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※猟奇的な表現があります。





 俺がしてきたことはすべて間違っていて、これはきっと、その過ちへの罰なんだろう。


 贔屓のサッカーチームが優勝を決めたその夜、俺とハンスは、家で祝杯をあげていた。
 ハンスとの二人暮らしをして久しいけれども、二人だけで飲むのは珍しい。というのも、以前二人で飲んだ翌朝、なぜか俺がバスタブの中で半裸で目を覚まし、ハンスは寝袋にくるまって廊下で寝ていたからで、以降その出来事が恐ろしくてなんとなく控えていたのだ。お互いの頭からその夜の記憶はすっかり抜け落ちており、あの日何があったのか結局分からず仕舞いだ。
 けれどチームの優勝ともなれば、まっとうなサポーターなら飲まずにはいられない。いつかの夜のことも忘れ、しこたまビールを買い込んで、俺もハンスもおおいに酔った。前後の分別もつかないくらいに。

 いつのまにか落ちていた眠りから目覚めると、俺の体は椅子にがっちりと縛りつけられていた。
 反射的に立ち上がろうとすると、きつい戒めに座面へと押し戻される。強盗でも入ってきたか、と酔いが一気に醒めた。拘束から抜けられないものかと試みるが、体を揺らすどころか、首から下は身じろぎひとつできない。自分はさておき、ハンスの姿がないことに焦っていると、キッチンからひょいと当のハンスの顔が覗いた。
 その手には、柄から刃先までが同じ金属でできた、どこぞの有名なマイスターが作ったとかいう、風さえするりと裂いてしまえそうな、この家で一番刃渡りの長いナイフが握られていた。
 ああ、何かつまみでも作ってくれてるのかな。
 なんて悠長なことは考えなかった。ナイフの切っ先は、明らかに俺に向けられていたからだ。
 ハンスの目はアルコールの霧に覆われてとろんとしており、焦点が合っていない。夢想にでも耽っている目だ。
 やばいな、と思い始める。俺を縛りつけたのもハンスなのか? 一体どういうつもりなんだ。
 いつもは青く澄んでいるはずの、胡乱な視線が俺をとらえる。締まりのない口元が開いて、舌足らずな声が続く。

「あれ、ヴェルナーさん、起きましたかあ?」
「何やってんだよ、お前……」
「夢の中でしかできないことをしようと思うんですよお」

 ハンスが危うげにナイフを振りまわしながら、覚束ない足どりで、身動きが取れない俺のところへ近づいてくる。その両目の奥は夢見るように淀んでいたが、表面は無邪気とさえいえる好奇心で輝いてもいた。
 俺の顔からは血の気が引いて、さっきからすうすうしている。ハンスは明らかに正気を失っていた。脳内のアラートが大音量で鳴りだす。どうすればいい。どうすればいい。頭の中には誰もいなくて、正しい答えは返ってこない。

「夢? 馬鹿野郎、これは現実だぞ」

 低くゆっくり言い返すと、ハンスはクラッカーが弾けるみたいにけたけたと笑いだした。その笑い方は、ベルリオーズの"断頭台への行進"に似て調子外れに明るいところがあって、聞いている俺をぞっとさせた。

「やだなあヴェルナーさん。こんなにふわふわしてるのに、現実なわけないじゃないですかあ」

 ハンスの表情は、恍惚としていた。その様子の異様さに、冷や汗が出てくる。
 ハンスはきっと、夢の底を海中眼鏡で覗いている状態なのだ。眼鏡の底に見える小魚の言葉なんか人間には届かない。それと同じで、俺の言葉もハンスに届きやしない。
 にじり寄ってきたハンスが俺の前に立つ。とても美しく整った顔が俺を見下ろす。なんて冷たい目なんだと思った。初冬の凍てつく風にさらされた湖面のよう。
 空っぽの左手が俺の顔に伸ばされる。

