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 自分には夢がある。
 妻と二人、陽の光に満ちた家に寝起きし、小さくも人懐こい犬を飼って、談笑を交わしながら穏やかに暮らす。そんなささやかで、同時に途方もない夢が。
 それが結婚して以来数年間の、このセルジュ・アントネスクの宿望だった。


 日本産の菓子を手土産に、上司の隠れ家を訪(おとな)ったのは、実にひと月ぶりのことだった。
 我が上司――影を統べ括(くく)るシューニャは、"罪"の詮索の目を逃れながら、ここで隠遁生活を送っている。詳しい場所は残念ながら明かせないが、数人の予見士と、自分の部下である執行部の部員たち、そして俺の愛する妻がひそやかに暮らしている。
 入り口の扉を開けると、すぐにぱたぱたと足音を立てて小柄な女性が走り寄ってきた。踝(くるぶし)まである中華風のロングドレスに、肩下までの艶やかな黒髪、憂いを含んだヘーゼルアイ、抜けるように白い肌。髪は真っ赤な髪飾りでハーフアップにされている。愛おしい妻の鈴である。

「セルジュ様、お待ちしておりました」

 妻は口元を控えめに綻ばせ、名のとおり鈴を転がすような声音で、そう出迎えてくれた。

「久しぶりだね、鈴。元気だったかい」
「はい、おかげさまで。あの、お荷物を――」

 俺の手荷物を預かろうと鈴が手を伸ばす。その意図には答えないで、たおやかな手をぐっと引き、彼女の華奢な体躯を出し抜けに抱きすくめた。鈴がはっと息を飲むのが伝わる。

「会いたかった」
「……わ、わたくしも、同じです……」

 言葉尻が少しだけ震えている。腕をいったん解き、軽くキスをすると、鈴の体はぴくりと跳ねた。結婚して数年経つのに、まだこういったことに慣れないらしい。そんな奥ゆかしいところもすべて、自分は好意を抱いていた。
 顔を離すと、妻の頬は桃色に染まっていた。

「あ、あの――」
「そんなところで何をしとるんじゃ。いちゃつくならわしの見えんところでせい」

 声変わりのしていない、しかし口調だけは老人めいた少年の声が割って入る。
 鈴の肩越しに廊下の向こうを見やると、我がボスたるシューニャがドアからひょっこりと顔を覗かせていた。ほとんど人形めいた、整いすぎた容貌は目線のかなり下にある。白髪に薄い灰色の瞳、瞬きするたびに揺れる長い睫毛、床に届きそうな法衣の上にサイズが合わないだぼだぼの白衣を羽織っている。見かけでは十歳かそこらにしか見えないが、彼はとうに五十を超えている、そうだ。
 シューニャは自分の上司でもあり、また口うるさい舅(しゅうと)のような存在でもあった。
 美少年の皮を被った壮年の医者がふんと鼻を鳴らす。

「誰かと思えばお主か。まったく、お主のようなむさ苦しい男の顔など見とうないわい」
「そう言うな。あんたの好きな菓子も買ってきたんだから」
「そうならそうと早う言わんか。茶会にするかのう」

 俺が手に持った荷物を掲げながら言うと、シューニャはほとんど表情を動かさずにそう言い返す。鈴はほんのりとほほえんで、それでは珈琲を淹れますね、と俺たち二人の顔を交互に見た。

「嬉しいな。君の淹れた珈琲は世界で一番美味いから」
「わしの前でのろけるなと言うに」

 シューニャがぶつくさと文句を吐く。

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