「橘せんぱい」耳元で放たれる、甘い声音。
 馴染みぶかい声の、しかし親しみのない呼び方に、背骨のあたりがぞくりと震える。俺は半ば無意識のうちに耳を手で押さえていた。
「急にどうしたの、先輩なんて……」困惑もあらわに入谷へ目をやると、彼は企みが成功した子供みたいな笑みを満面にたたえていた。

「おや、あなたが先ほど仰ったんですよ。僕らは先輩後輩だって」
「そんなこと……」

 心当たりがなくて視線がふらつく。いや、そうだと思い当たる。確かに言った。この施設に様々なタイプの部屋がある、という話題が出たときに。
 だからって、突然先輩と呼んでくるなんて――。

「橘先輩、僕の名前知らないでしょう? 僕はいつも先輩のこと目で追いかけてますけど、先輩はそうじゃないですもんね。僕、一年の入谷紫音といいます」

 どこか演じるように右手を胸に当て、相手が言い募る。俺は徐々にこの事態を飲みこみ始めていた。つまりここでは、俺たちは高校の三年と一年、先輩と後輩というわけだ。

「……それで? 入谷くんは、俺になんの用?」

 尋ねると、入谷の眸が猫みたいに細くなる。その奥にちらつくのは、俺が役に応じたことへの安心感だろうか。

「実は先輩にお伝えしたいことがあって来ました」入谷はベッドに手をつき、ぐいぐいと距離を詰めてくる。緩いバスローブの袷(あわせ)から、無防備な胸元がちらちらと覗く。「僕、偶然見たんです。先輩が隠れて煙草を吸ってるところ。真面目そうな顔してるのに、先輩ってそういういけない人なんですね」
 甘くとろかすような声に、こちらを非難し弄するような台詞。俺は社会人になってから喫煙者になったので、こうやって責められる謂(いわ)れはまったくない。ないはずなのに、いつの間にか入谷のペースに飲まれ、心臓の鼓動を速める自分がいる。俺は、彼に付け入る隙を与えてしまったのだ。

「それは違う。俺は――」
「違わないでしょう? ねえ先輩。この話は誰に言いません。代わりに、僕といけないことをしましょうよ」

 肩を押され、ベッドに倒れこむ。乱れたバスローブの上に入谷が馬乗りになってくる。彼の肉体の、生々しい重さと熱さ。

「いけないことって……つまり君は、俺を脅してるのか?」眉をひそめながら言うと、相手は気安く肯(うけが)う。
「まあ、そういうことです。先輩にとっても悪い話じゃないと思いますけど?」
「何が望みなんだ」
「先輩のぺニスをしゃぶらせて下さい」
「……っ」

 端正な顔立ちに似合わない、卑俗で直截(ちょくせつ)的な物言いに思わず顔が歪む。睨むようにして「君は、変態か」と問うと、なぜか相手は嬉しげに唇を吊り上げる。

「ふふ……いいですね、その目つき。たまらないです」

 言いながら、入谷の手が俺のローブを暴いていく。さっき裸でキスまでしたのに、初めて言葉を交わす相手に肌を曝すような、強烈な羞恥心が全身を襲う。入谷は余裕綽々といった様子だ。それが悔しい。俺が二学年も先輩だというのに。

「せんぱい」

 歌うような彼の表情はうっとりとしていて、いつもとはまるで別人だった。

「ねえ、橘先輩。えっちなことしましょう?」

 眼前にある整った顔が、とろかすような笑みを形づくる。見たことのない目をした彼が、そこにいた。
 入谷が俺の鼠径部に顔を近づけていく。果たしてこれでいいのか? 後輩の言いなりになって、体をいいように扱われて。俺みたいな目立たない男のぺニスをしゃぶりたいなんて、まともな人間の願望とは思えない。

「なあ……君、本気なのか」
「変態相手にしっかり固くしてるのは誰です? 何を今さら」
「く……」

 入谷の言うとおり、俺のそこは隠しようがないくらい膨張して起ち上がっていた。仕方ないだろ、と半分投げやりに内心で呟く。普段とは違った方法で翻弄されるのが、気持ちいいと思ってしまうのだ。つまり全部、この妙に色っぽい後輩が悪い。
 下着から昂りを取り出した入谷が、それを至近距離でまじまじと見つめる。やめてくれ。そんなに近くで凝視しないでくれ。
 はあ、と入谷が熱い息をつく。陶酔しきったように、愛しげに昂りに口づけする。

