主従逆転



 絶対に広まってはいないであろう話を耳にした。――いや、聞かされたと言うべきだろうか。幸福師範代の一人であるノーチェは嫌でも耳にするだろう。ただ、それが彼にとって朗報か、悲報か――当の本人以外は知る由もない。金色の髪を揺らし、紅い目を輝かせ、少女のように振る舞うある女がこう呟いた。

「――もう要らないから、クレーベルトは捨てちゃった」

 それは何の罪悪感も感じさせない満面の笑みで、「皆一緒に遊ぼう」と両手を広げる。それに、彼らは確かに驚きを隠せなかった。クレーベルト――それは目の前の女が創り上げた一人の男で、それを踏まえた上で彼は彼女を強く慕っていたのだ。時には犬のように、時には父親のように、「貴女の為なら命など惜しくない」なんて言っては身を挺して彼女を護る程、尽くしていた筈だ。それを、目の前の女は狂ったように笑って「捨てた」と言う。
 どういう経緯があったのかは知らない。知りたくもない。しかし、そのクレーベルトと過ごす時間が多いノーチェにとって、ある意味金槌で頭を殴られた衝撃を覚えた。どれ程自分を優先させてみようとも「命だけは主が最優先だ」と言って諦めさせようとくる。何度も頭を捻っては覆されないその気持ちに、半ば諦めさえも覚えてきた時にこれときたものだ。様々な感情が渦巻く中、咄嗟に取った行動は――踵を返し、今居る場所から出て行く事だった。

「ノーチェ!」

 そう誰かが呼び掛けてきたような気がした。だが、今の彼に余裕は無く、その呼び掛けに振り返る事も、返事もしないままその扉を閉める。冷めた空気を裂くような無機質な音が鳴って、扉はその空気を断絶するかのように廊下との空間を切り離した。
 ――何かあるのだと思っていたのだ。ここ数日ノーチェはクレーベルトと一切顔を合わせていない。仕事が忙しいものだと思って不定期に遊びに出掛けては、微かに求めたりして。労ってやろうかと思えば、仕組まれたかのように色々と忙しい日が続いた。ここまで異様に噛み合わない時間があると、流石に何かあるのではないかと思うのだが、違っていたら罪悪感が募る。――それでも、行動に起こせなかった自分を嫌に思う。自分が最も慕う人物に切り捨てられたら、一体どんな気持ちだろうか。命を懸けてでも護りたいと思っている存在に捨てられたら、どれ程傷付いてしまうのか――なんて。
 ノーチェは広い廊下を慣れたように走る。人目を避けるように離れにある部屋がこれ程遠く思える事はない。これ以上の速さを求めるなら人間以外のものになるしかない。窓の外の景色が自分が視認するよりも早く流れていく。それを実感する前に脇目も振らず、ただ都合良く孤立している部屋だけを目指した。
 それは酷く重苦しそうな黒光りする扉。高級感溢れるその外装に一瞬だけ戸惑いを覚えたが、考えるよりも早く動いた手は取っ手を引き下げ、扉を開いたのだ。――一切鍵の掛かっていない、その扉を。

「ベル――……!」

 勢い余って足を踏み入れたそこに、彼が見知った部屋は見えなかった。広がるのは光が一切届かない暗闇。通り過ぎた街の景色はいやに明るく、眩しい日差しが煌めく真昼の筈――。「何だ、これ……」驚きを隠せず徐に呟いた言葉は小さく、戸惑いをも隠せない。一人で使うには大きい寝具も、仕事を持ち込んで処理をする為に使う机も、幾つかの本が並べられた本棚も、赤黒い絨毯も、何も無い。ただ、先の見えない暗闇だけが続いているのだ。
 人の気配はない。だが、そこに彼は居る気がする。徐にノーチェは歩を進めると――開けた筈の扉がけたたましい音を立てて閉まった。あまりの突然の出来事に彼は肩を振るわせて咄嗟に振り返るが、やはりそこには何も無い。と、言うよりは、何も見えないと言った方が正しいだろうか――閉まったとしても、人の気配は相変わらずまるで感じられないのだ。
 そうして、暫くの静寂が続いて無意識に警戒していたノーチェの耳にポツリと小さく呟かれる言葉。――ああ、鍵を閉め忘れていた、と聞き慣れた筈の声色。しかし、小さくて、無感情なそれは初めて顔を合わせた時のような雰囲気を帯びていて、聞き取りにくい。

