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 ルネの提案により開始の運びとなった、彼女の男性への恐怖を和らげるための特訓。それは、夜の静寂の中、互いの呼吸の音だけを聞きながら始まった。
 週に2、3回程度、私たちはこっそり隊長室で落ち合うこととした。秘密の共有は結果として、どことなく甘美な罪悪感を、双方の胸中にもたらした。

「それじゃあ、始めるか」

 初回、ぎこちない動作で私が隊長室に入るなり、書き物をしていたルネはそう言う。おもむろに立ち上がった彼女と、部屋の真ん中で向かい合う。
 私は緊張していた。たとえ練習という名目でも、誰かと男と女の関係になったことなど無かったし、ルネから何をするのかも詳しく聞いていなかったからだ。
 ルネがよし、と自らを鼓舞するように呟く。 

「まずはハグからだな」

 そして、さあ来いという風に、両手を広げて待ち構える。
 思わず、後退りしそうになった。じわっと変な汗をかく。

「いきなりか。わ、私から行くのか……?」

 弱々しく問うと、ルネは深々と首肯する。
 どんな厳しい戦況を前にしても戦いた試しなどないのに、その時の私の両手は情けなく震えていた。ルネは言い換えれば未知だった。その下に何が隠されているのかも分からない、一面真っ白の雪原だった。
 私はその歳まで、他人にほとんど触れたことがなかった。養父に暴力を受けたのを除けば、皆無と言ってもいいくらいに。自分が女性と抱きあうなんて、人生にそんな甘いイベントが起ころうとは露ほども考えていなかった。血と泥にまみれて、そうしていつか野垂れ死ぬのだと思い込んでいた。
 ルネの視線はぶれずに私に注がれている。おずおずと彼女に近寄り、黎明期のロボットさながらの覚束なさで手を伸ばす。背中に腕を回すと、ルネの体はぴくんと小さく跳ねた。一瞬呼吸が荒くなるが、ルネはそれを無理に抑え込む。

「大丈夫か?」
「いい。続けてくれ」

 その声音には余裕はなかったけれど、ルネはそれに抗うように手を伸ばし、私の胸に体を預けてきた。髪からほんのりと甘やかな香りがする。温かい。柔らかい。どこか懐かしいその匂いに、視界が一瞬くらりと揺れる。足を踏ん張って、どうにか姿勢を維持する。
 彼女のしなやかながら細い体躯は、私の腕の中にすっぽりと収まった。幅も狭く、そして何より薄い肩だった。力を込めたらすぐにでも折れてしまいそうな。
 そうしていると、理由は分からないが気持ちが満たされた。心臓が肋骨の内側で速い拍動を続けているけれど、嫌な緊張ではなかった。まさにここが、自分の居場所だったのだと分かった。
 抱擁する腕にぐっと力を入れると、私の胴に回されたルネの手がばしばしと体を叩く。

「おい錦、力入れすぎだ。痛いぞ」
「あっ、ああ、すまない……」

 どうやら加減を誤ったらしい。慌てて両腕を解くと、抱き締められていたせいか頬をわずかに上気させたルネが、私を見上げて苦笑いしていた。

「君、童貞か」 
「え」

 さらりと放たれたルネの言葉にたじろぐ。
  
「いや、まあ、その、確かにど……女性と睦まじい仲になったことはないが……」

 しどろもどろになりながら、なんとかそれだけ返す。
 これまでの人生で、私は女性に縁がなかっただけでなく、特定の誰かと親しくなること自体を端から諦めていた。幼い頃、施設から養父に引き取られてからというもの、彼について国内を転々としていたためだ。学校のクラスメイトの顔を覚える頃には、もう次の場所へ移動する日が決まっていた。 
 影のエージェントであった養父の死と、"パシフィスの火"の勃発はほぼ同時期で、私は後ろ楯を喪った代わりに、どこへでも赴くことができた。何も守るものを持たない身というのは楽だった。それに、各国の特殊部隊員とともに作戦に身を投じていれば、余計なこと――主に養父の最期――について考えずに済んだ。 仲間のうちにはそんな状況下で女性の肌に飢え、現地の風俗などを利用していた者も多かったが、私はそういう方面には興味が薄かった。自分にとって、戦いだけが生活の全てだった。
 そのような理由から、私はその時まで、人と肌を触れ合わせたことがなかったのだ。
 