「先輩の、やっぱり大きい……。真面目そうな顔してるのに煙草も吸ってぺニスも大きいなんて、エロすぎます」
「やっぱり、って……」

 竿の部分に舌を這わせる入谷を見下ろしながら、呆然と呟く。

「ええ。先輩を遠くから見ながらずっと、立派なものをお持ちなんじゃないかなあって想像してたんです。だからあなたの弱みを見つけられてラッキーでした」

 入谷の狭そうに見える口が、大胆に俺の昂りを飲みこんでいく。彼は舌も指も実に器用だ。口と手を同時に動かし、陰茎にも陰嚢にも的確に刺激を与えてくる。
 頭を前後に動かしている入谷と、一度視線がばちりとかち合った。その挑むような眼差しに、不穏な快感が尾骨(びていこつ)から頭蓋へと這い昇る。

「はあ……っ、もう出る、から……」

 水分を含んだ髪をさらさらと梳(す)きながら喘ぐと、入谷はすんなり口を離してしまった。そして親指でぐっと鈴口を押さえてくるではないか。
 出したいのに出せないフラストレーション。焦って入谷の顔を見ると、相手は意地の悪そうな笑みを口に張りつけている。

「おや。さっきはあんなに嫌そうだったのに、いいんですか? そんなに物欲しげな目をして」
「入谷、くん。その手を離――」
「ね。先輩の体、もっと味わいたくなっちゃいました。犯してもいいですか?」
「……っ!」

 低い囁きに、肋骨の内側あたりがざわざわと震えた。入谷がちろりと血色のいい舌で唇を舐める。このまま俺は、食われてしまうのか。

「何も言わないなら、合意と見なしますけど。……事が終わってから文句を言うのはなしですよ?」

 ゴムを咥え、自らの後ろをくちゅくちゅと弄くりながら、入谷が迫ってくる。
 俺にできるのは、憎まれ口を叩くことくらいだった。

「……ずいぶん準備がいいことだ」
「お褒めに与(あずか)り光栄です」

 それと同じ言葉を聞いたのが、つい今朝だなんてとても信じられない。
 次の入谷の行動は素早かった。なす術もなく、入谷のほぐされた後孔に昂りが飲みこまれていく。それが信じられないほど気持ちいい。入った快感で達かなかったのが不思議なほどだ。

「ふふ。我慢しなくていいんですよ? 僕の中でいっぱい気持ちよくなって下さいね、先輩?」
「く……」

 入谷の腰が劣情を誘うようにいやらしく蠢く。その軽微なはずの刺激が耐えがたいほどに効いてしまう。下半身がぐずぐずに溶けているんじゃないか、と錯覚するくらいに。
 彼は片手を伸ばし、透明な粘液を垂らしながらそそり立っている自身の陰茎を、指の腹ですりすりと撫でた。挑発するような仕草に、全身がいっそう熱を帯びる。

「ほら、見えます? 先輩のがすごいから、僕のもこんなにとろとろになっちゃいました。あなたの、すごくいい……」
「っ、ああもう……!」

 もう我慢できない。俺は勢いをつけて上体を起こし、入谷をベッドに押し倒した。挿入したまま、体勢が逆転した格好だ。入谷は我慢しなくていいと言った。なら、俺だって好きにやらせてもらう。
 入谷の両足を抱え上げ、みっちりと肌が密着するところまで腰を進めれば、奥を抉られた入谷の細い顎が天を向き始めた。最初はゆっくりと中を味わうように、次第に激しく腰のものを突き入れる。ぐちゅぐちゅという濡れた音に、ぱんぱんという破裂音が乗り、いやらしい二重奏を奏でる。交接部は混ぜられたローションで泡立ち、セックスの激しさを目にも訴えてくる。
 先刻まで余裕たっぷりだった後輩はどこにもいない。掌では抑えきれない嬌声を指のあいだから漏らし、反り返ったぺニスから垂れ流される粘液で引き締まった腹部を濡らし、焦点の怪しい潤んだ双眸で俺を見上げてくる入谷がいるだけだ。
 繋がった相手は手をぎゅっと握り、シーツをくしゃくしゃに乱している。

「っはあ、ぁん、せんぱ……これ、激し……いっ」
「ねえ。こういうの、他の奴にもしてるの? 慣れてそうだもんね。好みの男の弱み握って、脅して、いっぱい搾り取ってるんだろう? 俺で何人目なの?」
「先輩、一回……一回止めてッ……」
「答えて。答えてくれたら止めてあげる」
「し、してません……、あなただけっ、です」
「へえ。そうなんだ?」

