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 雨が夜を濡らしている。
 その気配を感じながら、私は素性も知らぬ青年の広い背中に腕を絡める。
 自分のすべての感情が、この夜に溶けてしまえばいい。そう願いながら。


 いつからか、私の心にはしとしとと雨が降り続いていた。精神をじめつかせ、足元をぬかるませる長雨。その湿り気は慕わしくもあり、厭わしくもあって。
 原因なら、分かっていた。相談のできる、口の堅い相手も見つかった。それでも、他人に見えない雨はやむことがなかった。
 今私は、相談相手の事務所からの帰りしな、本当の雨に濡れながら路地をそぞろ歩いている。雨音が夜の喧騒を優しく覆い隠していた。傘は持っていない。降られたい気分で、わざと家から傘を持ってこなかったのかもしれない。
 けれど、ものには限度がある。雨足がいちだんと強まって、髪も肩も濡れそぼり、だんだんと後悔の念が生まれてきたところで、通りにライトを投げかける小ぢんまりとしたバーを見つけた。
 濡れた舗装路に色とりどりの店のサインが映り込む中で、多くの人が気づかずに通り過ぎてしまいそうなほど、目立たない佇まい。赤銅色の金属のささやかな看板に、なんだか無性に惹かれた。大袈裟だけれど、運命的なものを感じたのだ。自分は生来慎重で、思い切りの良さに欠けるけれど、今なら一人で知らないバーに入れそうだった。
 雨に濡れているから、口実がある。雨宿り、という口実が。
 咄嗟な思いつきで、手をさっと撫でる。バッグの小物ポケットを手探りで見つける。そうしてから、しっとりとした感触の木製のドアをくぐっていく。
 店内はクラシックな雰囲気で、絞った照明の下、数多のボトルが存在を誇るようにきらめいていた。雨模様だからか客は少ない。内装を見回す私に、マスターが席を勧めてくれる。一人でこんなところに来るのなんて何年ぶりだろう。「あまり甘くなく、炭酸なしのものを」と一杯目を注文し、ハンカチを取り出そうとした、そのときだった。

「これ、良かったらどうぞ」

 男性の声とともに、横からネイビーのハンカチが差し出された。腕を辿って仰ぎ見て、どくりと心臓が跳ねる。
 店内のほの明るさでも分かる、燃えるような赤毛の青年。濃い色のシャツに艶のあるジャケットを合わせている。自分と同い年か、少し下くらいだろうか。
 色素の薄い目は、優しげにこちらに向けられている。野性味のある整った顔立ちに、夜に馴染む空気を纏っていて――そう、美しい狼のような青年だった。
 私が受け取ったのを見て、相手は踵を返そうとする。その横顔が一瞬、静止したように目に焼き付く。どこか憂いを帯びた、ナイフのようなその顔。どうしようもなく惹きつけられて、自分らしくもなく呼び止めていた。
 この人なら、私の胸の中の雨を晴らしてくれるのではないか。
 再びこちらを向いた彼の表情には、もう陰はなくて。努めて陰鬱さを払うように、彼はにこりとほほえむ。

「何か?」
「良かったらだけれど……一緒に飲まない?」
「喜んで」

 甘くてほどよく低い声が、鼓膜をくすぐった。


 借りたハンカチからはほのかに香水の薫りがした。奥深くてほんのりスパイシーな、大人の男のセクシーな匂い。
 赤髪の青年は聞き上手だった。普段は饒舌なのに、あえて抑えて私に合わせてゆっくり話している。そう思える静かな口調で、時に私の話に相槌を打ち、また冗談めかした他愛ない世間話で私を笑わせてくれた。
 バーの敷地を跨ぐ前には、マスターに話を聞いてもらえれば重畳、と思っていたけれど、青年の存在は期待を遥かに超えていた。こんなに楽しく、何も考えこまずに会話したのはいつぶりだろう。
 二杯目のカクテルグラスが空になる頃、自分の中の勇気を総動員して、私は彼を誘った。

