似合っていて、湿気を含んでいた分露わになると外の空気が涼しく思えるのが特徴的だった。――今はその涼しささえ湿度をより感じさせるものに近しいのが何とも言えないところだろう。
彼はその濡れた上着をレインに向けて軽く投げつけた。顔に当たる――そのすれすれでばさりと音を立てながら上着はレインの頭の上にかぶさる。ほんのりと湿気をまとった重い上着にレインは目を丸くすると、「暑くても羽織っておけ」とヴェルダリアが背を向けながら呟いた。
理由はすぐに分かった。
ふと目を落とすと薄く透けた衣服の向こうにある下着が微かに透けて見えている。雨に濡れている箇所から、じっと目を凝らせば凝らすほどなだらかな体の曲線が見てとれた。それは成熟した女の体そのもので、見る者が見れば魅了されてしまうような美しい曲線だ。
それに気が付くとレインは咄嗟に彼の上着を抱えていそいそと袖を通した。――案の定手が袖に隠れるほどに服は大きく、彼女の腰をすっかり隠してしまっている。暑いと言うのにも拘わらず、ホックを全て取り付けて首元まで隠してしまうのだから、相当慌てていたのだろう。準備いいか、とヴェルダリアが振り向いた先で見たものは、上着をしっかりと着てヴェルダリアを見るレインだった。
「……上くらいは開けりゃいいだろ。暑いんだから」
そう言って彼女が着た上着の襟のホックを外すと、レインはほんの少し楽になったかのように呼吸を繰り返した。咄嗟に礼を述べようとしたが、ヴェルダリアの鋭い金の瞳に押し負け、レインは小さく頷いてみせる。「楽だろ」と彼が口を溢すと、彼女は一度頷いた。
「……よし帰るか」
そう肩を並べて石畳を踏み締める彼らの後ろ姿を見ていたのは、道端に咲く青い紫陽花だけだった。
雨は止むことを露知らず。鈍色の――今にも雲が落ちてきそうな――空からざあざあと降り頻る雨の音は不思議と心地好く思えた。街にある大きな時計塔は雨の日も静かに時を刻んでいて、一時間毎に金を大きく鳴らしている。それが酷く喧しく聞こえてしまうのだが、この街にはなくてはならないものだろう。
大きく広がる庭の間を縫って聳え立つ教会の扉を押し開ける。ぎぃ、と小さな音を立てて開いた向こう、普段は明るい色で満ちた聖堂は薄暗さにより奇妙な雰囲気を湛えていた。光が差し込んで美しく煌めくステンドグラスは、日差しがなければ寂れた廃館のような不気味さを覚えさせてくるようだ。
傘を折り畳みふう、と一息吐くヴェルダリアは自分の頭を掻いて上げていた前髪を下ろす。濡れてしまった以上、髪型を維持するのも無意味だと思ったのだろう――前髪を下ろした彼の見目はどこか幼く見えて、珍しいことこの上ない。額にあった傷痕は髪に隠れていて、頬に残る傷痕だけが痛々しく姿を現している。
彼の隣でくるくると傘を畳み、レインはほっと肩の荷を下ろすようにヴェルダリアと同じように一息吐こうとした。すると、彼は「早く着替えてこい」と背を押すように呟く。
休憩のひとつも取らせてくれない――なんて不満は彼女にはなかった。レインはハッとしたように目を丸くして、咄嗟に聖堂の奥にある部屋に駆けていく。「上着返せよ」思い出したようにヴェルダリアが声をかけると、レインは彼に振り返って両腕を包むように服を握り締めた。
まだ駄目と言いたげな行動に、ヴェルダリアは思わず口を開いて「反抗期か……?」と独り言を洩らす。傘を抱えて駆けるその後ろ姿は特別反抗するように見えないが――心のうちは皆目見当もつかない。人知れず反抗期を迎えて大人にでも成長するのだろう。
そう思えば思うほど、彼の胸には謎の感動が生まれたような気がした。
