無意識吸血



 ある晴れた日の昼下がり。日の光が窓から仄暗い部屋を微かに照らしている。時折遮光カーテンを持ち上げるように小さな風が吹き込んでいる。その心地の良い陽気の中、クレーベルトは静かな部屋の中で椅子に座り、腕や足を組みながらうとうとと船を漕いでいる。春先の陽気にも似たその甘い気候に、流石のクレーベルトでさえも眠気を誘われてしまう程だ。それに加え、彼の眠りを邪魔するような存在は一切見当たらない。――いや、眠りを妨げられる者など居ないのだ。
 一度眠りに落ちれば極度の低血圧へと変貌するクレーベルトは無理矢理起こされた瞬間、途轍もない怒りを露わにし始める。本当の「目覚め」まで五分とも掛からないのだが、その数分でさえ長い時間のように思えてしまう程。それを知っている人間達からすれば、余程の事がない限り起こしに来ない筈なのだ。

 そう、それはやはり争いなど起こっているとは思えない程に平和的な日だった。仄かに香る若草や花の匂いがクレーベルトの眠りを更に深いものにしていく。元より気を抜いている彼は普段纏っているロングコートを椅子の背もたれに掛けていて、その下に着ているシャツの釦を数個外して首元を露わにしている。敵でもその場に居れば寝首を掻かれるのではないか、と思う程に無防備な姿だ。殺そうと思えば殺せるのではないか――そんな根拠のない自信が根付いてしまう。
 そんな物静かな部屋に、不意に音が掻き立てられた。部屋の扉が軋みながら開いた音だ。その後に覚束無い足取りで蹌踉めきながら部屋に足を踏み入れる一人の男の姿。体の至る所に傷が刻まれており、逆眼の瞳はまるで死んだ魚のようであった。がたいの良い体格とは裏腹に、その顔は妙に血の気が感じられない。ただの出血の為の貧血だと言えばそれまでだが、彼――幸福師範代の一人、ノーチェにはまた別の理由もあった。
 余程の事が起こらない限り使う事はないが、彼は血液を使った魔法を扱うのだ。方法としては自身が愛用している武器、ガンブレードで自分自身の体を傷付け、操るものだ。彼の出血は「負わされたもの」という訳ではなく、大抵が自分で刻み付けた傷だ。その上、好戦的であるノーチェは加減というものを考えてはくれない所為か、時折重度の貧血に苛まれる事がある。普段なら特定の人物から血を提供してもらっているようだが、余裕がなければない程、見境の無い無差別なものになるという――。
 ふとノーチェの虚ろな瞳が無防備な姿で船を漕ぐクレーベルトの存在を捉えてしまう。そして、歩を進めてしまう事から、今の彼には余裕がないのだ、と伝える手段も――況してや人物も居なかった。蹌踉めきながらノーチェがそれに近付いた瞬間、何かの領域を侵してしまった時のようにクレーベルトの手指が小さく動く――。

「――……うっ!? ぁ、っ……!」

 唐突に、弾かれたように声を上げたのは他でもない、無防備な姿で悠々と船を漕いでいた筈のクレーベルトだった。見ればコートも着ていない、シャツの釦を開けて野晒しにしていた首元には獲物を逃がさないかのように勢い良く飛び掛かったであろう、ノーチェの姿がある。彼の手は手はクレーベルトの肩を強く掴み、首元に食らい付いて喉を掻き鳴らしている。
 机の上に飛び乗ったノーチェの方が体勢から見ても有利で、クレーベルトは唐突に襲い来る痛みに声を上げた。彼はノーチェを引き剥がそうとするが、寝起きである所為か上手く引き剥がせない。――元々、物理的な力で言えばクレーベルトよりもノーチェが上回っている。体勢に加え、寝起きである事から思うように力が伝わらないのだ。
 更に、ノーチェは獣のように強くクレーベルトに歯を突き立て、全てを飲み干す勢いで血を飲み込んでいく。――それ相まってか、次第に力が失われていくのを目覚めたての頭で彼は理解していた。
 起きたての体から血の気が失せていくのを感じる。相手は満たされていくというのに、こちら側は失われていく一方で、酷く腹立たしい――。命を与える力のある血液が体から失われていく所為か、微かにクレーベルトの息が切れ始める。力を込めていた筈の手は離れ、起きたばかりの頭は再び朦朧とし始める。――このままでは死ぬ。そう、彼の中の何かが囁いた。
 寝起きのクレーベルトは酷く機嫌が悪い。完全に目が覚めるまでの時間を邪魔された暁には、身内であろうが何だろうが、殺そうとしてしまう程に、だ。