「……ベル、そこに居んのか……?」

 そう確認の為にノーチェは問い掛けを投げ掛ける。普通の夜であれば見えない事がない筈なのに、この暗闇だけは目を覆い隠すように視界を遮り続ける。ここは本当に何も無い空間なのか、若しくは視界だけを奪われたのか――そんな疑念さえ抱いてしまう程だ。
 暫くして、返答が無い事に納得のいかないノーチェは再び「ベル」と言った。「捨てられたって本当か……」と、核心を突くように呟きを洩らす。それはほんの少し覚悟を決めたような小さな呟きだった。それに一瞬だけ暗闇が揺らいだような感覚が脳裏に伝わる。微かな動揺の息がちりちりと肌を突き刺した。

「…………何から」

 冷め切った冷たい言葉に酷い虚しささえも覚えてしまう。ノーチェはそれに屈する事もなく「本人の口から」と言って、少しだけ後悔をする。あれだけ慕っていた存在から容赦なく「捨てた」という報告を聞かされたと言われたら、捨てられた側はどんな気持ちかなんて、考えてもいないのだから。
 だが、当の本人と思われる声はただ淡々と「そうか」とだけ言った。それ以上の言葉は紡がれない――それが、紛れもない事実なのだと、肯定しているようだった。そうして言葉に詰まっていると、降り注ぐように語り掛けてくる声が理由を話す。

 彼女は寂しさを紛らせたかった。孤独を味わいたくなかった。それを主張するような暗闇と、自身を少し、後は色々なものを寄せ集め、混ぜ、固めて――出来上がったのは幸福のボスとして君臨するクレーベルトだ。
 人の手があれば紛れよう。もっと沢山の仲間が居れば、もっと楽しくなるだろう。――そんな気持ちとは裏腹に増していく寂しさは次第に彼女を狂わせ、幼児退行は日々悪化していく。それに気が付いたのは創られた側の本人で、やはり自分は役に立たないのだと、――彼女の傍に居るだけで確かに狂わせてしまう造形玩具なのだと、手を握り締める。
 それでも尽くすのがクレーベルトだった。創られたのだから、主人を護り、命が尽きるまで従う従順な犬であろうと思い続けた。死ぬまで、死して尚、少しでも可能性があるならその感情が拭われてくれれば――。

「……その矢先に、彼女は気が付いただけだ。悪化するのは俺が原因だと。それ故に、捨てられたのだ」

 それはいやに寂しげで、全てを諦めたかのような、泣きそうな声色にも聞こえた。
 クレーベルトの呟かれた理由にノーチェは異様に納得がいかない。何せ、彼はクレーベルトと一緒に居て虚しさも寂しさも孤独も、感じた事など一切無いからだ。寧ろその反対――、込み上げてくる愛しさも喜びも、どう対処しようか考えていて、離れ難い情だけが湧いている。どうすれば自分だけを見るか、どうすれば自分を優先的に見てもらえるか、常日頃考えてしまうのだ。
 そう――、この話はノーチェにとって朗報でもあるのだ。何においても主人を最優先してきたクレーベルトが、主人に捨てられてしまった――彼が最も優先してきた人物が、自らの手で彼を手放したという話が事実だと分かった以上、ノーチェにはある考えが浮かんでしまう。それは、今の状況ではあまりにも不謹慎で、良いものとは言えない。それが分かっていてか、ノーチェは一度考えを振り払うように頭を横に振って、「今どこに居るんだ」と言う。