「信じられんなあ。君、背も高いし顔もいいんだからモテるだろう?」
「? それは、何の皮肉だ?」
「皮肉ってなあ、君……」

 ルネが心底面白そうに笑う。その表情を直視できなくて、火照った顔を反射的に逸らした。ルネの訓練のはずなのに、これでは立場が逆転しているではないか。

「錦はかわいいな」

 ぼそっとルネが漏らす。いつもより少し低いその声に、なぜだか背筋がぞくりと震えた。

「私を見ろ、錦」
 彼女の両手が私の頬を捕らえ、強制的に前を向かせる。ルネは優しくほほえんでいた。なのに、足の着かない海で鮫に出会ってしまったように、体が固まって指一本たりとも動かせない。
 私の目にはルネの唇が拡大されたかに見える。戦地でも艶を失わないそこに、全ての意識が集中する。感じてはいけない唇のなまめかしさを、熱に浮かされた思考がスキャンする。自分の獰猛な部分が目覚めはじめるのを自覚する。
 不意にルネが全身を強く押し付けてきて、私はバランスを崩した。彼女の体と自分の体が絡んだまま、床の上のマットに仰向けに倒れる。痛くはなかったが、急に体勢が変わって頭がぐらぐらした。
 ルネは私の上に馬乗りになっていた。
 いつぞやの夜のような殺気は、今の彼女にはない。代わりに、少々意地悪な、小悪魔的な笑みが口の端に張りついている。
 何がどうなっているか混乱し、半身を起こした私の唇を、手袋をしたままのルネの指先がゆっくりとなぞった。ぞくぞくして言葉がでない。ルネの長く美しい銀髪の半分ほどが私の体の上に垂れ、自分の視界の大部分は、湾曲した幕のようになっているそれに閉ざされていた。
 ばくばくという心臓の音がうるさい。
 するり、とルネの指がコートの袷(あわせ)の中に入ってきて動揺した。体がびくりと過剰に跳ねる。 

「ルネ、待ってくれ……」

 久しぶりに発声してみると、自分のものとは思えないくらい声がか細く、上ずっていた。
 どういうことなのだ、これは。男は苦手なのではなかったか。もしかして、自分が優位ならば問題ないとでもいうのか?
 ルネが目元を緩ませる。

「大人しくしていれば悪いようにはしないさ」
「駄目だ、こんなところで――」

 私に見えている景色は、いつからかぼやけていた。こんな顔を見られたくないのに、彼女の華奢な体を振り払うことすらできない。
 彼女の指の腹がつつ、と脇腹を撫でる。感覚が鋭敏になりすぎてくすぐったい。

「ひ……っ」
「初めてなんだろう? 君は何もしなくていい。そのまま、寝ていればいい」
「ル、ネ」
「あんまりかわいい声を出すなよ。煽ってるのか?」
「ちが……」

 熱病に侵されたように、頭がぼーっと熱い。
 ルネが耳元まで顔を近づけて、低く囁いた。

「私が君の純潔を奪ってやろう」

 体の先端から先端まで電流が走った。ルネの声はまるで麻酔だった。脳が麻痺して、まともに考えられない。ルネの指が私の服を暴き、肌に指が触れるのまで想像が展開する。
 もうどうにでもなれと、私は目を閉じた。
 しかし、覚悟した嵐は、いつまでもやってこなかった。
 薄目を開くと、口元に手をやり、肩を小刻みに震わせてルネが忍び笑いを漏らしている。

「……なんてな。少しいじめすぎたか」

 悪びれずにのたまう姿は、まるで悪ガキだった。
 してやられた。私は唖然として、阿呆のように彼女を見返すしかない。

「君はなんというか、いじめたくなるな。今日はもうやめておいた方がよさそうだ。次からもかわいがってやるから、逃げるなよ?」

 楽しげなルネに、鼻をつんとつつかれる。私は頭を抱えたかった。穴があったら埋めてほしかった。むしろ、穴がなくても海に沈めてほしかった。
 その時の自分の脳裏に浮かんでいたもの。それは、蜘蛛が獲物の虫を糸でぐるぐる巻きにするところ。
 絡め取られた。そう思った。
 その晩は体の熱をもて余して、夜通し悶々と思い悩むことになったが、その顛末はまあ、どうでもいいだろう。

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