兄は船乗りで、調査のため何ヵ月も海から帰らないのはざらだった。航海には危険が伴う。あたしたちの父や母も海洋学者だったが、二人とも海で亡くなった。昔と比べたら船の強度も航海術も向上してはいるけれど、船旅の危険性は無いとは言えず、万一兄の身に何かあった場合にそれと分かるようにと、兄自身が提案したのだった。
 兄は両親の研究を引き継ぎ、黙々と航海を重ねていた。彼の表情から、恐れは微塵も感じ取れなかった。普段はのほほんとして柔和な風を纏っているが、その実兄は強い人なのだと思う。
 ――兄さん、今どこにいるの。
 心のなかで双宿石に呼びかける。ただの鉱物にすぎない透明な結晶は、言わずもがな沈黙している。表面のひびが心なしか増えているように思えて、あたしの胸は痛んだ。
 自ら聞いたくせに、ジーヴは関心の薄さを隠そうとしない。鋭い歯で、込みあげてきた欠伸(あくび)を噛み殺している。

「まあ、徒労に付き合わされていないならそれでよい」
「あんたの方こそ、本当に黒竜の生き残りなんているのか」

 あたしは機に乗じて、常々感じていた疑問を黒竜の元族長にぶつけた。
 竜のなかでも、黒竜は特に珍しい存在であるらしい。それは以前、鱗を売ったときの相手の反応であるとか、街や森で見かける竜の姿(ジーヴによると火竜や氷竜が多いという)から察することができる。元々数が少ない彼らが、一夜にして一族全員を失ったのだ。どこかには別の集落があるはず、と楽観的になる方が難しい。この旅で、黒竜の息づかいはおろか、気配さえ感じたことはない。
 ジーヴは別段思い悩む様子もなく、小首を傾げて答えを発する。

「さあな」

 無責任ともいえる発言に、あたしは拍子抜けする。

「何なんだ、その返事。いないかもしれないのか」
「どうにでも考えられる、ということだ。いるかもしれんし、もう生き残りは俺だけかもしれん。残っているのは雄ばかりという事態も考えられる。しかし、それがどうしたというのだ? この大陸中を捜してみないことには、はっきりとは分からない。"ない"と証明するのは"ある"と証明するよりも困難なのだ。俺は可能性に懸けている。可能性がゼロでないかぎり、竜は希望を持ち続ける。竜に絶望はない」

 きっぱり言い切って、話は済んだとばかりあたしから視線を外す。
 ジーヴは大通りに向かって歩きだしたが、あたしの足は動かなかった。自分だったら、と考える。もし兄が生きている保証なしに、彼の生存を信じて大陸全土を捜しまわる、なんて芸当が果たしてできるだろか。きっとこの竜も兄と同じく、尊大さに見合うだけの芯の強さを持ち合わせているのだろう。
 レンガ壁に挟まれた空間から抜け出すと、目線の先で、ジーヴは肉屋の主人と言葉を交わしている。
 ふと別の疑問がもたげた。ジーヴの一族を滅ぼした何者かは、人間である公算が一番強い。それはジーヴも分かっているはず。なのに、ぶつくさ小言を漏らしつつも、あたしとの旅路に付き合っていることや、ああして街にその身を溶け込ませていることが、今更ながら奇妙に感じられた。
 ととっ、とジーヴに駆け寄って、ねえと話しかける。

「あんたは、人間をどう思ってる。本当はあたしのことも、憎いんじゃないのか」

 ジーヴは眉根を寄せた。躾のよくない、噛み癖のある犬でも相手にしているような表情だった。

「お前の質問はいつも唐突すぎて疲れる。――よいか、竜は誰かを憎んだりしない。禍根を残すだけだからな。竜のなかに憎しみという感情はないと言ったろう。憎んでいたら、旅の初めにお前の提案を呑んだりしない」

 この旅程で見慣れてしまった、辟易した呆れ顔で応じる。こういう顔はよくするのに、ジーヴは本気で怒った試しがない。度量の大きさなのかもしれないが、それを素直に認めたくない自分もあたしのなかにはいる。
 ならいい、と言うとするが、ジーヴがすう、と目を細めてあたしを見つめたのが先だった。

「小娘よ、お前はどうなんだ。兄に再び会えればそれでよいのか。お前こそ、街を焼いた人間を憎いとは思わないのか」

 冷や水を浴びせられた気分、というのは、こういう心境をいうのだろう。
 無言で相対するあたしたちの周りを、顔に訝しさを貼りつけた街人が通りすぎていく。
 街に火を放った何体もの甲冑たち。その正体について、あたしはあまり考えないようにしていた。許せない気持ちは確かに強かったが、犯人を明らかにしたって、何かが解決するわけでもないと分かりきっている。あたしは兄のことばかり考えていた。正直、自分の気持ちが分からない。ただ、言えることがひとつ。

「……憎いのかどうか、よく分からない。でも許せないとは思うし、なんであんなことをしたのか、知りたい気持ちもある」

 火の海と化した故郷。
 何の目的があって、彼らはあれほどの蛮行に及んだのか。
 ふむ、とジーヴが神妙に頷いて、鋭い眇(すがめ)であたしをじっと観察する。彼の様子がいつもと違っていて戸惑う。

「それなら、俺の考えを話しておこう。頃合いかもしれんし」
「……え?」

 マイペースを崩さない竜の御仁は、くるりと体を反転させると、どこかへ向けてすたすたと歩き始めた。急速に遠ざかり、人混みに紛れんとする大きな背中を慌てて負う。

「ちょっと待て、考えって何なんだ。今言ったらいいだろ」
「いや、長くなりそうだからな、飯でも食べながらにしよう。ちょうど夕飯時だ。先刻、ここらで放牧されている羊が美味いという話を聞いた。それを食べさせる店にしよう」

 さっき肉屋とそんな会話をしていたのか。相変わらずちゃっかりしている男だ。

「あんたが勝手に決めるのか」
「何だ? 不満があるのか」
「別にいいけどさ……」
「ならば黙って着いてこい」

 それは最高に着いていきたくなくなる台詞だ、と言っても、この竜は絶対に耳を貸さないのだろう。
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