青で塗りつぶした空が笑っている。澄んだ快晴の空を背景に、白亜の王宮の姿が、誇らしげに際立って見えた。
 大司教の失脚から三日経つ。あたしと兄、ジーヴは連れだって、王都にほど近い港へ来ている。海からの微風が潮の匂いを運んでくるのを、あたしは胸いっぱいに吸いこむ。
 港には、竜が小さく見えるほどの巨大な船舶が停まっていた。全体は首を回さねば見渡せず、小さな村ほどはあるのではないか、という大きさだ。黒塗りの船体からはぶっとい煙突が高々と伸び、そこからもうもうと白煙が上がっている。建造されたばかりの、先進技術の粋を集めた最新鋭の蒸気船である。大船の処女航海への船出を一目見ようと、王都や周辺の街から、大勢の見物人が詰めかけていた。
 大司教の処遇について、ジーヴから提案の内容を聞いたとき、よくそんなことを考えつくものだ、と竜の悪知恵に閉口するばかりだった。
 彼は、"竜を新大陸へと移送"するのとは逆に、"元大司教を新大陸へ海送"してはどうか、と国王に進言したのだ。

「さすれば、自らが実証してくれよう。気に食わない者がいなければ、理想の世となるのかどうか。お望みどおりの、竜なき世界でな」

 悪魔めいた形相の元大司教の睨みなどどこ吹く風、ジーヴは愉快げに体を揺すった。そんな彼を見るにつけ、これは敵に回してはいけない存在だな、という思いを強くする。
 憎むべきものを憎むことを選んだ国王は、あたしたちに何か欲しいものはないか、と尋ねた。富も身分も名声も、わしの力でなんとかしよう、と。先陣を切って口を開いたのはジーヴで、その答えは簡潔至極、要らぬの一言だった。曰く、竜が人からの賜り物を受け取ることなどあり得ない、とのこと。どこまでも矜持を大切にする男である。

「僕はモノクルが欲しいですかね。すぐにでも入り用なんですが、何ぶん今手持ちがないもので……」

 兄は照れたように後頭部を掻きながら言う。それくらいあたしの懐から出せるのに、と思ったけれど、そういえば黒竜の鱗を売って得た金貨も、列車の利用でほぼすっからかんになっていたのを思い出す。兄の力になれず、あたしは憮然とした。

「若いのに、無欲なのだな。もっと強欲になってよいのだぞ。そなたは――アイシャ、といったか。わしはそなたに最も報いねばならぬと思うておる。何でも気兼ねなく申すがよい」

 名前を呼ばれ、跪いた格好から思わず顔を上げてしまう。国王は、柔和な表情であたしを見つめていた。親しげな雰囲気すらある。失礼かもしれないが、あたしは幼い頃に亡くなった祖父を思い起こす。

「あたしは――」

 一度唇を舐めて、蜂蜜紅茶がたくさん欲しいです、美味しかったので、と言うと、王は瞠目して、しばし言葉を失っていた。

「お前の気が知れんわ。何を好き好んで、そんなものを口にするのか」

 港にて、水筒にたっぷり作っておいた紅茶で喉を潤す。ジーヴはあたしの動作を、忌々しそうに横目遣いで見ている。彼がいい印象を持っていないのは理解できなくもない。でも、変化(へんげ)の自由を奪ったのは蜂蜜紅茶そのものではないのだ。蜂蜜紅茶に罪はない。美味しすぎるという罪はあるかもしれないけど。
 紅茶を味わっていると、隣に立つ兄がだし抜けにおーい!、と大声を放ったので、びっくりして口に含んだものを噴き出すところだった。
 何事か、と思い兄を仰ぐと、船に向かって大手を振っている。視線の先では、船乗りらしき男性が舷梯タラップを伝い、桟橋へ降りてきていた。その人が兄に気づく。
 小走りになって近づいてくる彼を、あたしは知っていた。額にバンダナを巻いた、こざっぱりとした短髪の青年。兄の航海の賛助をしてくれていた人だ。確か、カイという名だったような。

