日が山並みのその向こうへ消えんとしている。
 ジーヴに抱えられて到着した舞踏大会の会場は、街の一角にある劇場だった。煉瓦の壁とレリーフを備えた、瀟洒(しょうしゃ)な造りの建物だ。
 とうとうここまで辿り着いてしまった。
 受付で名札代わりの花のブローチ(二種類の花を組み合わせ、その色が番号札の役目を果たすらしい)を貰い、自分で付けようと奮闘したが片腕では難しく、やれやれと嘆息するジーヴに手を貸してもらう。ドレスの胸にブローチを留める彼の様子を上目で窺うと、平生(へいぜい)と何ら変わらぬ面持ちがそこにはあった。表情からは何を考えているのか全く分からない。手のかかる旅の連れに、これから恥をかかせてやろうという魂胆なのかもしれない。そうだとしても、ここまで来たからには今さら尻尾を巻いて逃げ出すわけにもいかなかった。
 大きい催しに使われるような広々としたホールに踏みいると、参加者も見物人も一体となっており、場はがやがやと騒がしい。集った人々の溌剌とした頬を、壁に設えられたガス灯が照らしている。会場の隅のひとつには正装した楽団員が陣取り、優雅な生演奏を披露していた。足元はしっかりとした踏み心地の絨毯で、目線を上げれば凝った模様の壁紙が目を引いた。
 あたしは浮き足立っていた。気持ちが落ち着かず、場違いな気分で胸が塞がれる。この舞踏大会に参加する人の中に、野山で野生の動物を追いかけたことのある人なんて、一人もいないに違いない。
 しかもあたしには左腕がない。ひだを寄せた布で隠れてはいるけれど、やはり意識から追い出すことはできなかった。そこをちらちらと気にかけていると、ジーヴから声がかかる。

「ない左腕が気になるか」
「……だって、こんな恵まれてる人たちに囲まれて、気にならないはずないでしょ」
「傷を恥じるな。その傷はお前が一心に生きようとした証なのだ。恥じるな、傷を誇れ」

 何のためらいもなく言い切ったジーヴを、瞠目してまじまじと見つめる。彼の言葉には迷いなど一切なく、直接あたしの心に突き刺さったように感じた。分かったか、という念押しに、深い首肯で答えた。
 やがて司会者の挨拶が済み、観客は会場の端へ、参加者は列になってその前へ並ぶ。こっそりと右隣に立つジーヴを見上げると、撫で付けた髪には一分の乱れもなく、射るような隻眼で会場を見渡している。その堂々たる立ち姿に、緊張が少し和らぐのを感じた。もうどうにでもなれ。足が縺(もつ)れようが、無様に躓こうが、死ぬわけでもない。旅の恥はかき捨てだ。
 流れる音楽が、それまでのゆったりとした円舞曲(ワルツ)から、どこか哀愁の漂う、キレの伴った旋律に変わる。いよいよ始まるのだ。
 ジーヴの手が、するりとあたしの右手を下から掬い取る。

「行くぞ」

 低くかけられた声に、あたしは頷き返す。
 船乗りが洋々とした大海へ乗り出すように、ドレスの裾をひらめかせて、一歩目を踏み込む。ジーヴの左手はあたしの肩口に添えられている。
 兄と違い、竜の生態に詳しくないあたしには分からないが、ジーヴはこういうことに慣れているのだろうか。涼しい顔で、いとも簡単にステップを拍子に乗せて繰り出していく。あたしはその足捌きに着いていくので精いっぱいだ。やっぱり、無理だ。こんなこと、あたしにはできっこない。後ろ向きな気持ちで心が覆い尽くされ、眼前がすうっと閉ざされかける。
 ふと、ジーヴが小さく囁いた。その密(ひそ)やかな声は、真っ白になりかけた頭の内に、不思議とはっきりと響いた。

「力を抜け。俺と呼吸を合わせて、俺に身を委ねろ」

 落ち着いた声音に、体の奥の方がじんと痺れる。はっとして彼の目を見上げると、そこには自信がみなぎっており、こくりと僅かな頷きが返ってくる。
 言われた通り、ジーヴの呼吸に耳を澄ませた。手と足から力みを抜き、眼前の巨躯に導かれるまま、重心を移ろわせることにする。小難しく考えることを捨て、手足の赴くがままにステップを刻む。
 熱に浮かされるのに似た陶酔の気配がした。
 自分でも信じられなかった。こんなダンスなどしたことがないのに、足が意思を持ったように、自然と次の動作へと移れている。余分な力は霧散し、舞踏のリズムが体の内でどくどくと脈打つように感じられた。二人の呼吸が合い、馴染んでくると、くるくるとターンを決めたりできるようになっていた。
 いつしか、足裏の感覚が消えていた。まるで、雲の上で踊っているかのように。背中に羽が生えたかのように。
 曲が一段と高まりを見せたそのとき、ジーヴに腰を支えられ、あたしは中空に身を躍らせた。瞬間、時が止まったかに思える。あたしたちは静止したように動かず、景色だけがぐるぐると回って、霞む。ジーヴと目が合うと、彼はほんのりと笑んでいた。波が引くように音がすぼまり、この会場に、この世界に、二人だけが取り残された、そんな錯覚が去来した。
 焼き付くような一瞬。
 いつの間にか音楽はやんでいて、土砂降りに似た音が会場を包む。あたしたちは舞踏をやめる。雨の音が万雷の拍手の音だと、数拍遅れて気づく。
 熱病に侵されたような夢見心地で、まだあたしの手を取ったままのジーヴを振り仰いだ。
 彼が満足げににこりと笑う。


