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 今はこの、激情を受け止めてくれる曲とピアノが必要だった。


 ルカは体に馴染んでしまった部屋へ足を踏み入れる。
 罪の本部の一角。だだっ広い円形の部屋。漆黒の壁や床のそこかしこに青白い光がちかちかとまたたき、星をちりばめた空が広がるよう。
 ここに入るには、指紋や静脈の認証は必要ない。部屋の中央につや消しのグランドピアノと椅子が置かれているほかは、なにひとつ物は無かった。
 ここは、ルカのための部屋だ。
 ピアノの屋根を持ち上げて固定し、鍵盤の蓋を開き、そこにある深紅の布を外して畳む。椅子に腰かける動作のさなかに、ルカは鍵盤に指を走らせた。つるりとした、何千回何万回と触れても新鮮な感触。
 肺に詰めていた重い息を吐き出す。目を閉じて、傅(かしず)くように、ピアノの前に頭を垂れる。ぐちゃぐちゃに荒れた感情を掻き分けて、響いてくる旋律がある。それを捕らえたら、この両手で再現するだけだ。そうやって、ルカはピアノの内側に自分を見つける。
 構えた十指を一瞬だけ静止させたあとは、もうほとんど無我夢中だった。
 ベートーヴェンのピアノソナタ第14番"月光"。その第3楽章、プレスト・アジタート。
 音の激流が流れ出る。それはピアノ線からでなく、あたかも自分の指から迸るように、ルカには聴こえる。ピアノに取りつかんばかりの格好で、一心不乱に、心のなかの嵐を、そのまま88鍵にぶつけていく。
 思考を占めるのは、自分自身への怒り。あの方のお役に、十二分に立てていないもどかしさ。不甲斐なさ。情けなさ。
 もっと、とルカは思った。
 ――もっと、もっと、もっとだ!
 吹き荒れる感情の暴風が旋律にシンクロする。激しい分散和音を、ピアノ自体に叩きつけるように奏でていく。曲はもはや人に聞かせられる代物ではなく、音の暴力と化している。
 溢れる負の衝動の吐露。感情の拡張としての音楽。
 曲の最終盤、重い3つの和音が、曲全体を崩壊させてフィナーレとなる。
 全身から力が抜ける。大きく息を吸うと、ひゅううと気管が鳴った。呼吸すら忘れていたらしい。極限まで前のめりになった体を起こし、椅子の背もたれに預ける。顎を伝う汗を拭う。
 そこで、ブラボー、という声が部屋に響いた。
 はっとして顔を上げる。十歩と離れていない距離に、人がいる。ルカと同じ枢機卿用の黒い上着を羽織った、茶髪に緑色の目の、二十代半ばほどの男だった。演奏に没頭して、途中で人が入ってきたことにも気づかなかったようだ。
 いや、そもそも、この部屋に誰かが入ってくるなど想定の範囲外だった。ここにはピアノしかないのだ。用がある人間などいるはずがない。
 男がつかつかと歩み寄ってきて、にやっと笑った。

「命を削るみたいな、とんでもない演奏だったな。あんたがルカだろ? お噂はかねがね聞いてるぜ、血も涙も感情もない機械みたいな奴だって。だが、演奏はずいぶん感情的じゃないか。驚きだ」

 不躾に捲(まく)したてる男に、ルカは咄嗟に反応できない。その沈黙をどうとったのか、男は何かに気づいたようにああ、と声を漏らした。

「教皇様の懐刀(ふところがたな)たるお方が、俺のことなんざ知ってるわけないか。俺はマシューってんだ」
「……なぜ、この部屋にいらっしゃるのですか」
「ん? 俺も趣味で楽器をやるんでね。この部屋を見つけてから時々使わせてもらってたんだよ。なんでこんな立派なピアノと防音室があるのか、ずっと不思議だったんだが、あんたのためだったか」