「おいおい、どっかで見た顔だと思ったらエイミールじゃねえか! この野郎、どこほっつき歩いてたんだよ! 大陸見つけた後、お前んとこに行こうとしたら街ごと無くなってたんで、ぶったまげたぜ」
「ひ、久しぶりだね、カイ……」

 海の男らしい豪快な優しさを見せ、カイが兄を荒っぽく抱擁し、ばんばんと背中を叩く。兄の顔は多少引きつっている。華奢な兄の骨が折れたりしないか、あたしはそわそわした。

「おお、アイシャちゃんも無事か。街からここまでエイミールと一緒に来たのか?」
「いえ、兄に再会したのは三日前で――」
「この馬鹿野郎、ちゃんと着いてなきゃ駄目だろうがッ」
「あうう……その通りで……」
「カイさん、兄さんは悪くないの」
「おー、アイシャちゃんは優しいなあ!」

 カイは大口を開け、豪気な笑い声をあげる。やっと解放されふらふらと崩れ落ちそうになる兄を、あたしはしっかと抱きとめる。その一部始終を、ジーヴは大して興味も無さげに眺めていた。

「エイミールもこの船見て仰天したろ。一年でここまで造船技術が向上するとはなあ。これなら新大陸へも、悠々とたどり着けるぜ」
「それもそうだけど、僕は君がこの船に乗っていることの方にびっくりしたよ。船乗りの名誉だろう。おめでとう」
「なあに、この船じゃ下の下のしたっぱよ。お前もいつか、また一緒に航海へ出ようぜ。この船はでかいから、全然揺れないんだ。船酔いしまくるお前も安心だろ」

 カイは握手を交わしながら、苦笑する兄に向かっていたずらっぽく片目を瞑ってみせる。

「カイ、あのさあ……」
「おっと、主賓が到着したようだ」

 カイがあらぬ方向を見て声をあげる。視線を追うと、元大司教や側近たちが縄で繋がれ、近衛兵に連れられて歩いてくるところだった。元大司教以外にも、竜排除の思想を曲げなかった人間が何人かいたらしい。彼らも、師と仰いでいた身勝手な男とともに、新大陸へ送られることとなった。
 それじゃあまたな、と言い残し、カイは甲板へと戻っていった。
 居並ぶ人々が作り出した生ける花道を、男たちは石像のように黙々と進んでいく。数えきれない好奇の目、目、目。ざわめく人波のなかで、あたしたちは竜を除け者にしようとした異端者を睥睨する。

「どうした、かつてイゼルヌを率いた者よ。なぜもっと嬉しそうな顔をせんのだ? お前の望む世界へ行けるのだぞ。新世界ではお前が王となるのだ」

 腕組みをしたジーヴが呼びかけると、いまだにみすぼらしい威厳を振りかざしている男は、落ち窪んだ眼底から鈍い光を放ち、竜の巨躯を見上げた。

「私を笑い者にしに来たか。つくづく竜は性の悪い生き物よの」
「そう言うな。わざわざ見送りに出向いてやったのだから。感謝のひとつでもあってよいのではないか?」

 罪人の先頭に立つ男の頬に朱が差し、こめかみに筋が浮く。ジーヴの言葉はおそらく本音なのだろうけど、受け取る方は嫌味にしか聞こえないに違いない。

「終いまで侮りおって。この屈辱、決して忘れぬぞ……」
「おやおや、どうも竜嫌いが骨の髄まで染み込んでいるようだな」
「あんたの言い方が悪い」

 肩をすくめるジーヴに、あたしはぴしゃりと言い放つ。どう聞いても、火に油をそそぐだけの台詞にしかなっていない。
 数珠繋ぎになり行き過ぎようとする咎人たちへ、せいぜい鼻を利かせておけよ、とあたしは冷酷に言葉を投げつける。

「文明の匂いも嗅ぎ納めだぞ。後で恋しくなっても知らないからな」
「さらばだ、新世界の王よ!」

 最後に、張りのあるジーヴのバリトンが、新大陸を目指す男たちの背中を押しやった。
 用の済んだタラップが仕舞われる。蒸気機関と併せて備えられた帆が、風を捕らえて大きくたわんだ。錨が抜かれると、船はゆっくり岸を離れていく。ぼーっと海の果てまで届くような汽笛を響かせ、蒸気船は新大陸へ向けて出港した。