 約束どおり、俺は腰のスライドを止めた。二人とも相当息が上がっている。はあはあという熱く荒い吐息が室内を満たす。
 ふと見下ろすと、入谷の指先が濡れそぼった自分のそれへと伸びるところだった。途中でやめたから、むしろ辛いのだろう。その手をそっと押し退けると、物問いたげな視線が下から這い上がってくる。

「駄目だよ、一人で気持ちよくなるなんて。俺のに集中して。せっかく君の中にいるんだから」
「……せんぱい……先輩も、気持ちいいですか?」
「うん。すごく気持ちいいよ。君の中、熱くて吸いついてきてたまらない」

 入谷のいじらしくひたむきな視線を浴びながら、腰の運動を再開する。もうそろそろ本当に耐えられそうにない。腰の奥に溜まったものをぶちまけて、彼の中に刻みつけたくて仕方なかった。
 交わりながら、入谷の無駄な脂肪のない腹をすり、と撫でる。

「もう限界だな。出していい?」
「ん……先輩の、中に出して……奥に欲し、です……」
「ふ、う……!」
 入谷の足首を掴み、彼がねだったとおり、中の一番奥へゴム越しに精液を注ぎこむ。びくり、びくりという痙攣は俺の昂りのものか、入谷の中のものか、どちらであったのだろう。
 焦らしに焦らされ、ようやく解き放たれたぺニスを入谷の中から引き抜く。ゴムの処理をするのも億劫なくらい、特に下半身が怠くて、俺はやたら肌触りのいいベッドに倒れこんだ。汗ばんだ肩を上下させている入谷と正面から向き合う形になる。
「橘先輩、すごかったです。あなたとセックスしたなんて、夢みたい……」
 上気した頬を笑みで持ち上げながら、入谷が長い手足を絡みつかせてくる。しっとりした互いの肌はほぼ同じ温度で、抱き合うと二人の境目が溶け消えていくようでひどく心地よかった。
 入谷が俺の耳元に唇を寄せてくる。
「先輩……好き」
「!」
 どこまでも切実でまっすぐな響きに、心臓のあたりがじんと痺れた。
 俺をぎゅうと抱きすくめながら相手は続ける。
「あなたと一回えっちなことができたらそれで充分と思っていたけど……。やっぱり本当は……恋人になりたい、です」
 好き。恋人になりたい。その言葉は俺にとってかなりの衝撃だった。
 入谷に告白されるなんて。彼から恋人にと請われるなんて。全身をじわじわと不可思議な多幸感が包んでいく。
 押し黙った俺をうかがうように、腕の中にいる入谷が上目遣いでこちらを見た。
「駄目、ですか?」
「……駄目じゃない。そんなわけない。嬉しいよ」
「本当に? 僕も嬉しいです」入谷の指が頬に伸びてくる。
 俺たちはどちらともなく優しく唇を重ね合った。それは恋人が初めて交わすような、触れるだけの優しいもので。
 しばらくして、入谷が俺の頭を慈しむように撫で回す。その手つきで、彼が普段の恋人に戻ったのが分かった。
 入谷に続き、自分もベッドの上に身を起こす。
「ふふ。お互いずいぶん盛り上がってしまいましたね。柾之さん、ロールプレイお好きですか? またやりましょうね」
「……」
「柾之さん?」
「あっ、え? う、うん。そうだね」
 放心状態からようやく回復し、慌てて首を縦に振る。これが、ロールプレイ。告白だって何回もできるし、入谷から恋人になってほしいとも言ってもらえる。ロールプレイって、すごいな。
 ぽこぽこと湧いてくる温かい感情を噛み締めていると、入谷がこちらに上体を預けてきた。
「それにしても、こんな日が来るとは思いませんでした。あなたに変態だと罵られるなんて」
「あ、あれは」冷や水を浴びせられたように心臓がきゅっとなり、喉がひゅっと鳴る。思えば、入谷にずいぶんなことをたくさん言ってしまった。「いやその……あの場の勢いで口が滑ったというか、空気に当てられたというか、決して俺の本心ではなくて――」
「分かってますよ。むしろ僕は嬉しかったんです。普段は優しい人の罵声からしか得られない栄養がありますからね」
「何? それ」
 恋人の得意げな顔が妙に可笑しくて噴き出してしまう。何はともあれ、彼が怒っていたり、傷ついていたりしていないのなら万事オーケー、だ。
 そのあとは交代でシャワーを浴び、二人でゆったりと湯船に浸かった。裸で至近距離にいたらまた肌を重ねたくなるかと思いきや、終始和やかなムードでいられたのが不思議だった。
 風呂から上がり、せっかくなので今日入谷が選んでくれた服に袖を通す。そうしているうちにちょうどよい時間になっていた。