「声が聞こえんならここに居るんだろ?」

 ――と、まるで晴れない視界の中で何かを失ってしまうのではないか、という不安を掻き消すように語り掛けていく。それに声の主は一度だけ口篭もるように「どうして」と呟いた後、唸るような声で「何故」と問い掛ける。
 何故ここへ来た。それはノーチェを突き放すような言葉で、誰よりも彼の身を案じているノーチェは「え」と口を洩らす。

「何故ここへ来た。ここは俺の領域だ、用が無いなら消えろ」
「……ベル……何が言いたいんだよ……」

 無感情で殺伐とした言葉に彼は微かな憤りさえも覚える。人が心配しているのにその言いぐさは何だ、といやに離れようとするクレーベルトの声に怒鳴りたくなる。――だが、それよりも早く口を開いているらしいクレーベルトの声によって、それは喉の奥へと押し戻され続けていく。
 「意地汚いものだな、人間は。原因が分かればどれだけ尽くしていたとしてもあっさりと捨ててしまう。そうして、それを忘れていた俺も愚かだった。どこまでも見据えていたつもりでいて、足元を掬われたのだ」――なんて。
 どんな物音もこの先の見えない暗闇では吸い込まれているように、静寂が広がる闇の中ではクレーベルトの声がいやでもよく聞こえてしまう。それは淡々としているようで、微かに感情が見え隠れしているようだった。耳を澄ませて聴けば、虚無のような、諦めのようなものの中にやたらと寂しげな声色が混ざるのが分かる。
 やはり、彼はそれなりの悲しみを覚えているのだ。そして、ノーチェはそれを埋めてやるのが良いと――それを埋めてやるのが自分であれば良い、と思ってしまう。だからこそ、先程から胸の奥底にざわめく不安を口に出してやろうかと思い、口を開いた。

「……そう言えば、どこに居るのかと訊いたな。分からないか?――俺は貴方の目の前に居るぞ」

 唐突に応えるその声に彼は思わず口を閉じる。ノーチェの目の前と言えば相変わらず先の見えない暗闇だけだ。いくら辺りを見渡してもクレーベルトの長身など、これっぽっちも見えやしない。まるで溶けてしまったかのような世界が広がっているだけだ、部屋だと言われても納得がいかないだろう。
 ただ、それを聞いてノーチェは確信を得てしまったかのように一度だけ目を閉じた。そして、ゆっくりと目を開けて、「消える気か」と呟く。

「お前、そのまま俺を置いて消える気か……?」

 酷く悲しげな表情が闇の中で一際目立つように顔を覗かせた。彼は、クレーベルトの正体を知っている。本人から聞かされている。酷く曖昧で、朧気で、絶対に存在するもので織り成されたものであると。――眼前に広がる闇と、ある体を使って大部分が織り成された存在であると。
 だからこそ、彼は聞いた。目の前に居ると言いながら、目の前にあるのは暗闇そのものだ。もし言葉が本当であるのなら、この視界を奪う暗闇はクレーベルト本人だという事になってしまう。それが嫌で、ノーチェは呟きを洩らした後、再び口を開く。

「ふざけんなよ、なあ……お前、俺がどんだけ悩んでるのか知らねえだろ……ずっと考えてたんだぞ……? どうすれば主よりも俺を優先して考えてくれるか、何をしたら俺が最優先されるか……知らなかっただろ……?」

 その告白に返答はない。――それでもノーチェは言葉を紡ぐ。

「……俺をここまで夢中にさせておいて消えるなんて許さねえ。やっと……やっとだ。やっとお前が最優先させてきた主が、お前の事を自分から手放したんだ。こんな所で失ってたまるかよ」
「…………」
「なあ、教えてくれ。どうしたらベルは俺の前から消えないで済むんだ?」