 小さくなっていく黒い影をぼんやり見る。ああ、これで終わったんだな、という感慨に耽る。波乱だらけの二人旅だったけれど、得たものもけっこうあったんじゃないかと思う。あたしにとっては、兄と再び会えたことが一番大きい。結局、ジーヴの旅の目的は果たせなかったから、心残りがないではないけれど。
 回想に浸っていると、そうだ、会わせたい人がいるんだ、との兄の言葉で我に返る。兄は破顔して、両掌を合わせていた。

「二人とも、ちょっと着いてきてくれないかな」

 そう言って、兄はさっさと歩きだす。含みのある兄の言に、ついあたしはジーヴと顔を見合わせた。
 兄は港からどんどん遠ざかっていく。周りはもう木立が並ぶ荒れ地だ。やきもきするあたしに、ジーヴが声を潜めて耳打ちしてくる。

「小娘よ。気を確かに持つのだぞ。奴がもし女性を連れてきても、動揺して卒倒などせぬようにな」
「そ……ど、動揺なんてしないし……別に……女の人でも……」
「もう少しだよー」

 あたしの懊悩を知ってか知らずか、兄が能天気に励ましてくる。
 前方にちょっとした丘が現れ、ここで待ってて、とあたしたちを制止し、先を行く兄は斜面の向こうに消えていく。あたしはどきどきしながら、その時を待った。
 やがて丘の上に、二つの影が出現する。
 ひとつは、もちろん兄のもの。もうひとつは、すらりと背が高く、豊かな黒髪をなびかせ、抜けるような白い肌を持ち、闇色の夜会服と半透明の肩かけを纏った、美しい女性のものだった。
 あたしの体は思考ごと停止する。
 本当の本当に女の人だった、しかもものすごい美人、どうしよう、どうしよう、と混迷の極みに突き落とされる。
 夜会服の裾を摘まみながら、丘のふもと、つまりこちら側へと、その女性がしずしずと淑やかに降りてくる。あと十歩程度という距離に迫ったとき、鈴を転がすのに似た可憐な声で、初めまして、と女性が挨拶を述べた。きらきら輝くほどの綺麗な碧眼が瞬く。
 あたしは見た。血色のよい唇が開いて、そこから鋭く生え揃う牙が覗くのを。一陣の風が彼女の長い髪をさらい、隠されていた尖った耳が現れるのを。
 そして気づいた。
 この人は、竜だ。しかも、黒竜だ。

「やっと会えましたね」

 女性の竜は、今度は明らかにジーヴに向かって話しかけた。
 ジーヴはやたら紳士的なほほえみを浮かべ、彼女にすうっと肉薄する。

「俺とどこかで会ったことが?」
「いいえ……けれどずっと捜していたんです。あなたのような方を」
「俺もずっと、あなたのような人を捜していた。お会いできて嬉しい」

 ジーヴは鉤爪で傷つけないよう、白魚のような手をそっと取る。二人は、世界に自分たちしかいないとでも言わんばかりに、その青い視線を交錯させて見つめあっている。
 竜が変わったみたいなジーヴを、釈然としない気持ちを抱えて見ているあたしの隣に、やっと兄が到着した。
 二人の黒竜は、いたく優雅な足さばきで円舞曲ワルツを踊りだす。ジーヴの黒衣の裾と、女性の髪や夜会着の裾が品よくひるがえる。長身の美男美女が踊りに興じるその様子は、どこからどう見ても美しかった。

「……綺麗」
「本当にね」

 兄が同意する。
 兄が言うには、教団の魔の手から逃げ回る途中の街で、偶然彼女と会ったのだという。そして、黒竜の一族が滅びた事実を知った。彼女はもともと引っ込み思案な性格で、窪地ではなく里山の端っこでひっそり暮らしていたため、難を逃れたらしい。族長であるジーヴと面識がなかったのもそういう理由から。兄と彼女はずっと一緒だったが、兄が教団に捕まっているあいだは、王都の近くの森に隠れていたそうだ。