――しかし、その感情に浸るのも束の間。かたん、と小さな物音と共に姿を現したそれにヴェルダリアは眉を寄せる。レインが向かった方とはまた別の方向だったのがせめてもの救いだろう。――押し寄せる鉄の香りに彼の鼻の奥が痛むような気がした。
「やあ。傘は気に入ってくれたかな?」
そう呟いたのは他でもない、レインを寄越したモーゼ本人だった。
モーゼは慣れた足取りで聖堂を歩き、ヴェルダリアの傍へと近付いていく。長椅子で隠れていた手元が露わになると同時に彼はレインを早めに部屋に向かわせたことに安堵を覚えた。こつりと低い音を立てて赤い絨毯の上に足を踏み入れたモーゼの手元には黒い塊――一匹の猫が掴まれていた。
正確には一匹「だった」と言うべきだろうか――モーゼは片手に頭部を掴み、もう片手に胴体を掴み上げていた。誰がどう見てもその猫の頭と体は分離していて、断面と思われる箇所からは絶え間なく血が滴り落ちている。猫がそうなってから数分程度しか経っていないのだろう――真新しい血の香りは酷く不快だった。
それを手にしながらモーゼは人のよさそうな微笑みを浮かべている。「誰が気に入るかよ」そう答えてやってヴェルダリアは例の傘が気に入らなかったことを示した。
モーゼはヴェルダリアのような男が可愛らしい傘を使っているのを見て笑いたかったのだろうが、勿論彼はその手には乗らないつもりだ。だからこそレインから傘を奪い取って半ば無理矢理交換をしたのだろうが――恐らくそれもモーゼの手の中だろう。でなければレインが大きな黒い傘を使うことなどない筈なのだから。
大方雨が降り始めた辺りでモーゼがレインにヴェルダリアを迎えに行くよう言ったのだろう。その際に多少のおふざけを混ぜ、レインには男物の傘を、ヴェルダリアには女物の傘を使うよう彼女に言ったに違いない。
ヴェルダリアは自分が玩具のように思われたことが酷く不快で、モーゼを睨み付けながら舌打ちをした。「おお、怖い怖い」そう言って笑いながら亡骸を手にモーゼはヴェルダリアの目の前で立ち止まる。
「はい、じゃあ燃やしてくれるかい」
何でもないかのように猫だったものを彼に差し出すと、ヴェルダリアお得意の魔法でそれを燃やせと言った。
ぐったりと項垂れるような胴体は微かに湿っていて、つい先程まで生きていたのではないかと思わせてくるほど。――実際はその湿り具合が雨によってなのか血によってなのか、判断はつかないが、滑り気を帯びたその鮮血からすれば、もしかすると血液によっての所為なのかもしれない。
「可哀想に」――そう言ったのはヴェルダリアではなく、手にかけた筈のモーゼだった。
彼はその亡骸の傍に素手を差し出して、ゆっくりと親指と中指の腹を合わせる。同時に薬指と小指を折り畳んで、――指を弾いてぱちん、と小さく鳴らした。
すると、音もなくたちどころに火が燃え盛り猫の亡骸を包み始める。肉の焼ける奇妙な臭いは鼻の奥をつん、と刺激して心地いいものではなかった。頭部と胴体それぞれを掴み上げているモーゼの手を火が襲うものの、男は何の反応もなくただ小さく話をする。
「この子はね、足に怪我を負っていたからね。痛みがなくなるようにしてあげたのさ」
ぱちぱちと燃えるそれを見て、そう語るモーゼにヴェルダリアが鼻で笑う。
「ほざけ。てめぇが傷を負わせたんだろうが」
火が燃える向こうで見る互いの顔は懐を探り、相手の考えを読もうという意志が読み取れる。仄かに暗闇を湛える深い紫の瞳に獣を彷彿とさせる金の瞳――交差する視線は針のように鋭く、一瞬でも気を許してしまえば不意を突かれるような錯覚も覚えてしまう。
その中でヴェルダリアは確かに呟いた。彼自身が目撃していたかどうか、モーゼは知りもしないが、その核心を突くような確かな口振りからすれば彼は見ていたのだろう。
