黒竜の元族長と人探しの旅を始めてから、早いもので一年の三分の二ほどが過ぎようとしていた。黒竜のジーヴは同族を、あたし――アイシャは兄さんを探して、この世界にひとつしかない大陸を旅してきた。
 季節は晩秋を過ぎ、湯を沸かすのに必要な燃料は徐々に増え、外を歩いていると足の裏から冷たさが上ってくる。もう少ししたら雪がちらついてもおかしくない時季になるだろう。 先日から被り始めた毛皮の帽子はとても温かく、耳を切る風にはたいへん有効だった。もちろん自分で捕った獣のものである。ジーヴはいつの間にかあたしが作った毛皮の襟巻きをちゃっかり拝借して着用している。許可した覚えはないのだが。
 野宿するのが日に日に厳しくなるのを感じていたから、その日夕暮れに街にたどり着けたのには安堵した。
 しかし。
 宿屋のカウンターで、あたしたちは予想外の事態に見舞われることになる。

「宿に空きがない?」
 室内に入って寒風から逃れたのも束の間、あたしは渋い顔をした宿屋の主人の前で頓狂な声を上げた。
「一部屋も?」
「ああ、残念だが……。他の宿屋にも確認をとってみるかい?」
「お願いします……」
 項垂(うなだ)れるように頭を下げる。
 宿にさえたどり着けば温かい料理と湯船にありつけるかと思っていたのに、肩透かしを食らった格好だ。体は芯から冷え、おなかはぺこぺこだし、体はぐったりしている。全身が何倍にも重くなったように感じた。
 旅の相棒のジーヴはといえば、眉間に皺を寄せて腕を組み、壁の電話機を弄っている店主を睨むように見ていた。店主の方からはい、そうですか、やっぱり、と元気のないくぐもった声が聞こえてくる。嫌な予感がする。
 嫌な予感は当たるものだ。
「どこも空きはないそうだ」
「そうですか……」
 無意識に肩を落としてしまった。今夜はふっくらした寝床で眠れると思っていたのに。ジーヴが不機嫌そうに鼻を鳴らす。
 すると、店主はどこか後ろめたい表情であたしたちを見やった。
「宿屋でなくて休憩所でもいいってんなら、空きがあるかもしれないんだが……どうするね」
「休憩所って……宿泊はできるんですか?」
「ああ」
「なら、そこでいい! お願いします!」
「うい、分かったよ」
 またも店主は後ろを向き、電話で相手と二言三言交わす。そうして無事に空きがあるとが分かり、連夜の野宿は回避の運びとなった。胸を撫で下ろしながら、その宿へ向かう。

 再び外に出ると、既に日は稜線の向こうへと消え、薄闇が辺りを覆っていた。冬が近づくと恐ろしく日没が早い。
 描いてもらった地図の通りに歩みを進めるうちに、あたしはだんだんと不安になってきた。なぜなら、歓楽街のど真ん中を突っ切る道沿いに、その宿泊所はあるらしいことが明白になってきたからだ。
「道合ってるんだよな? これ……」
「あの店主が書き間違えていなければな」
 寒さが得意でないジーヴはいつもより言葉少なだ。
 行き着いた目的地を見て、あたしは思わず目を見張った。建物の外観は小綺麗だが、灯りが薄暗く、なんとなく妖しい雰囲気が漂っている。ただならぬ気配を前に二の足を踏むあたしを尻目に、ジーヴはベルさえ付いていない木のドアを躊躇なく開けた。
 中はほの明るく、どこか気だるい空気が漂っていた。普通の宿なら食堂になっている一階部分に、革張りのソファが何脚か置かれている。そのうちのひとつに、男女が手足を絡ませるように座っていて、慌てて視線を逸らした。
 もうカウンターに到達していたジーヴに追い付くと、向こう側にいた妙齢の男性が、慇懃な様子で鍵を差し出すところだった。
「こちらがお部屋の鍵です。一部屋、一晩の利用で承っております」
「一部屋? 二部屋じゃないのか?」