「ねえ、今夜……駄目かしら」

 声量はほぼ囁きとなり、その上震えていたかもしれない。
 相手はその一言ですべてを察してくれたようで、私の目をじっと覗きこむ。ここで聞き返されてでもいたら、あまりの恥ずかしさに何も無かったことにして逃げ出していただろう。

「今夜だけ、お互い身の上は訊かない、キスはしない。それでもいい?」

 ゆったりと落ち着いた調子で提示された条件に、私は一も二もなく頷いた。
 通りに出る。傘を差した彼と隣り合って歩く。並ぶと青年は店での印象よりも背が高かった。腕が自然に伸びてきて、私の腰に回される。本当の恋人のように体を密着したまま、私たちは言葉少なに雨の街を歩いていく。
 青年に連れられたのは、パリのアパルトマンを思わせる、小綺麗で洒落たホテルだった。一階のレストランを横目に、彼は迷うことなくレトロなエレベーターに乗って私を一室へ導いていく。きっとここに前から泊まっているのだろう。
 部屋の灯りがつけられる。室内もミントグリーンを基調とした小粋な雰囲気に満ちていた。さっと目を走らせると、生活するのに最低限のものはあるけれど、あまり使われた形跡はないと分かる。
「ここに住んでるの?」ジャケットをハンガーにかけている青年に訊いてみる。この質問は身の上話にあたるだろうか。

「今はね。そのうちまた別の街に行くだろうけど。……何か飲む? 炭酸水ならあるよ」

 小首を傾げる彼と、真正面から視線がかち合った。明るいところでその目を見るのは初めてで、虹彩が見たことのない色をしていることに、私はようやく気づいた。
 バーでは色素が薄いことしか分からなかったけれど、青年の目は鮮血と同じ色をしている。

「飲み物よりも、あなたの目……良かったらよく見せてくれない?」
「いいよ」

 クローゼットの前にいる彼につつ、と歩み寄る。相手は長躯を屈めて、私が見やすいようにしてくれる。
 青年の紅い目も、青年の存在も、洒落たホテルの一室も、雨音かすかな夜の静けさも、なんだか作り物みたいで、まるで現実感がなかった。
 至近距離から、燃えているような瞳を覗きこむ。

「……本物なの?」
「もちろん」

 互いの鼻が触れる。ついで頬が触れて、流れるように抱擁へと移っていた。服越しでも、彼の体温が伝わってくる。
 首の後ろに回されていた大きな掌が、私の体の輪郭を確かめるように、肩から腰、腰から太腿へと移動していく。そしてまた、じっくり時間をかけて全身を撫で上げる。
 まだ服を着たままなのに、それは紛うことなき愛撫だった。この先を想像し、は……と熱を孕んだ声が漏れてしまう。我ながら乙女のような敏感さに羞恥を覚え、頬が熱くなった。

「誘うのが上手だね」

 耳元で笑い混じりに囁かれ、体の芯の方が発熱して疼く。彼の指は、首の後ろ側にあるワンピースのボタンをまさぐっていた。逞しい肉体に抱きつきながら、服の戒めが暴かれていくのに任せる。

「そういえば、まだ名前を訊いてなかったっけ」
「……身の上は訊かないんじゃなかったの」
「そのつもりだよ。だから今夜は、お互いどれだけ嘘をついたっていい。俺たちは一夜限りの、一人の観客を相手に演じる役者ってわけさ」

 その台詞はまさに芝居めいていて、言い方もすごく気障(キザ)だったけれど、青年の雰囲気にしっくり馴染んでいたから、嫌味には感じなかった。
 一夜限りの役者。いい響きだった。こんな私でも、一晩だけならどんな役にもなりきれそうな気がした。

「君のことは、なんて呼べばいいかな?」
「あなたは、呼びたい名前はないの……」

 逆に尋ね返すと、相手が小さく息を飲んだように聞こえた。
 確信はなかった。彼が提示した「キスはしない」という条件と、今までの言動や態度から、心に想う人がいるのではないかという予感があっただけだ。
 彼はしばし手の動きを止めたあとで、苦みを含んだ笑い声をたてる。