「それじゃあ、出ましょうか」
 出入口のドアのそばで入谷が促してくる。先ほどまで乱れていたことを一切感じさせない、俺の鉄壁の恋人。
 不意にこの場を離れるのが惜しくなり、俺は入谷の腰を後ろから引き寄せた。そして。
「君のことが好きだ」
 万感をこめて囁くと、腕の中の総身がぴくりと身動(みじろ)ぎする。
「どうしたんですか? いきなり……」
「俺はどうしたら、君の隣にふさわしい人間になれる?」
 自分はいきなり何を尋ねているのだろう。入谷もきっと訳が分からないに違いない。でもこうして顔が見えないときでないと、こんな情けないことは到底訊けそうにない。
 今日一緒に人混みの中を歩いてみて理解した。客観的にも主観的にも、俺にとって入谷は眩しすぎる存在なのだと。
 たぶん俺はずっと、そのことを頭のどこかで気にし続けていたのだ。
「今日のデートで痛感したんだ。俺じゃ君と釣り合ってないんじゃないかって……。君は周りの注目を集めるくらい綺麗だけど、俺は普通というか、平凡な人間だから。それで」
 言葉尻が奪われた。振り向いた入谷の唇によって。
 重なるだけのキスを終えた入谷が、間近から俺の目を覗きこんでくる。
「もしかして今日ずっと、そんなことを気にされていたんですか? 僕の恋人の方に注目しないなんて、みんなセンスないなあと思っていましたよ。僕のその言葉だけでは不足ですか?」
「……いや、それは」
 相手は微笑しているが、目つきは真剣だ。だから、それらの言葉が単なるおべっかではないのが伝わってくる。
 ふと、入谷の視線に寂しげな色が混じる。
「あなたが僕を好きだと言ってくれるのが、僕にとってはどれだけ奇跡的なことが、あなたにはきっと想像もつかないでしょうね」
 入谷の掌が頬に触れる。壊れ物を触るときほどに繊細な手つきだ。そんな風にしなくても、俺は壊れも傷つきもしないのに、と思う。
「釣り合うかどうかなんて、あなたが気に病むことではないでしょう。元はと言えば、僕が押しつけた好意に付き合ってもらっている関係なんですから」
「待って」聞き捨てならない台詞に語気が強くなる。「それはなんというか、違うと思う」
 片頬を覆う掌の上に、さらに自分の掌を重ねる。彼の手のすべらかな感触をしっかりと感じながら。
「押しつけたとか付き合ってもらってるとか、そういうことを言ってほしくない。もう俺たちは恋人同士なんだから、立場は対等じゃないかな。経緯のことなんかで、君は負い目に思わなくていいんだよ」
「ありがとうございます。あなたは好い人ですね」
 入谷が口元をほころばせる。
「それじゃあ、お互い気に病むのはなしということで、いかがです? 二人のことは二人で言葉を尽くして解決していけばいいし、他人の目にどう映るかなんて初めからどうでもいいでしょう。僕らの人生には関係のないことです」
 いつになく強い言葉で断言する入谷。でも、確かにそうだなとすんなり腑に落ちた。
「紫音くんの言うとおりだね。なんか……ごめん。情けないところ見せちゃって」
「いえ、むしろ良かったというか、ある意味で安心しました。心の柔らかいところを見せられる相手って、アラサーにもなるとなかなか見つからないですからね。恋人の僕にくらい、そういう部分を見せてほしいです」
「本当? 幻滅したりしてない?」
「まさか。逆にときめいちゃいました」
 心の柔らかいところ、という表現が妙に胸に刺さる。自分にそんな細やかな機微があることすら、長らく忘れていた。俺以上に、彼はこちらをいたわってくれる。俺の心が乾いた土だとしたら、入谷は温かく優しく降り注ぐ雨だろうか。
 対等だと言ったのは自分だけれど、やっぱり俺は彼に貰ってばかりだ。物理的にも、精神的にも。これからは自分も彼に返していきたい。返していかねばならないと決意する。
 入谷がドアを開ける前に、その決意を言葉に換えた。
「紫音くんも、何かあったら俺に見せてほしい。俺じゃ、少し頼りないかもしれないけど」
「……ありがとうございます。覚えておきますね」
 虚を突かれたように瞠目してから、入谷がいつもの華やぐようなほほえみを見せる。
 その刹那の沈黙のあいだに過(よぎ)った、逡巡にも似た陰のある表情が、視界にこびりついて離れなかった。
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