「……ぁ……ぐ、ぅ……」

 途切れる吐息混じりの声の後、彼は落ちかけていた目を見開き、深く息を吸い込む。

「こ……の……身の程知らずの、クソ餓鬼が……!」

 うぞうぞと脈打つ影が形を変え、鋭い爪のように変貌を遂げる。一つ合図を送れば自分に食らい付いている存在など、いとも簡単に串刺しにしてしまうだろう。それを得意とするクレーベルトは、ノーチェを殺すつもりで足を踏み鳴らそうと、力の入らない体で足を上げた。
 ――それと同時だっただろうか。物足りないと言わんばかりにノーチェは一度口をクレーベルトの首元から離すと、再度彼の首に強く噛み付いた。体に迸る鋭い痛みが二度もクレーベルトを襲う。その所為か、振り下ろしかけた足は床を叩き鳴らす事は無く――それどころか爪にも似た影は波が引くように元の静けさを取り戻した。そして、食われている立場であるクレーベルトは一瞬の痛みに顔を歪めた後、一度だけ瞬きをして、彼の名前を小さく呟いた。
 「……ノーチェ……?」と現状が理解し難いような呟き。そして、自分が何故か魔法を使おうとした感覚が残っている事に気が付いた。

 クレーベルトの寝起きはとても悪い。それは、身内を大切にする彼の目が覚めるまでの間を邪魔すれば、無差別に殺そうとする程。しかし、その間に彼に直接何かしらの衝撃を与えれば、目覚めるまでの時間が多少縮まる事がある。鋭い痛みを二度も味わった彼は完全に目が覚め、自分は今信頼を置いている仲間に吸血されているのだ、と瞬時に把握した。

 ふと、クレーベルトは冷めていく手で未だに血を飲み続けるノーチェの頭を撫でてみる。反応こそ返ってはこないが、確かに温もりを感じて小さく笑う。その顔は寝起きという事も重なって、いやに青白かった。

「……美味いのか……?」

 そう何気なく問い掛けてみれば、一つ間を置いて「ん」と返事が返ってくる。無意識だろうか――、続けてはっきりとはしない口調で小さく「美味い……」と言葉が紡がれる。それにクレーベルトは満足そうにそうか、と口を洩らした。
 ――すると、不意にクレーベルトの腕を掴むノーチェの手に力が入る。そして、何かを取り戻したかのように「あ?」と呟くと、途端に目を見開いてクレーベルトの体から自分の顔を離す。

「ボス……!? つーか、俺、机……!?」

 意識を取り戻したであろうノーチェは目の前のクレーベルトを一度見て、更には自分が居る場所を見る。自分より高い背丈の奴が自分より低い位置に居る――その不思議さに堪らず自分がどこに居るかを見て、机の上に跨がっているのだと知るや否や、咄嗟にその場から降り立った。先程よりも遥かに血の気が良く、足取りもしっかりとしている。表情こそ戸惑いを隠せてはいないが、危険は免れたようだった。
 椅子に深く腰掛け項垂れながらそれを見やるクレーベルトは小さくほくそ笑んでいて、深く残る傷に手を押し当てる。首元から溢れる黒い血は止まる事がない所為か、「時間が掛かりそうだ」と小さく呟いた。

「あの、よ、ボス……悪ぃ……俺、全く記憶無くて」

 見た目とは裏腹に酷く申し訳無さそうに謝罪を口にするノーチェ。彼はそれに「構わん」と顔を上げる。

「どうやら俺は、ノーチェを殺そうとしたらしい……」
「……は!?」
「……だから、おあいこ、という訳だな」

 くつくつと小さく笑うクレーベルトに対し、ノーチェは酷く驚いた様子だった。何せ、自分が慕うボスに殺されそうになったらしいのだから。――彼も彼で解っているのだ。クレーベルト・ヴァンダレン・クェルシエラ・エル・エンディアという存在が、何を切っ掛けに身内に手を出そうとしてしまう事があるのか。
 「……寝てた、のか……?」そう問い掛けるノーチェに対してクレーベルトは笑みを無くし、何事もなかったかのようにするりと腕を組んで「どうだったかな」と口を洩らす――。

「――次は無いと思えよ」
「……気を付ける」

 そんな言葉の後に再び目を閉じると、クレーベルトは静かに寝息を立て始めた。


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