出立の船

 甲板を後にして一般客室へと続く廊下を歩いていると、背後からツンと外套の裾を引っ張られる感覚があった。
 立ち止まり背後を振り返ると、青灰色の短い髪をした少年が自分を見上げて立っていた。
 まだ年端を過ぎたばかり、半年前に十二歳を迎えた少年──剣術の教え子だ。
 少年は今日の空を映し出したかのような見事な青色の瞳だ。しかし、彼の瞳の色は"あの日"から暗く燻したままだ。

 全てを焼き尽くした忌まわしい炎に燻されたまま、彼の色はもう──。

「ルシィ?」
「グレン隊長」

 少年は軽く息を上げていた。自分を探していたのだ。

「こら。隊長は止めなさいと言っただろう。俺のことはユージンと呼びなさい」
「ユージン。あの子、あなたが傍にいないと嫌みたいだ。怒っている」
「…………」

 男──ユージン・ラガント・グレンディールは、ルシィ──ルシアス・フォン・ヴァルダートの青い瞳を見返した。
 少年はどこか拗ねたような表情だ。

 ユージンはルシアスを連れて足早に客室に戻った。

 まだ生後間もない、産まれて三月足らずの乳飲み子が、寝台の上で柔らかな毛布に包まれていた。
 さっきまでは安らかに眠ったり、目が覚めては、ルシアスを相手に機嫌良く声をあげて笑っていた。
 しかし赤子は、今は火がついたように激しく泣きじゃくっている。
 ルシアスは赤子のあやし方を良く心得ていた。聞けば、実家にいた頃は幼い弟の面倒を見ていたのだという。

 ユージンは、ルシアスに赤子の面倒を頼み、少しの間甲板に出て風に当たっていたのだ。
 赤子の小さな体を抱き上げた。髪の生え際の額や体に汗を掻いて熱かった。泣いて体温が上がったのだ。

「よーしよし。どうしたんだ?」

 涙に濡れるふくりとした頬を指で撫で、そっと体を揺らすと、ひくりと赤子の喉が小さく鳴った。泣き声が緩やかに小さくなる。
 やがて、漆黒の粒らな瞳が瞼の下から覗いた。

「ほら。あなたがいなくて機嫌が悪かったんだよ」

 ルシアスは若干悔しそうだ。しかし赤子はルシアスによく懐いていた。
 このふた月近く共に暮らして来たのだ。
 ルシアスは赤子の頬を指で軽く突いた。すると赤子の小さな指が、ルシアスの指を握り、小さく声を発てて笑った。
 ここ最近、あまり表情を見せなくなっていたルシアスの唇が仄かに綻ぶ。
 この子と触れ合っている時だけは、ルシアスも年相応の少年の顔を乗せることが多かった。
 元より大人びた子供ではあったものの、少年が心に追った傷は、自分のものより遥かに深いだろう。

「聞いてもいい?」

 赤子に瞳を落としたまま、ルシアスがぽつりと言った。

「ん?」
「この子の名前は、もう決まった?」
「…………」

 ユージンは、内心の動揺を隠すかのように、緩く波打つ、額にかかる短い前髪をかき上げた。

 もう何度目になるか分からない同じ質問を、レイズヴァーグで身を潜めていた頃からずっと繰り返して訊かれていた。

 この子の名前は、ない。


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