猫を傷付けた挙げ句殺したのはお前だ、と暗に言われている――それにモーゼは悪びれる様子もなく肩で一度笑いながら「そうだねぇ」と思いを馳せるように呟いた。火が燃え尽きると、手の中に収まっていたその残骸を男は振り払い、汚いものを見るような目で手を拭う。「この服も変えないとね」なんて言って、鮮血で汚れきった聖職者のような服をつまみ上げる。
モーゼは否定することはしなかった。露骨な肯定もせずやんわりとヴェルダリアの言葉を呑み込むように受け入れたのだ。
「――それで、実際のところはどうだったんだい。“終焉の者”はそこに居たかな?」
ゆっくりと目を薄めてモーゼはヴェルダリアに結果を求めた。
「ああ、居たよ。……まあ、居たのはあいつじゃなくて坊っちゃんだったけどなぁ」
「坊っちゃん……?」
ヴェルダリアの口から馴染みのない言葉が発せられた所為だろう。モーゼは不思議そうに首を傾げながら言葉を繰り返すと、彼は「こっちの話だ」と言って会話を区切る。
「まさか猫を使って居場所を突き止めるなんてなぁ……それが教会のやることかね」
ヴェルダリアはくっと口の端を上げて嫌味たらしく馬鹿にするようにモーゼを見やった。そこにあるのは何の変哲もない、澄ました顔の一人の男――何かを悪びれる様子もない、善悪の判断がまともにつかないような表情があるだけだった。
何も彼は偶然で終焉の屋敷を見つけたのではない。ただ転々と匂いを辿っていったのだ。時には家の裏道、時には雑草を越えたその向こう――日当たりのいい場所なんかも見つけてしまって、屋敷に辿り着くとは思ってもいなかったのだが、何事も諦めないことが肝心なのだろう。
退屈だと思う矢先、欠伸を噛み締めながら見据えた先にあったのは不自然に森を背に佇むひとつの屋敷だった。外から見る限りどうも廃れた小汚いただの空き家同然にも思えるのだが、彼はそこに人の気配を感じていた。
ほんの少し錆びたアーチ。周りを彩り豊かな花が取り囲んでいて、大きな窓が備え付けられた庭には垣根と薔薇、紫陽花なんかも見事に咲き誇っている。 白い家具を取り揃えたガゼボの下には軽く石階段なんかがあって、茫然と「いい暮らしをしているんだな」と思うほどだ。
彼は街の外れにある屋敷の存在には気が付いていたが、赴く気にはならなかった。――というよりはただ億劫だったのだ。決して教会のために働いているわけでもないヴェルダリアが、何故廃れた屋敷などに赴かなければならないのか――という単純な軽い反抗心からだ。
万が一にそこに終焉が居るにしろ居ないにしろ、どうなろうがヴェルダリアには関係のないこと。ただそれだけだった。
――だが、それだけの理由だからこそ、屋敷を訪ねる理由も簡単に生まれるのだ。
――何せ彼は終焉が嫌いだから。
黒い服をまとい、何もかもを見据えるような静かな瞳で見下ろされるのは屈辱でしかない。その目で見つめられると不思議と彼の中の何かが騒ぎ立てるような不快感が身を襲う。ざわざわと蟠りが胸焼けを引き起こして居ても立ってもいられなくなるのだ。
だからこそヴェルダリアは屋敷へと赴いた。終焉の存在などどうでもいいという感情がある反面、男を殺したいという衝動が顔を出す。その衝動を知っているモーゼは彼にひとつ提案をした。それは勿論終焉の居場所を突き止めること。何匹かの動物に傷をつけたから傷口から流れる血の匂いを追え、ということだ。
どこの情報かは定かにはなっていないが、モーゼは終焉がやたらと動物に好かれることを知っているようだ。それを手当たり次第に傷付け、いつかは終焉の元に辿り着くだろうという考えからヴェルダリアに話を持ち掛けたのだろう。