「でも今、引っ込み思案だとは微塵も感じなかったけど……」
「そうかもしれないね。でも出会った当初は大変だったんだよ。全然喋ってくれないし、警戒されるし、信用してもらうまで時間かかったんだ。竜にしたらここまでの旅なんてあっという間の出来事だけど、旅するなかで何か心境の変化があったのかもしれない。それを進歩というほど、僕は傲慢にはなれないけどね」

 兄は穏和な顔で、二人の舞踏に見入っている。
 あたしは、心の底から良かったと思った。収まるべきところに収まったという実感がある。ジーヴの旅の目的も達せられたのだ。これから二人は力を合わせ、黒竜の一族を復興させていくのだろう。
 そして、あたしとの旅の記憶など、じきにジーヴの中からは消えてしまうに違いない。掬った海辺の砂が指の隙間から零れ落ちるように、すみやかに、当たり前に、跡形もなく。あたしには忘れ得ぬ時間でも、竜にとっては一瞬のまたたきだ。
 一度交わっただけの直線は、すぐに離れて、あとはもう遠のいていくだけ。それが自然の摂理で、あたしは逆らおうとは思わない。

「兄さん、行こう」

 あたしは彼らに背を向けた。竜との離別に、湿っぽいのは似合わないはずだ。
 アイシャ、いいのかい、と兄が尋ねるけれど、あたしは振り向きもせずにこくりとうなずく。
 これでいいのだ。これで。

「アイシャ」

 朗々と響くバリトンに呼び止められて、はっとする。心臓が止まるかと思った。
 信じられない心持ちで、一年間旅をともにした黒竜を、もう一度振り返り見る。
 竜の男女は、片手を握りあったまま、穏やかな顔をあたしに向けていた。

「ジーヴ、今……」
「お前には世話になったな。お前がいなければ、この大陸の竜の命運は揺らいでいた。すべての竜を代表して感謝する。――アイシャ。お前との旅、なかなかに愉快であったぞ」
「……ッ、狡いぞ、最後の最後で……」

 鼻の奥がつんとして、視界が滲むけれど、泣いたって竜には伝わらないから、ぐっと我慢する。
 代わりに、しゃんと胸を張って、ジーヴを仰ぎ見た。

「ジーヴ。今まで言えなかったけど、ありがとう。本当に……。ちゃんとこれから、幸せになって。あと、おでこの傷のこと、ごめん」

 ジーヴは目元を緩め、相好を崩す。

「傷なら心配要らんさ。なあに、百年もすれば元通りよ。お前こそきっと幸福を掴め。俺は、お前が必ずや手に入れられると信じているぞ」
「私と彼を出会わせてくれてありがとう。あなたにご加護が訪れますように」

 竜の女性も、あたしに優美な笑顔を向けた。
 嬉しかった。とても。
 丘に寄り添って立つ二人の竜。やがて、二陣の旋風が起こる。本来の姿に変じた彼らが、地鳴りのような咆哮を鳴き交わし、大きな翼を羽ばたかす。そして同時に飛び立って、二つの黒い塊となり点となり、ついには傾きはじめた陽の光のなかへと溶けていった。
 二人の姿が見えなくなっても、その方向を見続けているあたしの肩に、兄がとんと掌を置く。

「僕らも帰ろうか」
「うん。……どこへ帰る?」
「そうだなあ。アイシャが気に入る男の人がいそうなところ、がいいかなあ」

 にこにこと機嫌がいい兄に、あたしは訝しむ目を向ける。

「何それ」
「でもさ、あの竜の彼を超える人はなかなかいないと思うな。見つけるのは大変だね」
「……あの竜(ひと)は全然、そんなんじゃないから」

 兄はまったく勘違いをしている。頬が熱くなっている気がするけれど、それは陽に照らされているからだ。断じて、感情の揺れのせいなどではない。

「うん、分かってる。だけど彼、いい男(ひと)だったでしょ?」
「…………まあ、ね。でも相手を探すなら、兄さんの方が先でしょ」
「あはは、そこを突かれると痛いなあ」

 兄が困ったように笑い、頭の後ろを掻く仕草をする。
 あたしには分かっている。これが終わりではないことが。ここからまた、一から始まるということが。
 あたしは大地をしっかりと感じながら、新しい一歩目を踏み出した。
(了)

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