 男性の言葉が気にかかって口を挟むと、受付の男性はこちらに目線をやり、丁寧な態度を引っ込めた。逆に、口の端に皮肉っぽい笑みが浮かぶ。
「お嬢ちゃん、こういうところに来るのは初めてかい? ここには一人部屋なんてないよ」
「えっ……」
「まあ、初めてなら慣れないことばかりだろうね。こういう場所もあるんだって勉強していくといいよ。――それでは旦那様、ごゆっくりお過ごし下さい」
 どことなく、男性に粘っこい目で見られた気がして、無知を責められた気分になる。居心地が悪く、頬が熱くなった。
 あたしたちに宛がわれた部屋は二階で、薄暗い階段を昇る途中、べったりと体を寄り添わせた男女とすれ違い、体が強張る。彼らが行き過ぎた後で、むっつりしていたジーヴが口を開いた。
「お前も分かってきただろうが、ここは人間の番(つがい)が睦み事をする場所のようだな」
「む……」
 竜の男の言葉に、急に顔が火照る。それが示す物事が分からない歳でもない。そう思うと受付の男性の、あのねばつく視線の理由も分かる気がしてきた。何にせよ、こんな人を人とも思わない竜と、そんな場所に寝泊まりすることになるなんて。兄さんが知ったらきっと悲しむだろう。途端にずうんと心が落ち込んだ。
 鍵を開けて踏み入った部屋も薄暗く、絞った照明はなぜか妖しげな赤紫色を帯びていた。ここはどこも薄暗いと、夜目が利かない竜はぶつぶつと文句を言う。
 あたしは入るなり、鼻腔をくすぐるお香の匂いに立ち竦んでいた。なんというか、大人の夜に合いそうというか、深呼吸したらくらくらしてしまいそうな、ちょっと官能的な匂い……いやいや、何考えてるんだ、とふるふる頭を振ってその感想を追い出す。
ジーヴは遠慮なく部屋のあちこちを見て回り、大きいベッドを見つけて喜色に満ちた声を上げた。言うまでもなく、ベッドはひとつしかない。
「これはいい。普段の宿ではいつも足先がはみ出してしまっていたのでな。寝具も暖かそうだ」
「ひ、ひとつしかないじゃないか」
「当たり前だろう。睦み事をするのに寝床を分ける奴があるか」
 ジーヴがこちらを眉をひそめて見る。彫りの深い整った顔に見つめられ、彼と自分が寄り添ってそこの寝床で寝ているところを想像しそうになり、顔が熱くなる。あたしたちは、人間と竜だ。そんな関係になっていいはずはない。言っておくけど手は出すなよ、と念押ししようとして、
「言っておくが、俺に手を出すなよ」
「は……はあ!? それはこっちの台詞だから!」
 先手を取られ、声が高くなる。ジーヴは呆れたように小さく嘆息した。
「俺は人間などに興味はない。お前が人間だということを抜いても、きいきい口うるさいだけの小娘など、どれだけ酒を積まれても願い下げだ」
「何その言い方っ、あたしだって――」
「おお、 こっちには湯船があるのか。部屋に付いているのは珍しいな」
「ちょっと……はあ……」
 部屋の探索に行ってしまったジーヴの後ろで、今度はあたしが盛大にため息を吐いた。

 注文した料理を部屋まで運んでもらい、遅い夕食をとる。目線を上げると、ジーヴは常と同じようにものすごい速度で料理を口に運んでいる。あたしはあまり食欲がなかった。何だかんだいって、慣れない状況にふたりきりなのだ。自分でもそれと気づかないうちに緊張していたようだ。
「食わんのか。俺が食ってしまうぞ」
 出し抜けに話しかけられ、肩がびくりと震える。
「あ、いや、これだけは食べる……」
「そうか。なら、これとこれもよいな?」
「うん……」
「なんだ、大人しいな。普段からそれくらい口を閉じていればいいのだが」
 くつくつと一頻(ひとしき)り笑ったあと、緊張しているのか、と不意にジーヴが囁くように問うた。その声音が艶(つや)っぽく感じられて、心臓がどくりと大きく脈打つ。