 呆然としたまま、宿の一階にある食堂に座っている。右手には、舞踏大会の賞品、螺鈿が施された小箱が乗っていた。
 まだ信じられなかった。驚くべきことに、あたしたちは優勝したのだ。
 順位が発表されていく時の緊張は、つい先刻の出来事のはずなのに、もう昨日のことのようにかすれた記憶になっていた。一位が発表されたあと、集った人々から祝福の言葉を浴び、もみくちゃにされかかったことは覚えている。賞品授与の際に二人の名前が呼ばれ、右手をジーヴ高々と掲げられて気恥ずかしかったことも。
 そう、そして、夕食を一緒にと迫る人々をかい潜り、あの会場からほうほうの体(てい)で逃げ出したのだった。
 今、あたしはドレスを脱ぎ、湯を浴びて化粧を綺麗さっぱりと落としている。お伽噺とは違い、かけられた魔法は一夜と持たずに解けるのだと知った。ジーヴから渡されたティアラは貰っていいのか迷ったが、そんなもの俺が持っていてもどうにもならぬだろう、ととりつく島もなく言われ、今は宿の寝床に所在なく置かれている。
 ジーヴはというと、舞踏大会の外見そのままに、あたしの目の前で難しい顔をして腕を組んでいる。彼とあたしで挟まれたテーブルには、たくさんのご馳走――大半はジーヴが頼んだ肉料理――が並んでいた。

「おい、食べないのか」
「あ、うん」

 ぼんやりと生返事をする。舞踏大会で優勝した記念にと、主の厚意で宿代と食事代が無料(ただ)になっていた。いまだに夢の中にいるのではないかと疑ってしまう。
 料理の乗った皿を避け、記念品の小箱をテーブルの上に置く。表面の螺鈿がきらりと輝くと、ジーヴが執着するのも当然の美しさに思えた。

「これ、そんなに欲しかったの?」

 ぽつりと問うと、ジーヴはきょとんとした顔になった。

「何を訳の分からぬことを言っている。欲しがっていたのはお前だろう」
「欲しいなんて一言も言ってないんだけど……」
「あんなに物欲しそうな顔をしていたのにか?」
「も、物欲しそうって……!」

 頭に血が昇りそうになる。息をひとつ吐き、努めて冷静を取り戻す。
 あたしが欲しそうにしていたから、というのが建前でなければ、この人の本心はどこにあるのだろう。だって旅を始める前、この竜の男は言ったのだ。「竜は人を助けない」と。今に至るまで、ジーヴの真意を読みきれずにいた。

「あんたが欲しいわけじゃなかったのなら――どうして大会になんて出たの。しかも、あたしの格好まで整えさせて」

 詰(なじ)るようなあたしの口調に、しかしジーヴは口の端を引き上げた。
 いかにも楽しげに。いかにも痛快そうに。

「竜は愉快なことが好きな生き物だからな。参加すれば、なかなか楽しめそうだと思っただけよ」
「……それだけ?」
「ああ。それだけだとも」

 もし今立っていたら、脱力して膝を折っていたかもしれない。楽しそうだからというそれだけの理由で、あたしを一日中振り回すなんて。竜の心の底は計り知れず、そして知り尽くしたいとも思わない。
 でもきっと、あたしは今日の出来事を忘れないだろう。
 これから何があろうと。
 どれだけ時が経とうと。
 あの、脳に焼き付いた一瞬のことを。

「お前はそれに何を入れるんだ?」

 不意に問われ、目の前で進行する現在に意識が引き戻される。螺鈿の施された箱。見る者すべてをうっとりさせるような、この子箱。
 この日の思い出に、ジーヴから貰ったティアラを入れるのも一興かもしれない。大きさも厚みもちょうどぴったりだ。
 それをこの竜の男に面と向かって伝えるのも気恥ずかしく、今から考えるとだけ返して、テーブルから服のポケットへ滑り込ませる。
 ジーヴは訊いておいて興味なさげに鼻を鳴らすと、待ちかねた様子でナイフとフォークを取り上げた。

「まあ、勝手にするがよい。さてと、俺は待ちくたびれた。お前が食べないのなら、この俺が食べ尽くすぞ」
「え、ちょっと、待ってよ!」

 言うが早いか、ジーヴはものすごい勢いで肉を食らっていく。それに負けじと、あたしは栄光の味の肉料理にかぶりついた。

(了)
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