金属の柵の向こうに、衛兵の兜を被った、衛兵服姿の華奢な人物が立っている。その体は小刻みに震えている。僕の、雪に覆われた湖みたいに凍りついた心が、一瞬にして融け、喜びで沸き立った。驚きと嬉しさで泣きそうだ。
幻聴じゃない。どういう経緯で彼女がそこにいるのかは分からない、けれど間違いようがない。一年ぶりに再会する、妹のアイシャだ。
「アイシャ! アイシャなのかい?」
「良かった……兄さん、無事で……」
アイシャが兜を脱ぐ。くすんだ桃色の髪と、僕と同じ深い紫色の瞳が現れる。その双眸は潤んでも見えた。なんだか、顔つきが以前にも増して凛々しくなっている。
「ジーヴ、早く早く!」
牢の扉の方にいる誰かに向かって、妹が声を放る。
味方がいるのか、と僕は感心した。悠然とした足取りで近づいてきたのは、並外れて大きな体躯の、黒衣を纏った青年だった。尖った耳に、鋭い爪。竜だ。
竜の青年は柵に相対し、おもむろに両腕を伸ばす。握ったその手に力が込められると、服の上からでも筋肉が盛り上がるのが分かり、太い金属の棒はまだ熱い飴細工のように、造作もなくへにゃりと曲がった。
出現した抜け穴を通って、アイシャが僕の元へと駆け寄ってくる。僕はよろよろ立ち上がって、鉄砲玉みたいに飛んでくる妹を、心許ない腕と胸で精いっぱい抱きとめた。久方ぶりの抱擁だった。
「兄さん……会いたかった……!」
「僕もだよ、アイシャ」
頭を撫でてやると、アイシャはすんすんと鼻を鳴らしはじめた。腕にあるぬくもりが、これが夢じゃないと証明してくれる。僕の視界も涙で滲む。
そうしているうちに、僕はあることに気づいて愕然とした。妹の左腕が、丸ごとないのだ。
「アイシャ、腕が――」
「うん……街が焼けた夜、瓦礫に押し潰されたの。もう駄目だって思って、最後は自分で切り落とした」
「……ごめん、アイシャ。僕のせいだ……」
壮絶な語りの内容に、抱き締めるより他に何もできない無力な自分を呪う。アイシャは胸のなかで、いやいやをするように首を横に振る。そのいじらしさに、また泣けてくる。
僕らの様子を遠巻きに見ていた竜が、ゆっくりと牢の内部に入ってくる。
片眼鏡を割られてしまっていたためによく見えなかったけれど、この距離なら分かる。彼の顔には見覚えがあった。
竜の青年も、僕を視界の中心に捉え、おや、という顔をする。
「エイミール?」
「〜〜〜じゃないですか!」
僕らは互いに名前を呼びあった。
アイシャがもぞりと動いて、無言のまま僕を見上げる。口はぽかんと半開きになり、目が点になっている。僕からなかば体を離し、驚愕に顔を染めながら、僕と竜に視線をやる。
僕は竜を出迎えた。こんな堂々とした竜は他にはいない。黒竜の一族の、元族長だ。額に覚えのない傷ができているけれど、調査に何度も付き合ってくれた、あの彼に間違いない。
瓦礫の山と化した故郷を抜け出し、ふらふら彷徨っているとき、さる筋から黒竜の一族が滅んだという話を耳にしたが、生き残りがいたのだ。こんなところで再会できるとは僥倖(ぎょうこう)だ。
「よかったー、無事だったんですね」
「なんだ、兄とはお前のことか。小娘とまったく似ていないから、分からなかったぞ」
「いやあ、よく言われます」
僕は頭の後ろを掻き掻き、苦笑した。
それまで絶句していたアイシャが、混乱の極みに立たされたように、僕と竜を交互に指差す。
「え……二人とも知り合いで……ジーヴ、人の名前は覚えないって言ってなかった? それに兄さん、何て言ってるの……?」
「〜〜〜だけど? 彼の名前だよ」
「全然聞き取れない……」
アイシャががっくりと項垂れる。