 目の前の子供をあやすように、ノーチェは比較的優しく語り掛け続けた。彼を失うかも知れないという不安がノーチェの私利私欲をそこはかとなく掻き立てる。どうにかして自分を最優先させたい――その気持ちが、クレーベルトを失いたくないという想いと比例するように滞りなく吐き出されていく。
 自制が利かない、このままでは一方的な感情の押し付けになるのではないか――心のどこかでは小さく「誰か止めて欲しい」なんて呟いた自分が居たような気がしたが、それは一種の気の迷いだったのだろう。次にクレーベルトが言葉を紡ぐ時には、既にその感情も消え去ってしまった。

「…………捨てられた飼い犬は、野良としての生き方を知らない。自由に見えて、自由ではない。俺は……」

 『主』の居ない生き方が、分からない――それは、やはりノーチェにとってこの上ない好機に過ぎない。決して望んだ形とは言えないのだが、芽生えた欲を抑え付けるにはあまりにも条件が揃いすぎてしまっている。しかし、これはクレーベルトを失わない一つの手だと思えばそれまでだった。私利私欲が大半であるが、今はそれを気にしている余裕もないのだ。
 ノーチェは一瞬自分がどんな表情を浮かべているのか分からなくなった。不安から一変して、小さな期待に胸を躍らせているのがよく分かる。「生き方が分からない」そう呟いたであろうその声に、半ば無意識のままノーチェは「その『主』っていうのは他の奴でもなれるのか」と訊いた。

「……何を」
「なあ、俺がお前の『主』になれば、消えようなんて思わなくなるよな……?」

 上げていた顔を俯かせて、思わず手を握り締める。視界の端でほんの少し闇が揺らいだ気がした――これがクレーベルト本人だというのなら、彼の動揺を誘う度に闇が揺らぐ仕組みなのだろう。そして、晴れて部屋が見られれば、彼は人間としての姿に戻る筈なのだ。
 それを聞いて、不意に問い掛けられる。――貴方は俺の、次の『主』になるのか、と。「(おれ)を受け入れる覚悟はあるのか」と――。それにノーチェは口の端を上げ「俺を誰だと思ってんだ」と呟いた。
 その瞬間、彼は顔を俯かせていてもよく分かる変化が訪れた。先の見えない暗闇が一変、人工的に作り出した明かりのない部屋が窺える。クレーベルトの部屋の窓に取り付けられているのは、光を徹底的に遮る為の遮光カーテン。それが外の景色を断絶するかのように締め切られていて、本来赤黒く見える絨毯の色味など視認する事は出来ない。
 ――それでも良かった。視界一面に写る床に、見慣れたような足が二つ。「なら、――俺の全ては貴方のものに」そう降り注いだ声は先程とは打って変わって、周りに反響するようなものではなく、直接真上から落とされたようなものだ。流れ続ける水を直接掴もうとしても掴めず、器に注いで器越しに水を掴み上げたような、妙な感覚。傍に居るという事が実感出来るものであった。
 不意にノーチェの腰に重みが掛かる。逃がさないよう、手放さないように背に回された手――それに、彼の欲は更に増してしまった。

「……悪ぃ……不謹慎かも知んねぇけど……我慢出来ねえ」

 クレーベルトが目の前に居る、その感覚を味わうようにノーチェは顔を上げながら十五p差のある彼に手を伸ばす。片手は頬に、片腕は肩越しから背に――そして、彼を見上げる表情は何よりも嬉しそうな、恍惚とした表情を湛える。

「やっと、お前の『主』になれる……やっと……俺だけのものになったなぁ?」

 つい、と指先でクレーベルトの頬を撫でるノーチェは先程の不安げな表情など一切浮かべていない。寧ろこの時をずっと待っていたと言わんばかりに笑って、ほんの少しクレーベルトの顔を引き寄せる。髪の合間から窺えるクレーベルトの金色の瞳は仄かに煌めいていて、目元には微かに擦ったような痕がノーチェの目には見て取れる。そこを指の腹でなぞり「……泣いたのか?」と言う。

