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 元の家を訪ねると、訝しげな顔をしたおばさんが玄関に姿を見せました。
 少年は自分の靴の足先に目を落としています。後ろ手には銀いろのナイフを隠し持って。心臓がどくどくと脈打っています。背中に、あの青年の視線を感じます。

「なんだい、まだ何か用があるのかい」
「忘れ、ものを……」
「忘れ物? この家にお前のものなんかないよ! お前にはもうこの家に入る権利はないんだ、ほら、突っ立ってないでさっさとお行き!」

 少年はゆるゆると面を上げました。おばさんが憤怒の形相で、薄汚れた野良猫でも追っ払っているように、手を勢いよく振るっていました。それは同じ人間に対するものではあり得ませんでした。
 これまでは感じることのなかった、熱く煮え返る激情が、少年の喉の奥からこみあがってきました。
 そうだ。僕は。
 この家の人たちが憎い。
 体の熱さとは逆に、頭はひどく冷めきって凪いでいました。おばさんが閉めようとするドアの隙間からするりと室内に入り、体を反転させて相対します。おばさんは怒りで顔を歪めましたが、少年が構えているものを見た途端、表情が凍りつきました。少年はナイフをしっかりと握って、おばさんに息もつかせず肉薄し、長きにわたって自分を飼い殺してきた人間の心臓めがけ、何の逡巡もなく鋭利なそれを突き立てました。
 深く、どこまでも深く。
 おばさんの顔が驚愕に染まります。顎ががくがくと動いています。少年がナイフを引き抜くと、赤く滑る液体がどばっと溢れでました。少年は熱い返り血にぐっしょり濡れましたが、全然気になりませんでした。
 倒れ伏したおばさんの体の周りを、どす黒い液体が彩っていきます。呼吸を止めた肉の塊を玄関に残し、少年は二階への階段を昇ります。
 おじさんは書斎の椅子に腰かけていました。階下の騒動に気づく様子もなく、机の前で背中を丸め、パソコンに何事か打ち込んでいます。少年は扉を慎重に開け、背後からそうっと音もなく近づいて、左側の首の頸動脈めがけ、ナイフを降り下ろしました。ひゅっと風を切る音がしました。おじさんの蔵書の、解剖学の分厚く小難しい本を読んでおいて良かったと思いました。
 おばさんの時よりもひどい血しぶきが上がりました。おじさんは身悶えして床に倒れこみ、血走った目で、そこにいる少年を見上げました。少年は、妙に白けた気持ちで、自分に手酷い暴力を振るった人の、最期の悪あがきのように痙攣する体を眺めていました。
 息子はいちばん簡単でした。彼はもう自室のベッドですうすう寝ついていましたので、彼の体にただ刃を突き刺すだけで終わりでした。少年の心臓はいつからか、完全に静けさを取り戻していました。三人を手にかけ終えても、何の感情も湧いてはきませんでした。短い人生を終えた息子の全身は、うっすらとした月明かりの中でもはっきり分かるほど、赤黒く濡れていました。
 階下へ降りると、照明を落としたリビングに、凶行を命じた本人がうっそりと佇んでいました。満足そうな表情を浮かべつつ、少年の元へ歩み寄ります。リビングには淡く月光が射していて、仄かな光の筋の向こうから青年が進み出でる様は、どこか幻想的な光景に見えました。
 青年が手を伸ばし、少年の顎をくいと持ち上げます。

「もう終わったかな?」
「……はい」
「そう。いい眼になったね。合格だ」
「……」
「シャワーを浴びておいで。そうしたら出発しよう」

 少年は自分の格好を見やりました。体の前面が、三人の血にべったりまみれていました。少年のそんな姿を見ても、青年は眉ひとつ動かしませんでした。
 少年の着替えが済むと、青年はいつの間にか見つけていた鍵で、玄関をきっちり施錠しました。ねえ知っているかい、君はもう死んだことになっているんだよ、と青年は手を動かしながら呟きました。驚いたことに、おじさんは少年を社会的に抹殺してしまっていたのです。でもこれで、事件が明るみに出ても少年が疑われることはないでしょう。二人は連れ立って、みっつの骸が沈黙する家をあとにしました。
 青年に手を引かれながら、少年は彼と言葉を交わしました。

「そういえば、君の名前を聞いていなかったね」
「……。ルチアーノ……」
「そう。……ルチアーノ。今日までの君は今夜死んだ。君の名前はこれから、ルカだ」
「ルカ……」
「いいかい、ルカ。君の心も体も、今夜からはすべてぼくのものだ。これからはぼくの言うことだけを聞くんだよ。誓えるね」
「……はい。誓います」
「それじゃ、行こう。ぼくのことは、ディヴィーネって呼んでね」
「はい」

 少年は、しっかりと頷きました。
 青年の横を歩きながら、聡い少年には分かっていました。この先には地獄しかないことを。もはや後戻りはできないことを。それでもなお、青年の手を取ったのです。
 少年には、青年と交わした呪いめいた誓いの他は、何もありませんでした。青年との誓いだけを胸に抱き、他のすべてのものに、目を瞑ると決めたのです。
 こうしてルチアーノは死に、ルカは生まれました。
 まだ焦げ臭い空気を縫って、どこからか月光ソナタが聞こえてきていました。

――月光と瞑目

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