当然彼はひとつ返事で済ますことをやめようとした。――だが、モーゼはヴェルダリアの弱味を握っているようで、「やってくれるよね?」とだけ言って圧をかけると彼はしぶしぶそれに従う。
結果として彼は終焉に出会うことはなかった。しかし、代わりに連れ去られたという奴隷が一人居た。その事実から言えば、終焉が離れにある屋敷に身を寄せているのは間違いないのだろう。
――今回の雨で殆どの匂いは消えてしまった。それでも街の外れにある屋敷など、たったひとつしかないのだ。
「ふふ……これで彼の者の居場所は掴めたね。あとは――邪魔をどう排除しようかね」
くすり、笑うモーゼを他所にヴェルダリアは興味を失ったようにその場を後にした。
夜が更けて尚降り頻る雨の音が喧しく思えた。それも昼とは違って夜は周りの音が聞こえないほど静まり返っているからだろう。高い屋根を打ち付けるその音が耳障りで、ノーチェは目的もなく屋敷の中を彷徨いた。客間のソファーへと座ってみたが、ばたばたと音を立てているそれが気に食わず目を伏せる。
雨の日は特に孤独感を覚えることが多かった。夜になればなるほど自分が惨めに思えることも多かった。ニュクスの遣いだと、夜に祝福されているだと言われていようが、そんなこともただの嫌味に聞こえるほど現状が気に食わない。ただ誰にも――自分にも打破できない今にそれを迎えると、自分がどうしようもない、何もできない人間なのだと思わされているようだった。
だからこそこんな雨の日は膝を抱えて溜め息を吐く。何も聞かないように顔を埋めてただ朝になるのを待った。どこか遠くでは何かをしているような物音が聞こえる。恐らく終焉が何かをしているのだろう。終焉はノーチェが寝た後に風呂に入る傾向があるようで、今終焉はノーチェが寝ているものだと思って行動しているのかもしれない。
――それはそれでノーチェには好都合だった。気分が落ち込んでいるときより触れられて嫌になるものは他にはない。相手側はこちらの身を案じているのだろうが、満足に返事を返せない以上不愉快に思い、思われることが殆どだ。家主にさえも気が付かれず朝を迎えるまで一人で居たかった。
――不意に顔を埋めているノーチェの目に見慣れないものが映り込む。暗闇に沈む世界は彼の瞳には何の意味も成さず、仄かに暗いだけの部屋に素足がひとつ。それに違和感を覚えていると、ノーチェの頭を小突く硬い感触が伝わる。
こつん。
控えめのそれに徐に彼は顔を上げると、夜目が利きそうな鋭い瞳がじっとノーチェを見下ろしていた。その手にはマグカップが収まっていて、それを手渡されているのだと気が付くとノーチェは「いらない」と首を横に振るが――
「貴方の意志は聞いていない。受け取れ」
と有無も言わさないその言葉に気圧され、徐にマグカップを受け取った。
時折終焉はノーチェのことさえも押し黙らせるような威圧感を放つことがある。それがどんな意味を孕むのかは知る由もないが、思い通りに動かないことが終焉にとって不愉快でしかないのだろう。
温まっているマグカップの中を覗くと甘い香りが漂ってきた。「これは」と思わず唇を開くと、終焉は「ただのホットミルク」とだけ呟く。
「貴方が眠れないようなので」
その口振りからはまるで先程からノーチェが屋敷内を彷徨いているのが分かっていた、と言わんばかりのもので――彼は目を伏せながら「そう……」と呟きを洩らしていた。
「落ち着くぞ」と終焉の後押しを受けて彼はそれに息を吹き掛ける。出来立てのホットミルクはマグカップの上から触るだけでも温かく、舌を火傷するのではないかと思うほど。ただでは冷めることがないと思い、気が済むところで吹き掛けるのをやめてカップの端に口をつけて飲むと、甘く、仄かにコクのある後味が残る。
