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お菓子と本は似ている。新しく市場に出されたものはすぐには棚に置かれず、棚の脇に平積みにされるところが。
週に何回か来るスーパーで、平積みされたお菓子コーナーの前にいる。今はちょうど季節の変わり目で、期間限定品が店頭に並び始める頃合いだ。お菓子好きとして、新商品のチェックは欠かせない。
私はあるチョコレートの箱を手に取る。このシリーズはちょっと贅沢な素材を使っているのが売りで、パッケージも高級感を意識しているのだろう、文字がエンボス加工になったりしている。お菓子にしては確かに高めな価格設定だけれど、本当に美味しいので文句は無い。今回の新商品もきっと美味しいはず。
私はかごにチョコレートを差し入れながら、これは頑張った日に自分へのご褒美として食べることにしよう、むふふ、とほくそ笑んだ。
「水城先生?」
聞き覚えのある声がした。そちらを向くと、背の高い、眼鏡をかけた、黒いスーツ姿の男性が立っていた。他でもない、同僚の桐原先生だった。
先生はジャケットの前釦を外し、ネクタイを緩めていて、少しリラックスした雰囲気だ。その左手には買い物かごがある。 彼の顔を見た瞬間、ばくんと心臓が跳ねて、軽くパニックに陥る。なぜなら私は桐原先生が好きだからだ。思わず、あふゎ!?と珍妙な驚きの声を出してしまう。
「あ、ききき桐原先生、お疲れさまですっ。えとえと、お買い物ですか?」
尋ねておいて、スーパーに買い物以外何しに来るんだー!と自分で突っ込む。私は馬鹿か。
桐原先生は特に顔色を変えず、ええ、と肯定した。
「水城先生もこちらのスーパーをお使いだったんですね」
「は、はい、そういえば家近かったですよね。でも初めて会いましたね。あは、は」
慌てているのを何とか繕おうとする。完全に気を抜いていたので、不意打ちを食らった気分だ。桐原先生とここで会う可能性があるなら、買い物するにももっと気をつけないといけないな。
というか、さっきお菓子の箱を持ってにやにやしてたところ、先生に見られたかも? どうしよう、最悪だ。絶対変な女だと思われただろうな……。
うう、と思って俯くと、先生のかごの中身が目に入る。
卵に、肉や魚などの生鮮食品、練り物類、大豆食品、たくさんの野菜、調味料、食パンやカレールウや麺類や缶詰やエトセトラ……。ザ・100パーセント自炊!という感じのする内容だ。
対して私のかごの中は、お菓子やお惣菜や菓子パンやヨーグルトやカップスープや冷凍食品ばかりである。私とて社会人になってしばらくは自炊を頑張っていたのだけれど、忙しさにかまけてだんだん主食を用意する以外の自炊をほぼ辞めてしまった。私は自分のかごをそっと後ろ手に隠した。
にしても、桐原先生の買い物、ものすごい量だなあ。彼が男性であることを考慮しても、悪くなる前に食べきれるとは思えない……。先生って一人暮らしだったよね? そんな疑念がつい口を出る。
「それ、お一人で全部食べるんですか?」
「ああ、いえ、今うちに居候がいまして――」
先生が語尾を濁す。
"居候"? その言葉で私の頭の中は真っ白になる。それって、一緒に住んでる人がいるってこと? 同棲中の彼女、とか?
私の脳内が妄想に切り替わる。
桐原先生と、すらっとしたモデル体型のロングストレート黒髪美女(※イメージ)が、仲良くキッチンに立って料理をしている。二人は他愛もない話で楽しそうに笑っている。そうしてできあがった料理はどれも美味しそうで、料理を並べたあとにテーブルへ就いた先生は、優しくその女性に微笑みかける……。
そうして、私は真っ暗い奈落の底に落ちる(※イメージ)。
い、嫌あああぁ!