「そうだな……呼びたい名前ならあるよ。でも、それは君じゃない。俺は君を彼女の名前で呼んだり、彼女の代わりに君を抱いたりしたいわけじゃないんだ」

 やはり、そうだった。その上正直に話してくれるなんて、見かけ以上に彼は誠実なようだった。
 行きずりの女の素性も事情も聞かず、ベッドを共にすることが、誠実の範疇に入るかは分からないけれど。
 リタよ、と小声で相手の耳朶に直接吹きこむ。

「私はリタ。リタって呼んで」
「リタ」

 青年はすぐに、耳元で低く名前をなぞる。ショコラみたいに甘やかな声音が、脳髄をじん、と痺れさせる。
 ワンピースの裾から入ってきた熱い手が素肌に触れた。それが別の生き物のように這いのぼる感覚に、んん……、と堪えきれずに悶えてしまう。

「ねえ、あなたの……名前は……」
「ヴェルナー」

 それがこの、赤毛の狼の名前。本当の名前かどうかはどうでも良いと思った。今夜だけ、私と一緒に濡れてくれる、私の狼。
 雨が降っている。それが、私の心を、体を、濡らす。
 ひたひたに潤んだ体を、早く慰めてほしかった。


 下着姿になった私を、ヴェルナーはプリンセスのように抱えて、暗いままの寝室へと連れていく。そのまま、ベッドに優しく横たえられた。彼はここで何人くらい女性を抱いたのだろう。覆い被さってきた青年の首筋からは、ふわりと石鹸の匂いが漂った。

「シャワーはどうする? 俺は夕方に浴びたばかりなんだけど」
「私も、出かける前に浴びたから……」
「じゃあ、このまましても大丈夫だね」
「ん……」

 ヴェルナーは服を着たまま、私の髪に指を入れて優しげにすく。この人は服の下にどんな体を隠しているんだろう。細身にも見えるけれど、胸板は厚そうだ。さっき、私を抱き上げる腕も頼もしかった。
 そんな焦れるようなこちらの心境もお構い無しに、ヴェルナーは私の髪を掬ってキスを落とす。

「綺麗な髪だね」

 何気なく降ってきた言葉で、じくりと胸に疼痛が走る。幼少期から、髪はいちばんのコンプレックスだったから。
 強くカールしていて、特に今日のような雨の日には毛先がほうぼうに跳ねる、栗色の癖っ毛。光に透けて輝くブロンドのような繊細さもなければ、ブルネットのようにしなやかな艶やかさだってない。
 もしかして、揶揄(からか)っているのだろうか? 反射的にぷいと顔を逸らしていた。

「何を言っているの? こんな髪、綺麗なわけない」
「そんなことないよ。ふわふわしていて、妖精みたいだ。掌の感触が心地好いし、俺は好きだな」

 気負いなく放たれた"好き"の一言に反応してしまう。この人は狡い。何が狡いかって、髪がコンプレックスだと分かっていてなお言及している気配があることだ。
 彼にはおそらく分かるのだろう。他人の負い目の部分が。綺麗、好きだなんて言われたら、嬉しくなってしまう。狡い。一夜だけの関係なのに。

「……みんなに言っているのね。そういうこと」
「ふふ。今夜は、君だけだよ」

 優しい顔で意地の悪いことを言いながら、ヴェルナーは首筋に啄むようなキスを降らせる。愛おしげに、まるで恋人にするように。

「キスは、しない約束じゃないの……」
「これがキスに入るんだ? 初心(うぶ)なんだね、可愛い」
「は、ん……っ」

 湿り気のあるからかいに、背筋がぞくりと震える。こんなの、変だ。首という何の変哲もない体の一部へのキスなのに、なぜ全身が火照っていくのだろう。

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