「僕ね、これが欲しいんですよ」

 ハンスの指先は熱を帯びていた。手のひらが頬を覆う感覚と、親指が目の下あたりを撫でさする感覚がある。品定めするような、ゆったりとした手つき。この不穏な空気にはなじまない、慈しみすら感じる動作。
 俺を見つめるハンスの瞳には、気が狂(ふ)れた者に特有の、尋常ではない熱量がこもっていた。
 俺の喉がごくりと鳴る。ハンスの声がぽつぽつと降ってくる。

「何度も夢に見たことがあるんです――ヴェルナーさんの目には僕と違うものが見えるのかなって。ヴェルナーさんの世界は何色なのかなって。ヴェルナーさんの目があったら、僕もヴェルナーさんにすこしでも近づけるのかなって――」

 俺の脳の中に、ある想像が立ち現れる。床に投げ出された俺の体。その傍らに跪(ひざまず)くハンス。血まみれの俺の顔面から、同じ血の色の光彩を持つ眼球を抉りだす。ひとつ。ふたつ。ハンスが欲しかったもの。
 それは恐ろしくクリアなイメージだった。
 ハンスは正気ではないが、きっと本気だ。

「お前……正気に戻ったら後悔するぞ」

 俺の言葉は緊張でかすれていた。ハンスは小首をかしげるだけで、彼の中の正気は帰ってこない。
 頬に触れていた左手が離れる。代わりに右手のナイフが、至近距離から突きつけられる。
 無機質で無情な金属のきらめき。既に死んでいるものしか、まだ裂いたことのないハンスのきれいな右手。このままでは、そのどちらも、これから俺の血で汚すことになる。

「ねえ、どうして何も教えてくれなかったんですか」

 不意に、はっきりした声音でハンスが言った。

「僕だって強くなりたかったのに。あなたみたいになりたかったのに」

 その言葉で、俺は悟った。自分の愚かさ、自分の傲慢さを。
 自分が教わったことを、俺はハンスに教えてこなかった。
 俺が知っていたのはすべて、他人を傷つける技術だ。それをハンスに教えることが、影という組織における俺の役割であり、義務だった。
 けれど、俺はハンスに知ってほしくなかった。銃を発砲する際に腕を伝う反動も、飛び散った火薬がどのように鼻を突くかも、弾道の計算の仕方も、銃弾の貫通とともにあがる血しぶきの鮮やかさも、絶命した相手の目に残る憎悪の色濃さも。
 初めて撃った相手は自分の師だった。
 ハンスには俺みたいになってもらいたくなかった。組織の求めなんかくそ食らえだと思った。俺は心に決めた。ハンスの手を汚させまいと誓った。物言わぬ師を森の奥に埋めながら。視界が滲むほど泣きながら。
 だからハンスには代わりとなることを教えた。教えたつもりだった。しかし、俺の思いは伝わってはいなかったのだ。ハンスが俺を見返すとき、その双眸に宿る嘆願に気づいていなかったのだ。
 なぜちゃんと言葉にしなかったのか。
 俺はなんて浅はかだったのだろう。
 点けっぱなしのテレビの向こうでは、まだサッカーの熱が覚めやらず、今季からチームの指揮を取ってきた監督が、レポーターのインタビューに答えている。

「これまでのこのクラブの伝統を、私は大きく変えてきた。それはとても大きなチャレンジだった。選手たちには戸惑いや反発もあったはずだが、これで我々のやり方が間違っていなかったと証明できたと思う」

 そうかそうか、君たちは間違っていなかったんだね。おめでとう。どうやら俺の方は、何もかも間違っていたみたいだよ。
 俺は言い訳を考えるのをやめた。全部を受け入れることにした。
 いよいよハンスがナイフを振り上げる。優しくほほえみながら。
 ハンスが最初に手にかける相手は俺だと決まっていたも同然だったけれど、その機会がこんなにも早く来てしまったことだけが残念で、ハンスが自分自身を傷つける前に、正気を取り戻してくれることだけが最期の願いだった。
 照明を反射して、ナイフの平面が一度だけぎらりと光る。

「ごめんな、ハンス」

 その言葉が届いたかどうか分からない。
 俺は目を瞑らなかったし、逸らしもしなかった。
 ハンスのその姿を見届けることが、俺への罰だと知っていたから。

――赤い夢を見る

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