「な、何言ってるんだよ」
「俺相手に緊張などしても無駄なことだ。それは人間の男と来るときに取っておけ」
「なんであんたにそんなこと言われなきゃいけないの……」
「そう思うのなら聞き流せ。先に湯をもらうぞ」
「勝手にどうぞ……」
 あたしを動揺させておいて、我が道を行く竜はさっさと風呂に行ってしまう。こんなところ、人間の男性といつか訪れる日が来るとも思えなかった。進まない食事を続けながら、なんとはなしに浴室の方を見て、呼吸が止まった。
 扉の格子には目隠しとして磨硝子(すりがらす)が嵌まっているのだが、曇りが薄くて向こう側がぼんやり透けているのだ。体の輪郭がはっきり見えるほどではないにしろ、ジーヴが服を全て脱いでいる状態だと簡単に認識できてしまい、何度目か知れない頬の熱さを感じながら目をそらす。見てはいけないものを見てしまった気分だった。
 やがて湯浴みから帰ってきたジーヴに文句をぶつけようと身構えておくが、部屋に備え付けのガウンを羽織っていて、見慣れない姿だっために気が削がれる。ゆったりした袷(あわせ)から胸元が覗いていて、いつか目の当たりにした彼の裸の半身が脳裏にちらついた。その上肌は湿っていて、濡れ髪が額に張り付いているものだから、まともに目を合わせられなかった。
「何だ? 何を見ている?」
「あ、あそこの磨硝子が薄くて、あんたの体がぼんやり見えてたんだよ。あたしが入るときはあっち見ないでくれよ!」
 竜は面倒くさそうな表情をしながら、額に張り付いた黒髪を掻き上げる。
「見られたら困るのか?」
「そういう問題じゃなくて……あたしが恥ずかしいからだろ!」
「俺はお前の肌を見ても何も思わないが」
「だから――」
「まあ、どうせ俺はすぐ寝る。関係のないことだ」
「あっそ……」
 ぐぬぬと思いながら、行き場のない気持ちを握り拳にぎゅうと籠める。この話の通じなさ加減は、竜の耳に念仏といったところだろうか。人間の感情の機微を理解する気など毛ほどもないのだろう。いそいそと寝床に向かう大きい背中を、じっとり睨め付けた。
 ようやく気乗りしない夕飯を終え、入浴の支度をする。そわそわしながら服を脱ぎ、浴室のドアを開けると、そこには見たことのない世界が広がっていた。全体的に華美で、バスタブは猫足かつ異様に大きい。たっぷりとした湯に浸かりながら、きっと二人で入るものなんだろうな、と考えると居たたまれなくなった。
 人生で一番落ち着かない入浴を終えると、ジーヴは既に横になって瞑目していた。それも、ばかでかいベッドを独り占めにして。
 むっとしながら厚い肩を乱暴に揺する。じきに眉間に皺が寄り、薄目が開いた。
「……竜の眠りを妨げるとは、何用だ」
「何用だ、じゃなくて。そうやってあんたが寝てたらあたしの場所がないでしょ!」
「なぜお前に場所を譲らねばならん。先に寝ていたのはこの俺だぞ」
 ジーヴはかなり不機嫌そうだ。竜の気迫に気後れしないよう、気を強く保つ。
「何それ。そういうルールとか知らないんだけど」
「お前は床で寝ればよいではないか。寝袋にくるまって。いつも外でしていることだろう」
「あたしだって宿に泊まるときは寝床で寝たいの!」
「やかましい奴だ……夜も遅いから今回は仕方なく譲歩してやろう。竜の寛大さに感謝するがよい」
「なんであたしが我が儘言ったみたいになってるわけ? 腹立つんだけど……」
 ジーヴが大儀そうにベッドの半分側に寄る。神様、お願いだから、こんな男と一緒の部屋に泊まるなんてもうこれだけにして下さい。寝るだけで一苦労するなんて阿呆らしすぎる。