「…………何か入れてんの」
「少し蜂蜜を。美味いか?」
ノーチェが何かを口にすると決まって訊いてくるそれに彼は小さく頷いて、ちびちびとそれを飲み進めた。甘いミルクが食道を通って胃に収まる度に胸の奥がじんと温まるような違和感を覚える。それと雨音が相まって余計に寂しさのようなものを感じてしまって――無意識のうちに涙を溢したようで、頬に何かが伝ったような気がした。
――まずい。
そう思うものの、何故だか体は動かず、マグカップを両手で包んだまま茫然としてしまう。終焉はこれと言って特に動くこともなく、ただノーチェの様子を凝視したまま。確かに数秒が数時間にも感じられた重い空間だった。それでもホットミルクを飲む手を止められなかったのは無意識のうちにその温もりを気に入ってしまったからだろう。
数十分かけて漸く飲み終えた頃には何故か溢れた涙など引っ込んでいたが、多少のプライドも持ち合わせているノーチェだ。何故無意識に涙を流してしまったのか――それを終焉に見られたことが酷く気になった。
それは恐らく雨によって膨れ上がった孤独感が拭われたのが原因だろう。もらったホットミルクには気持ちを安定させる効果があり、眠気を誘うことも当然のように世間に知られている。お陰でノーチェの瞼は多少重くなり、屋根を打ち付ける耳障りな雨音など気にすることもなくなった。
ぼうっと意識を手放しかけるノーチェの手からカップを取ると、終焉はそのまま近くのテーブルへと置いて、徐にノーチェの腕を自分の首へ回す。男が何をするのか理解に時間がかかったのは、落ち着いた波のようにゆったりと押し寄せてくる眠気の所為だろう。――そのまま体を抱き寄せて軽く持ち上げると、柔らかな香りが漂った。
薄ら香るのは花と、桃の香り。仄かに熱を帯びる体と微かに湿ったその黒髪から、終焉が風呂上がりなのだと思わざるを得なかった。その結果――ノーチェを襲う睡魔は量を増して彼は抱き抱えられることに抵抗を示せずにいた。
必要な箇所以外は照明を消した薄暗い部屋、遠く聞こえる雨の音。ノーチェの意識を刺激しないよう細心の注意を払って階段を上る音は低く、くぐもったようなものだった。
「…………アンタ……くつ、履いてなかったっけ……」
軽く聞こえた扉を開く音に掻き消されてしまったかと思われるほど、小さな声がぽつり。抵抗の意志を見せるのをやめて体を預けながらノーチェは問い掛ける。その後に感じた柔らかな感触は――恐らく部屋の寝具だろう。布団に包まれるような柔らかな感覚は、いつまで経っても慣れることはなく――そして心地好かった。
ノーチェに布団をかぶせた後、終焉は小さく口を開く。
「雨の日は極力床を汚したくないのでな。――それに、ノーチェはいつまでも素足のままだろう」
足を踏んで怪我をさせる危険があるのでやめた。そう告げる終焉の表情は恐ろしいほどに無表情で、ノーチェへの気遣いなど感じられるようなものではなかった。
しかし、それが終焉という人物なのだろう。
ノーチェは微睡む視界に意識を手放しかけていて、「あ、そう」とだけしか返せなかった。
「…………おやすみノーチェ。明日も貴方にとっていいものであるといいな」
――「おやすみ」など、一度でも返したことがあっただろうか。
恐る恐る割れ物を扱うような手つきで頬を撫で、眠りを妨げないように小さく挨拶を溢した後、終焉が部屋を出ていったのは扉の音で理解していた。その後の記憶がないのは、彼が意識を失ったからだろう。耳障りだった筈の雨音は小さな子守唄にも思え、眠りに就くのは楽だった。
――彼は違和感のあった出来事さえ、終焉に告げられずに眠ってしまったのだ。