一条の光が、荷台の暗黒を払う。
 影と化した衛兵が、暗闇に目をこらして荷物を確認する。その視線の動きが、手に取るように分かる気がした。
 あたしはジーヴの腕の中にいた。衛兵の声がけがあった直後、彼はすぐさまあたしを抱き寄せ、長い黒衣で体を覆ったのだ。二人して気配を消そうと努める。息遣いを抑えた彼の、逞しい両腕があたしの全身をぎゅっと抱き締めている。
 極限まで縮こまろうと、緊張した全身を彼に預けると、微動だにしない厚い胸板があたしを迎えた。竜の肌は冷たいのかと予想していたけど、そこは優しい温もりがあり、安心感が形を持ったらこういう感じだろうな、と考えた。これまで、竜と人間はまったく別の生き物なのだ、と実感するばかりだったのに、こうして鼓動を聴くと大して違わない気もする。ただあたしが女で、彼が男だというだけで。
 張りつめる緊迫感に、あたしの心臓はばくばくと早鐘を打っている。胸に接した耳から聴こえてくる心音は、とくん、とくん、とゆったりしていた。こんな状況でも、落ち着いていられる彼をすごいなと思う。
 兵の硬い足音が迫ってきて、ひしとジーヴにしがみつく。それで何かが好転するわけでもないのに。彼の長い腕は背中まで回され、抱擁めいた姿勢となっている。
 一分一秒が引き伸ばされたようだった。衛兵の滑(ぬめ)った目が黒衣を見透かしているんじゃないか、今に剣が振るわれるのではないか、という恐怖が渦巻く。こぼれそうになる悲鳴を、叫びを、歯を食いしばって押し殺す。
 そうして、やっと足音は離れていき、再び荷台が闇に包まれた。
 よし、行っていいぞ、の声に、またも御者がへえ、と答え、車が動き始める。
 張りつめていた緊張がやっと解け、ジーヴの腕のなかで、あたしはへなへなと脱力した。

「どうやらやり過ごせたようだな」

 ジーヴもやれやれと息をつく。あたしの腰に手を回し、全身を胸に抱いたまま。
 その腕がいっこうに解かれる気配がないので、あたしは彼の強靭な体をぽかぽかと殴って抗議した。

「いつまでそうしてるんだ、離せ馬鹿!」
「なんだ、どうした。気がついたんだが、この体勢の方が楽ではないか?」
「そういう問題じゃないッ」
「ではどういう問題なんだ」

 ジーヴは心底分からないと言わんばかりに、目と鼻の先で、訝しい表情を浮かべた。
 やっとのことで、無粋な男から逃れる。
 口が裂けても言えない。その太い腕のなかが、少し、ほんのちょっとだけ、心地好かっただなんて。頬がかっかと赤らんでいる予感がある。ここが暗闇で本当に良かった。

* * * *

 淀んだ空気が満ちる石牢のなかで、冷気に身を切られながら、僕はぼんやりと考える。このまま殺されるのだろう、と。
 彼らの身の毛もよだつ計画に気づいてしまったがために。


 生まれ故郷が灰塵に帰したのは、きっと僕のせいだ。
 何が悪かったのだろう。長旅の末、新大陸を発見したことだろうか。海洋学者になったことだろうか。竜の知見に目をつけたことか。そもそも、学者にならなかったら、アイシャと二人で幸せに暮らせたのだろうか。
 狭く閉ざされた牢獄にあって、僕の眼裏(まなうら)に映るのは、新大陸の風景だった。深い霧の内から立ち現れた、巨大な陸の棚。険しい岸壁の上に広がっていた、果てしもなく続く手つかずの草原。
 上陸時は岸近くの荒波に揉まれ、激しく船酔いした僕は前後不覚の状態になっていたけれど、あのたった数日間の調査ほど、好奇心と知識欲を刺激する経験はなかった。僕はその時とても幸せだった。このために生まれてきたんだと本気で思った。復路の食糧がぎりぎりになるまで粘り、新大陸を去る際には、相当に名残惜しかった。心のなかで、また来るよ、と陸地に向かって呼びかけた。
 しかしその想いも、虚しくここで潰えようとしている。
 イゼルヌ教団の大司教は、我らに味方すれば命は助けてやろう、と言う。初老に差しかかった大司教の微笑みは、形こそ聖職者らしいものではあったが、その目はぞっとするほど熱がなく、どこまでも冷酷だった。
 我々の仕事は仕上げの段階に入っているのだ、と彼は告げる。

「後は陛下が、人間と竜の生活圏分割の令状を、私たちへ発布してくれれば終いだ。おかしな意地は捨てろ、小僧。お前が何を成そうと、どのみち命令は下る」
「司教、あなたは」
「司教ではない、私は大司教だ」
「……大司教。僕は、焼き討ちを経験しています。僕のする行為がすべて、無駄だとでも仰るのですか?」

 僕はできうる限りの凄みを利かせて睨(ね)めつける。
 なんとか国王に大司教の悪行を伝えられれば、僕に勝機はあると考えていた。僕は彼らの凶行を身をもって体感したのだ。彼らの真意は他にあるのだと、陛下、あなたは騙されているのだと、そうお教えできれば、未曾有の暴走は食い止められるのではないか。僕はそこに可能性を見出だしていた。
 陛下は民に愛されている。決して愚王ではあるまい。
 僕の思考を知ってか知らずか、大司教は僕の睨みを一蹴して高笑いした。

「その通り、無駄だよ。お前がどんな言葉を尽くそうと、根拠も無しに国王が聞き入れるわけもあるまい? 国王陛下は私を信頼してくれておるのだ。何事を話そうと、所詮は竜狂いの妄想と断じられるだけだろう。分かったのなら観念して、私に従え」

 最後通牒めいた威令にも、屈する気はなかった。
 これまでの耐え難い尋問にも、研究者としての、人間としての、何より兄としての尊厳や自尊心が勝(まさ)ったのだ。竜をこの大陸から駆逐するだなんて馬鹿げている。抵抗が無意味だとしても、彼らの言いなりになるような真似をしたら、妹は僕を一生軽蔑するだろう。それは死よりも酷なことに思える。
 だから僕は誇りを保ったまま、ここで死ぬつもりでいた。心残りがないわけじゃない。やり残した仕事も研究も、たくさんある。そして何より、一度だけでもいいから、最期にアイシャの元気な顔を見たかった。
 静寂が支配する牢獄に、きいぃ、と入り口の扉が開かれる音が響く。
 石床をコツコツと叩く音。悪魔の靴音。そちらを振り仰ぐ気力もなく、ため息をつく。

「また尋問ですか……。何度も申し上げたとおり、僕はあなた方には絶対に協力しません。何回言えば分かって――」
「兄さん!」

 鋭い女性の声。ああ、とうとう幻聴まで聴こえるようになってしまったのか。あの、聞き馴染んだ声。懐かしい、僕が最も求めていた声。
 僕はのろのろと半自動的に面(おもて)を上げる。
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