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どしゃ降りの夜だった。
自動車の強烈な明るさのヘッドライトが闇を裂き、道の真ん中で立ちすくむ私の目を容赦なく眩(くら)ます。鋼鉄製の悪魔がものすごい勢いで私に迫ってくる。獣のうなり声にも似たエンジン音。タイヤが轍(わだち)に溜まった雨水をまき散らす。
間違いなく死ぬ、と私は思った。濡れて冷えきった体は動かない。こんな場面を網膜に焼きつけて天に召されるなんてあんまりだ。
死ぬときってやっぱり痛いのかな、と働かない頭に浮かんだ疑問は、体ごと横ざまに吹っ飛ばされる。
撥(は)ねられた。
と思ったが、違った。まだ生きている。なぜ。車が猛スピードで走り抜ける音を聴く。無意識に閉じていた瞼を怖々開けると、目の前に男の人の顔があった。
「大丈夫?」
その男の人が訊いた。声音に緊張がみなぎっていた。
どうやら、通りがかった男の人が、自分の命も顧みず私を助けてくれたらしい。
バケツをひっくり返したような雨のなか、私も男の人もただただびしょ濡れだった。濡れそぼった髪の向こうから、男の人の澄んだ目が私を見ていた。
私に怪我はなかった。
男の人の眸(ひとみ)が潤んで、私は抱き締められた。
優しげな抱擁だった。
「良かった……目の前で死んでいくのをただ見ているだけなんて、もう嫌だから……」
そんなふうに男の人に抱き締められたのは初めてで、私の胸は高鳴った。
ザーッという雨音が、私と男の人を包む。
男の人からは、涙と、他の女の匂いがした。
男の人が部屋の電気を点ける。パチンと音がして、ソファやカーペットやカーテンやテレビが一斉に姿を現した。小綺麗な部屋だ。そして、そこかしこに知らない女の残り香が漂っている。
「今は僕一人なんだ」
男の人が言った。
私の体も男の人の体もずぶ濡れだったので、水がとめどなく滴り落ちて床がびちょびちょになった。
男の人がもふもふとした純白のタオルを持ってきて、私をわしゃわしゃと拭く。男の人は慈しみの満ちた目で私を見ている。
男の人も着替えたりすればいいのに、私にばかり構う。今度はホットミルクを作って、持ってきてくれた。
「口に合うか分からないけれど」
一口飲む。胃の底の方から温かみが全身へ広がる。と同時に、ほわほわした毛布で包まれるような甘い気分になる。これは、安堵感というやつだ。
私は急に眠たくなってきた。
男の人が目尻を下げてふふふと笑う。私は、この男の人は春生まれだろうなと思った。でなかったら、こんな心地よい春風のように笑えるはずがない。
「眠い?」
男の人の手が私の頭をそっと撫でる。
睡魔に手ひどく襲われて、問いに答える余裕もない。
男の人が私を抱えあげた。ふっかりとした場所に寝かせられる。
その夜は、男の人と一緒のベッドで眠った。
深夜、物音で目が覚める。
景色が煙るほどの勢いで降っていた雨は止んでいた。それどころか、月の影すらある。窓の外は冴えた月光が粛々と注ぐばかりで、静寂に覆われている。
物音は、男の人が呻く声だった。悪い夢でも見ているのだろうか。うなされている。
「ルーエ……」
悲しい顔と、悲しい声。
こちらまで悲しみが伝わってくるような。
男の人の喉の奥から絞り出されたそれは、女の名前なのだろう。そしてきっと、彼女はもうこの世にはいない。
男の人の眦(まなじり)から、涙がひとすじ伝った。
はっと男の人が目覚める。私がその涙を舌で舐めあげたからだ。塩気の味が舌先に広がる。男の人が驚きと困惑の混じった表情で私を見た。
先ほどとは反対側の目の涙も、私は舐めとる。
「ちょ、っと、くすぐったいよ」
男の人が眉尻を下げて困ったように笑う。
笑ってくれた。これでいい。
悲しみはすぐには癒えないけれど、今だけは、私がここにいる。
誰かと抱き合って眠ることのあたたかさを、私はその日知った。
もう一度目覚めたとき、隣に男の人はいなかった。鳥がチチチと鳴いている。朝になっていた。
私は慌ててベッドから飛び出す。
男の人はキッチンで、朝食の準備をしていた。紅茶の芳香と、パンの焼ける香ばしい匂い、ベーコンと卵が焦げる食欲を誘う香り。うっとりするような朝の光景。
おはよう、と男の人が私へにっこりと笑いかける。
「ところで」
男の人が腰を落とし、私と目線を合わせてきた。なんて綺麗な瞳なんだろう。青空よりも海よりも深く透きとおった青だ。見惚れてしまう。
男の人がまた私の頭を撫でた。
「帰る場所はあるの?」
じっと私を見て問う。
そんなところは無かった。母は、とうの昔に交通事故で死んでいた。父の顔は知らなかった。
「無いのなら、僕と一緒に、ここで暮らそう」
真剣な表情と声で、男の人が告げる。
私は、男の人を見上げて、ニャアと返事をした。
男の人は、私を軽々と抱き上げて、柔らかく微笑んだ。
――Neue Begegnung
(新しい出会い)
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