「そうだよなぁ、あれだけ慕ってたもんなあ……ああ、ベルは本当に優しい奴だなぁ…………」

 その優しさが全部俺に向けば良いのに。そう呟こうとして、くっと言葉を呑む。彼は今、無表情でノーチェを見下ろし続ける程感情が希薄で、酷く弱り切っているのだ。あまり追い打ちを掛けないよう心掛けるべきなのだろう。
 ――そうは思うのだが、やはり優越感にも似た感情は留まる事を知らないのだ。数日振りに顔を合わせたという事もあってか、妙な独占欲が湧いて出てきてノーチェの体を突き動かそうとする。頬を撫でた指を口元に移して、枯れた瞳を見つめていた。つい「してぇな……」と呟くと、それに応えるようにクレーベルトが静かに顔を寄せる。

「……そういうとこ……」

 なんて言葉を口の中に戻すように――いや、彼の中に移すように「好きだ」と呟いた。乾いた唇をほんの少し舐め、開いた口に蓋をするように口付けをする。滑らかな舌に自身のを絡めて、彼の唾液を自分のものに、自分の唾液を彼の中に移した。不意に自身の舌に付いたピアスを押し当てるように口蓋を舐めると、腰に回されたクレーベルトの腕が強張ったような気がした。
 ゆっくりと唇を離すと唾液が糸を引いて、彼の息がほんの少し上がる。――だが、相変わらずクレーベルトの表情は変化の一つも見せやしない。ああ、やっぱり相当来てるんだな、と微かに寂しさのようなものを覚えたノーチェだが、仕方ないと言わんばかりに微笑んで、頭を撫でようと手を伸ばす――。

「…………すまない……」
「――!」

 不意にクレーベルトは自分よりも背の低いノーチェの肩に顔を寄せる。それに頭を撫でようとノーチェは一度驚いて、「少し時間をくれ」と呟くクレーベルトの頭を撫でる。それに応えるように腰に回されていた手が背に回され、服が強く握り締められる。今はまだ頭が働かない、考えが纏まるまで時間が欲しい――そう言う彼の肩は微かに震えているような気がして、ノーチェは思わずその肩も抱いてやる。いくらでも待ってやると、気が済むまで傍に居てやると口を洩らす。

