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 自分はもう、ルネとの密かな秘め事から、身を引くべきなのだと決意した。このまま練習を続けていれば、取り返しのつかない行為に及んでしまいそうな危惧があった。決心するのが遅すぎたくらいだ。
 今夜も、ルネは花にも似た笑みを浮かべ、無言で私のことを見ている。私が何か口にする前に、相対したルネはつかつかと距離をつめ、ぐいと耳元に顔を寄せてきた。何度も嗅いだ、ルネの匂いがする。私の自我は簡単に吹っ飛びそうになり、衝動的に抱擁の形を取ろうとする両腕をたしなめる。
 背伸びをしたルネの唇が、頬に軽く触れた。
 かっと顔が熱を持つ。思わず、彼女の唇の感触が残るそこを、掌で押さえた。

「な、いきなり、何を――」
「ほら、錦も」

 至近距離から私を見上げるルネは、平然と自身の頬をとんとんと指で叩く。
 自分が彼女に、口づけをする。そう考えただけで、体全体が発熱するようだった。そんなことをしたら、おそらく自分を踏みとどめている箍が外れてしまうと、容易に想像できた。
 もう限界だと思った。
 すぐそこにいる女性を、出し抜けにぐいと抱き寄せる。ルネが息を飲む。きつく抱き締めすぎて、彼女の呼吸が一瞬止まる。

「もう我慢できないんだ」

 耳元で囁く声は上ずり、震えていた。
 ルネが恐れを抱いたように、か細く聞き直してくる。

「錦……?」

 荒くなる呼吸をなだめながら、彼女に下半身をわざと押しつける。ルネの身がびくりと震えた。これで彼女にも、私が今どんな状態か分かっただろう。

「分かるだろう? 限界なんだ。君が好きなんだ……」

 いつしか、ほろりと本音がこぼれ落ちていた。
 ルネの肩を掴み、体を離す。ルネの眉尻は下がり、目元に力が入っていた。口元はわずかに震えている。その表情に浮かぶのは恐怖だろうか。畏怖だろうか。嫌悪だろうか。侮蔑だろうか。
 何にせよ、これで終わりだった。
 これ以上、この関係を続けることはできない。私の愚かさのせいで。

「困ったな」

 ふと、ルネが苦笑した。言葉どおり、心から困ったように。
 この期に及んで、自分の心がしゅんと縮むのを感じた。この気持ちは、彼女を困らせてしまう。当たり前だ。ここは戦場で、ルネは部隊長。この気持ちがこの状況に相応しくないのは明白だ。分かっているのに、少なからずショックを受けている自分が腹立たしく、同時に滑稽だった。 
 目が潤んでくるのを隠したくて、ルネに背を向ける。

「もう辞めよう。もう、ただの隊員と隊長に戻ろう――」

 どう聞いても涙声になっていた。ルネが気づかないはずがないくらいに。間違いなく、その瞬間が人生で一番惨めだった。

「待ってくれ」

 一歩踏み出そうとする私を、しかしルネは引き留めた。右手が、柔らかいルネの手に引かれる。

「違うんだ。私も君と同じ気持ちなんだ」 
「……え」 
「たぶん……私の方が先に君を好きになっていた。しかし、これは訓練だからと自分に言い聞かせていたんだ。最後まで隠そうと思っていたんだよ。でも……君も同じだったなんてな。だから困ったと言ったんだよ」

 信じられない気持ちで、振り返る。
 ルネはほのかに頬を染め、はにかみ笑いをこちらに向けていた。その時、私は彼女が自分の上官だということを忘れた。自分たちが戦員だということを忘れた。立場も経歴も忘れて、そこにいる人を、ただ愛おしいと思った。
 
「ルネ!」 

 胸の底から溢れでる喜びに突き動かされるまま、私はルネを抱き締める。頬を寄せても嫌がられなかった。 
 嫌じゃないのか、と訊くと、腕の中でこくりとルネが頷く。 

「ああ……他の男なら恐怖心が湧き出てくるのに、なぜかな――錦なら安心するんだ」

 ルネが脱力して、私の胸に体を預けてきた。鼻腔をルネの髪の香りが満たす。夢を見ているようだった。意中の女性が、今まさに自分の腕の中にいる。
 そう思うと、もう止められなかった。己の中の野性性が、むくむくと鎌首をもたげる。どうにか自分を留めていた理性が、ルネの髪に顔を埋(うず)めた瞬間吹っ飛んだ。
 この女(ひと)を、今すぐ自分のものにしてしまいたい。 
 ほとんど無我夢中の状態で、ルネをマットの上へ組み敷いていた。彼女の美しい髪が床に広がる。驚いた表情で、ルネが私を見上げてくる。脳みそが茹だったように、何も考えられない。ただ、そのルネの顔が美しいとだけ、その思いだけが思考回路を埋め尽くす。
 私はこの人が好きだ。

「錦……?」

 震える声で、はっと我に返る。自分が何をしようとしているかを自覚する。馬鹿だ、私は。これでは、彼女を傷つけた輩と同じではないか。
 歯を食いしばる。今すぐにでもルネに己を刻みたい衝動を、必死で押し込める。興奮状態にある体、その全身がわなないた。駄目だ、と自分に言い聞かせる。今は駄目だ、駄目だ、駄目だ――。 
 ルネがそろそろと手を伸ばして、私の頬に触れた。
 
「錦。大丈夫だ。君相手なら、怖くない」 

 初めて聞いたルネの声は少年のようだと思ったのに、今は可愛らしい女性のものだとしか思われなかった。彼女の顔は上気して、眸はわずかに潤んでいる。そんな表情で微笑まれて、己の欲動を抑えるなどできるはずがなかった。
 私は全ての理性を手放した。
 そして、ルネもそれに応えた。


 私とルネは結ばれた。
 そして、その忘我の日々は、長くは続かなかった。

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