 マシューと名乗った男が、あんたと違って俺はこいつだがな、と左手に持ったものを掲げる。
 生き物が持つのと同じく、有機的で優美な曲線。濡れたような艶をその身に纏った、一挺のヴァイオリン。
 おもむろにマシューが楽器を構える。彼の雰囲気が熱したガラスを引き延ばすように研ぎ澄まされ、ふ、と部屋全体の空気を変える。
 瞬間、弓が目にも止まらぬ早さで動き出した。
 パガニーニのカプリース、その第1番。耳に突き刺さる音の洪水。頬に感じる空気の震え。躍るような弓の動きに、釘付けになる。
 至近距離で放たれるその豊穣な響きを、ルカは呆気に取られて聞いていた。
 怒涛に似た1分半のあと、残響が消えるのを待ってマシューがゆるりと構えを解く。強烈な自己紹介を披露した男が、不敵な笑みをこちらに向ける。

「ざっとこんなもんだ」
「……趣味の域ではないでしょう」
「お褒めにあずかり光栄だね」

 マシューが腰を折り、芝居がかった仕草で一礼する。

「あなたは……何者ですか」
「俺は、しがない科学者だよ。マッドな方のな。――しかしラッキーだったよ、こうやって挨拶できて」
「……ラッキーとは……」
「今度からあんたと一緒の班(チーム)で研究することに決まったんだ。事前にこうやって挨拶できて良かった。これからよろしく頼むぜ」

 マシューが唇を弓形(ゆみなり)に歪ませ、右手を差し出してきた。握手を求めているらしい。
 ルカは冷ややかにその手を見る。相手が誰であれ、握手に応じる気は無かった。
 視線に怖じ気づき、これまでの人間と同じようにすごすごと手を引っ込めるかと思いきや、マシューは手を伸ばして強引にルカの手をとった。2度3度と強く上下に振る。

「おいおい、人がせっかく友好的に挨拶しようってのに、その態度はないだろ。年上相手に失礼じゃないか?」

 からかうような口調。ルカは目を少しだけ細めて、相手の顔を見た。

「……私が怖くないのですか」

 手をほどいたマシューが、とたんにぷっと吹き出す。

「あんた、見かけによらず面白い奴だな。もしかして罪には"ルカを怖がらないといけない"とかいう戒律でもあんのか? それともルカ、全世界の人間があんたを怖がるとでも思ってんのかい?」
「いえ……そういうわけではありませんが……」

 ルカはマシューの笑いを堪えた顔をじっと見る。自分に向かい合う人間はいつも、恐れおののき、畏怖に侵された目でこちらを見るのが通例だった。それが普通なのだ。このマシューという男は普通ではない。
 ルカの胸の内に、久方ぶりに味わう感情が生じていた。
 その小指の先ほどの、ごく小さな感情を仔細に眺め回す。脳内の感情のライブラリと照合して、名前を検索する。ルカはそうして、己の気持ちをラベリングし、分類する。
 これがもはや、ヒトの感情機構でないことは明白だ。人の手で作られることになる、感情を持つロボットも、きっと同じような機構を備えるだろう。ルカはとうの昔に、人間であることを辞めている。
 久しぶりに発生した感情。これは、動揺だ。
 マシューはルカの内心などどこ吹く風といった様子で、手にしたヴァイオリンを眼前で揺らめかせ、ピアノの側板部分を撫でる。

「今度一緒に演奏しないか? こいつと、こいつでさ」
「――何のために」
「あんたは今、何のために弾いてたんだ?」
「……」
「誰に聞かせるでもない、自分のためだろ。俺と演奏する理由だって、それじゃあ足りないかい?」

 一体この人間はいきなり何を言っているのか、とルカは目の前にある顔を眺めやる。真っ直ぐこちらを見返すマシューの表情は楽しげだ。
 得体の知れぬ男だと思った。この罪という組織にあって、この男の存在は場違いだった。奇妙ですらあった。
 彼は、マシューは、あまりに人間的すぎる。
 思ったことを素直に口にし、個人的な楽しみを躊躇なく求め、それが当然のように笑っている。ヒトとしての自然な営みは、ここでは不自然なものとしか映らない。
 
「じゃあ、またなルカ。楽しみにしてるぜ」

 ルカの返事も待たず、くるりと踵を返して、マシューは歩み去っていった。後ろ向きのまま、一度ひらひらと手を振って。
 ルカは、男の姿が見えなくなるまで、相容れない存在に違いないその背中を、じっと見つめていた。

――ヴァイオリンとピアノ

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