妹が驚くのも無理はない。通常、竜の名前は人間には発音できないからだ。
アイシャがジーヴと呼ぶ竜の青年は、胸を反らしてふんと鼻を鳴らす。僕を鉤爪の生えた指で指し示す。
「こいつが俺の竜名を呼ぶものだから、礼儀として呼び返さぬわけにはいかなくてな。竜は礼節を重んじる生き物なのだ」
「いやあ、研究で彼にはお世話になっててね。調査で何回も聞いているあいだに、言えるようになっちゃって……」
我ながら言い訳がましいなと思いながら、照れ隠しに頬を掻く。呆れ果てた表情の竜は、横目でちらりとアイシャを見やる。
「だからといって、発音できるようには普通ならないんだがな。お前の兄は変わり者だ」
「あんたに変わり者とか言われたくない」
アイシャが噛みつく。竜は不思議そうに首をひねる。
「それはどういう意味だ」
「分かるだろ」
「分からない」
「分かれよ」
会えない月日のあいだに、アイシャは竜と相当親しい関係になったようだ。
僕は二人を、温かい思いで見つめる。
* * * * まんまと王宮の敷地に忍びこんだあたしたちは、こっそり城の門扉に近づき、そこにいた門番の衛兵を気絶させた。彼らの制服を奪い、自らの体に纏う。竜の翼に荷物をくくりつけるのに使っていた縄で、衛兵をぐるぐる巻きに拘束し、庭園の茂みのなかに彼らを放置した。これじゃまるで悪役だよな、と内心ぼやきながら手を動かす。ジーヴはどことなく楽しんでいる雰囲気さえある。
竜と女という、どこにいても目立つ組み合わせのあたしたちでも、衛兵の革帽を被ると性別すら判別がつかなくなった。申し分ない擬装だったがしかし、こんなにやすやすと牢までたどり着けるとは驚きだ。
兄の無事な姿に、あたしは感無量だった。一年の空白を経た兄は少しばかりやつれていたが、怪我もなく健康体で、そのことに心底ほっとした。
それにしても、兄とジーヴが知り合いだったことにも、兄がジーヴの本当の名を発音できることにも、ジーヴが兄の名を平然と呼んだことにも驚いた。あれだけ竜の名は人間には発音できない、人の名など覚えるに如(し)かないと言っていたくせに。
兄に今日までの経緯を語る。ジーヴもイゼルヌ教団のせいで右目が見えないんだ、隻眼と隻腕の二人で欠けたところを埋め合わせて、ここまで旅をしてきたんだ、と話すと、兄はにこにこと微笑んでくれた。それだけで、王都への波乱に満ちた旅の一切が、報われたんだと思えた。兄はあたしの髪を撫でながら、逞しくなったねアイシャ、と嬉しそうに言う。
これで、あたしの旅の目的は達せられた。イゼルヌ教団の目指すところは気になるけれど、まずは安全な場所まで逃げなければ。王宮から脱出するのが先決だ。
とにかくここから早く逃げようと兄を促す。けれどなぜか、彼の反応は鈍い。その場を動こうとしないまま、じっと考え込んでいる。
こういう兄の姿を、あたしは何度も見てきた。何か確固たる考えがあるのだ。こうなった彼は強い。文字どおり、梃子でも動かなくなる。
「今逃げ出したとしても、奴らの真意を知っている僕はきっと追われる。いたちごっこになるだけだと思うんだ。何か方法はないかな……」
「どういうこと、兄さん」
呟きの本意を図りかねて、兄の瞳を覗きこむ。好奇心と知性の塊である彼の眼(まなこ)が、一瞬強い光を放つ。
「イゼルヌ教団のこと、君たちがどこまで知っているのか、予想がついているのか、教えてくれないかい。――君たちに、僕が知っていることをすべて、話そうと思う」
兄の顔は、これ以上はないほどの引き締まっていた。
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