叫び出しそうなのを堪え、おずおずと先生を見上げる。私の顔は青ざめているに違いない。
「あの、前……一人暮らしって仰ってませんでした……?」
桐原先生はばつが悪そうな顔をする。
「いやまあ、居候というか、犬猫みたいなものですけどね」
その返答に、ほーっと安堵した。犬猫みたいなのもの。つまり、ペットか。人間くらいよく食べる、雑食性の。
でもそんな生き物って何だろう。熊? 熊って個人で飼えるのかな?
「可愛いんですか?」
「かわいくはないですね」
即答だった。えっ、と私が何も言えないでいると、先生は少しだけ目を泳がせた。
「やむを得ず面倒を見ているだけなので……」
なるほど、と私は相槌を打つ。親戚や友達から、しばらく預かってほしいと頼まれたのだろうか。
先生と動物がじゃれているところをなんとなく想像する。その光景が意外にもしっくりきて、自分の脳内の映像なのに頬が緩みそうになった。どうしよう、和む。
大型犬とじゃれ合う桐原先生。屈託のない笑顔を浮かべる桐原先生。犬が先生に飛びついてその頬をぺろぺろと舐める。不埒な思いが胸を過(よ)ぎる。ああ、犬になりたい……。
「犬になりたい?」
桐原先生が訝しむように小首を傾げて言った。えっ、嘘、私いま口に出してた……!? やだ、唐突にそんなこと口走るなんて私完全に変態じゃない……!
恥ずかしさで顔がかあっと熱くなる。ぶんぶんぶんと胸の前で片手を振る。
「えっ犬になりたいって? 何ですか? 私はそんなこと言ってないですよ? 全然言ってないですよ?」
「そうですか、失礼しました。私が聞き間違えたようです」
先生が申し訳なさそうな顔をするので、私の心はしくしくと痛んだ。いえ申し訳ないのは私です、失礼したのは私の方です、先生は何も悪くありません、謝らないで……。
「お買い物の邪魔をしてしまいましたね。お時間取らせてしまってすみません。では」
「あ、あのっ!」
桐原先生が踵を返そうとするので、もっと話がしたい!という一心で反射的に呼び止めてしまう。別に邪魔じゃないですよー! なんならもっと邪魔をしてきてもよろしいんですよー!
「はい?」
先生が律儀に振り返る。どうしよう、呼び止めたはいいけど何も言うことを考えてなかった。
先生に言いたいことはたくさんあるのだ。好きだとか好きだとか大好きだとかずっと見てましたとか良かったらお付き合いしてほしいとかもういっそのこと結婚してほしいとか。でもそれらは断じて、断じてこのタイミングで言うべきことではない。
どうする、どうするの麗衣!?
「あ、あのっ私、先生の料理が食べてみたいです!」
苦し紛れに口を突いた台詞はそんなものだった。
なんだそりゃー!と自分の中のもう一人の私が叫ぶ。確かに食べたいけども! それを今伝えてどうする!
桐原先生は少しばかり目を丸くして、
「構いませんよ。大したものは作れませんが」
と言った。先に支離滅裂なお願いを口にしたのは自分の方なのに、私は面食らった。
えっ……いいの?
「いいんですか?」
「料理は嫌いじゃないので。それに何人分作ってもそんなに変わらないですし」
その返答はどこか論点がずれているようにも思えたが、私の突飛な物言いにも動じない、桐原先生の包容力に感銘すら覚える。
なんて懐が深い人なの……好き……。
「それではまた明日、学校で」
軽く会釈をして、今度こそ桐原先生が背を向ける。
私は彼の背中を眺めながら、ああそうか、また明日会いましょうとただ言えば良かったんだ、なにも料理を食べてみたいなんてとんちんかんなことを言う必要はなかったのに、でも承諾を得られたからそれはそれで良いのかも、結果オーライなのでは、などと滔々と考える。浮き沈みする思考を抱え、私はレジに並ぶ人々の列に歩み寄る。
そこでふと思い立って、一旦レジを離れた。商品棚を二つ三つと通り過ぎたところで、卵のパックをひとつ手に取る。
いつか桐原先生と並んで料理をする日が来ることを願って。少しずつでも、再開しよう。そう考えた。
――インザマーケット
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