 初めて自我を持った時、クレーベルトが初めて見たのは自分を創り上げたたった一人の青年だ。金色の髪と紅い瞳、やけに露出の多い服装が酷く印象的で、花咲くような笑顔が何よりも眩しかった。――そう、生まれたての雛が初めて見たものを親だと認識するのと同じように、クレーベルトも認識をした。「この人が自分の主だ」と、「自分が護るべき対象なのだ」と――。
 その期間は長く、決して浅くもない時間だった。振り回されたりもしたが、酷く充実した時間だ。どこに居ようが呼ばれれば何よりも優先した。そうするべきだと思う程、彼は彼女に恩義さえ感じている。駒のように扱われようが、犬のように扱われようが、それこそ玩具同然に思われようが構わないとさえ思っている程だ。
 しかし、その時間もあっさりと捨てられてしまうと思わなかったのだ。――否、どうせなら死ねと命じられるか、殺して欲しいとさえ思ってしまう。置き去りにされた数日間を過ごす間に何かを考えたかさえも思い出せない。彼の中に広がったのは真っ暗な虚無感――クレーベルト自身を象徴するような終わりのない世界だった。抱いた感情も記憶も全て呑み込んでしまうような、先の見えない闇。何かが欲しいと思ったような気がしたが、その思いさえも掻き消されたように身動きが取れなかった。
 その中で見た真っ白な髪は、彼が過去に見たあの眩い笑顔にも似て、酷く眩しかった。クレーベルトの身を案じるような焦りを浮かべた表情と、夜を象徴としたような瞳がいやに安心感を掻き立て、部屋の隅で下ろしていた腰を上げる。彼にクレーベルトの姿は見えているようではなかった。辺りを見渡してはポツリと言葉を呟く様を見るのは、傷心しきったクレーベルトにとって毒以外の何ものでもない。それ程までに自分は自分を見失っていると気付かされそうで、嫌だった。
 ――それでも相変わらず自分を探し出そうとする彼の姿を見て、クレーベルトは目の前に佇んでしまった。見えないと気付いていながらも、見付け出してくれるのではないか、と――ノーチェなら自分の期待に応えてくれるのではないか、と。
 「お前の『主』になれば消えようなんて思わなくなるよな」そう呟かれた言葉に確かな動揺と、喜びが顔を覗かせる。彼はやはり自分の欲しいものを言い当ててしまうのが得意だ。もしかすると、自分が分かり易いのかも知れない。
 『主』を失ったクレーベルトが欲しがったのは、自分が生きる意味でもある『主人』だった。主導権を握るも良し、犬のように扱うも良し、駒として見ても良し。自分が誠心誠意命を懸けて尽くす相手だ。尽くす事が生き甲斐になっている彼にとって、彼の言葉は何よりも重みがある。思わず「本当に?」と訊いてしまいたくなる程だ。
 こうなる前から彼を愛してしまったクレーベルトはノーチェを視界に入れた瞬間、「彼なら自分の望む『主』になってくれるのではないか」なんて心から思ってしまった事を嫌に思う。何せ、全てをノーチェ任せにしてしまおうかと思ってしまったのだから。彼になら好きに扱われても受け入れられるとさえ思ってしまったから。
 愛してしまったから、自分を押し付けたくはなかったのだ。断るつもりで開いた唇から洩れ出したのは「俺を受け入れる覚悟はあるのか」という言葉だった。それを彼は余裕そうに受け入れてしまって――、愛されているという喜びと、自分から試したのに考えが纏められないという申し訳なさから「すまない」と溢した。自分を押し付けてしまってすまない、と。

「……『主』になるって、何か必要な事あるのか?……そういうのもベルが落ち着いてからで良いか……」

 肩を抱いて子供をあやすように背を撫でるノーチェの手が、彼はとても好きだ。頬を撫でる指も、身を案じてくれる低い声も、月の輝きが窺える瞳も、抱き締めてくれる両腕も、クレーベルトの好意を掻き立てるものでしかない。その上、泣いたという事実があるからだろうか――クレーベルトはいくら時間が過ぎようとも、ノーチェの元から離れる素振りを見せなかった。
 だが、呟かれる言葉はいくらでも自分に飽きたら処分してくれと言わんばかりのものだった。

「…………頼む……捨てるくらいなら、その手で殺してくれ」

 それは、今にでもすぐに泣いてしまうのではないか、という掠れた声色だったがノーチェは人工的に作り出された薄暗い部屋を見渡して、一人が使うには大きすぎる天蓋付きの寝具を見つめる。そして、徐にクレーベルトの体を抱き寄せながら寝具に近寄って、そのまま思い切り布団の上に倒れ込む。
 あまりの丁寧に整えられた布団に数日間ろくに眠れていなかった事が窺える。つい先程見た目元のものも、ろくに寝ていない所為からだろう。くすんだ色の隈のようなものを掻き消したくて、「寝ようぜ」とノーチェは呟く。

「俺が捨てるわけねぇだろ。やっとなれたんだ、絶対手放さないからな」

 なあ、ベル。そう言って愛しげに抱き寄せた頭を撫でてノーチェはクレーベルトに言い聞かせる。その言動が彼の安心感を呼び起こしたのだろう――「ん」と徐に呟きを洩らして、クレーベルトは眠るように静かに目を閉じた。


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