 夜更けになってもあたしは寝付けないでいた。背中に冷たい空気が入ってきて寒いのだ。それもこれも、隣にでかい図体の黒竜がいて、ふたりのあいだに隙間が発生しているせいだ。
「さむ……」
 せめてもの抵抗として、体の前面の毛布をかき合わせる。でも、やっぱり寒い。
 ふと、後ろ側で衣擦れの音がした。
「なんだ、寒いのか」
 ジーヴの声が聞こえた数瞬後、温かい何かに包まれる。すぐにはその正体が分からなかった。
 これはジーヴの太い腕だ、彼に抱き締められたのだ、と気づいた瞬間、あたしは全身をじたばたさせていた。
「何するんだ!」
「寒いのなら……こうした方が、温かいだろう」
 その語調にはいつもの覇気がない。竜でも寝惚けるのかもしれない。せめて背中合わせにしてよ、と強く言ってみると、大人しく向こうを向いてくれた気配がした。
 毛布の隙間はなくなり、背中からジーヴの体温が伝わってくる。そういえば小さい頃、今はもう亡くなった母と同じように寝たことがあったっけ。そんなことを思い出しながら、いつしかあたしは眠りに落ちていった。

 真夜中に何かの圧力を感じて目が覚める。
「ん……?」
 体が動かない。金縛りか、と胆が冷えるが、暗闇の中でまたジーヴの腕が回されているのが見えた。抗議の声を上げる寸前、
「どうして置いていくんだ」
そう、彼が小さく、でもはっきりした口調で言った。
 聞いたことのない声音にどきりとする。身じろぎをしてなんとか体を反転させると、ジーヴは目を瞑ったままだった。どうやら寝言であるらしい。夢でも見ているのだろうか。竜も人と同じような夢を、見るのだろうか。
 寝ていても恐ろしいほど整った精悍な顔つきに少しだけ見入る。また、きつく結ばれていた唇が緩んで、言葉が紡がれる。
「何故置いていった……。いつでもそうだ……俺は、置いていかれるばかりで……」
 それは詰問でも哀願でもない、内省的な自問にも似た、あくまで静かな言葉だった。それが逆に、あたしの心を打った。
 あたしはジーヴをどこかに置いていったことなどない。彼と旅をしてきて、むしろジーヴに置いてけぼりを食らうばかりだった。今のは絶対にあたしに対しての言葉ではないだろう。
 ジーヴは同族の竜を全員喪(うしな)って、あたしと旅立つことになった。起きている時はずっとあんな調子だが、もしかして、ジーヴも寂しさを感じていたりするのだろうか。ひとりは嫌だと、思うこともあるのだろうか。
 そろりと手を伸ばして髪の先を撫でてみると、思ったより柔らかい感触が指に伝わった。

 翌朝目覚めると、ジーヴは既に起きていて、金刺繍のされた黒衣を纏い直しているところだった。カーテンから朝日が射し込んで、刺繍をきらきらと輝かせている。
 その長躯に、あのさ、と話しかける。
「ジーヴ、あたしは……あんたをどこかに置き去りになんてしないから。心配しないでよ」
 振り返ったジーヴは、得体の知れない化け物でも見たような顔つきになっていた。
 はっとする。あたしは今何を口走った?
「突然なんの話だ? 頭でも打っておかしくなったのか?」
 怪訝としか言いようがないジーヴの声色。それを聞いてかっと頭に血が昇る。昨日とは違い、羞恥ではなく怒りでだ。昨夜あんなことを言っていたから、わざわざ気を遣ってあげたというのに。
「今のなし! 全部忘れろ、すぐに!」
「訳が分からんな。まあ、今に始まったことではないが」
 あたしが反射的に投げつけた枕を、逞しい腕で容易く防いだジーヴがやれやれと肩を竦める。
 ああ、この感じだ。今日もこれから、いつも通りの旅が始まる。やっぱりあたしたちにはこういう方が合ってる、と思った。
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