ぼくの前で哲くんがデミグラスソースのかかったオムライスを食べている。口の開き方はごく控えめで、咀嚼するときは目を閉じ、わずかに体を揺らして味わう。ぼくはその様を思わずじっと見つめてしまっていた。
 事務所の近所にあるファミレスは、昼食には少し早い時間だからか空(す)いている。
 相手が瞑目しているのをいいことに、ぼくは哲くんの楽しげな様子をじっくりと見つめた。元々の顔立ちは凛々しいのに、今の表情のなんと可愛らしいことか。彼とぼくは両想いなのだ、気持ちが通じ合ったからもう本心を隠さなくていいのだ、と何度も何度も事実を噛み締めてしまう。水槽の中の魚のように、ずっと同じ場所をぐるぐる行ったり来たりしていた日々と比べると、幸せすぎて嘘みたいな気すらしてくる。
 ぼくらは晴れて、恋人同士になったのだ。
 ――本当は哲くんに好意を伝えるつもりはなかった。

『哲くんはぼくの……好きな人だよ』

 体の自由を何者かに奪われた彼を助けるため、やむを得ずそう口走ったときには、終わった≠ニ確信したものだ。これでぼくらの関係は終わりだ、ぼくが不可逆的に破壊して粉々にしてしまったのだ、と。
 それなのに――哲くんもぼくを想ってくれていたなんて想像もしなかった。一年近い懊悩や煩悶は、もっと早く伝えていれば良かったなどという、甘い後悔に変わっている。
 お互い一人の時間と空間は確保した方がいいだろうとのことで、ぼくらの生活は大きくは変わっていない。二人で濃い夜を過ごしたあと、どちらかのベッドで一緒に寝起きすることはしばしばあるものの。
 今日はぼくの寝室のベッドで共に朝を迎えた。昨夜ずいぶん遅くまで付き合わせてしまったからか、ぼくが十時前に目を覚ましたとき、隣には哲くんの綺麗な寝顔があった。朝に弱い自分の方が遅く起きるのが常なので、ぼくはすやすや寝入っている哲くんの顔をまじまじと見つめた。つややかな黒髪が、頬や肩の上を流れているのがものすごくセクシーだった。
 やがて薄目を開けた彼は、ぼくに寝姿を見られていたと悟ると真っ赤になって慌てていたっけ。

「さ、颯季さん? 見てたんですか」
「うん。哲くんの寝顔が可愛かったからつい撮っちゃった」
「えっ! 駄目です、消して下さい……!」
「消せないよお。ぼくの心のカメラで撮ったから」
「な、な、何ですかそれ……」

 そんな会話を交わしたあと、朝食を摂るにも遅い時間になっていたので、ぼくが提案してファミレスでブランチを摂ろうという話になったのだった。驚いたことに、哲くんはファミレスの類いに行った経験がないらしかった。
「小さい頃、家族と行ったかもしれないですが……でも、記憶にないので未経験と一緒です」とは彼の言だ。
 ファミレスの席でメニューを見るなり、哲くんは目をまん丸にしてきらきらと輝かせた。

「こんなに料理の種類があるんですね! この中のどれでも頼んでいいんですか? ファミレスってすごいなあ」

 はしゃぐ様子を見ながら、ぼくはこみ上げてくる色々な感情のせいで目頭を熱くしていた。きっと彼は境遇が原因で、世の中にたくさんある楽しいことの脇を素通りして生きてきたのだ。それを悲しいとも思わず、平然と受けとめているのだろう。なんだかそれが、無性に悔しかった。こんなところで上司が突然泣き出したら哲くんも困るだろうし、なんとか落涙はこらえたけれど。

「何でも食べたいものをいくらでも注文してねえ。全部ぼくが持つから」
「え、でも」
「上司だもん。こういうところで見栄を張りたいんだよね。良かったらぼくのわがままに付き合ってほしいなあ」

 縦に長い体を縮こまらせている哲くんに、ぼくはにぱっと笑ってみせる。胡散臭いであろう笑顔は、自分にとって本心を巧く隠すことができる武器だ。
 相手は躊躇いながらも小さくうなずく。

「それは、その……もちろんです」
「うんうん。デザートにパフェも頼んじゃおっか。ぼくはチーズインハンバーグと抹茶パフェにしようかなあ。ポテトも二人で食べようよ」
「えっと、俺は……」
「ゆっくり考えていいからねえ」

 はい、と答えながらちょっと焦りを見せ必死で考えている様子が可愛い。自分に息子がいたらこんな感じなのだろうか。なんて、年上の立派な青年に対して抱く感慨としては不適切かもしれないけれど。

「颯季(サツキ)さん、食べないんですか……?」

 対面から声をかけられてはっとする。いけない、つい追想に浸りすぎてしまった。目の前で今まさにオムライスを食べている哲くんだって果てしなく可愛いのに。彼といると体が足らなくなる。
 やや不安げな哲くんに笑みを浮かべてみせた。

「んーん、大丈夫。食べてるよお。オムライスはどう? 美味しい?」
 哲くんが何やら表情を引き締める。「美味いです。――でも」
「うん?」
「俺はやっぱり……颯季さんが作ったオムライスが一番、好きです」

 頬をかすかに赤らめながら、それでもこちらの目を真っ直ぐ見て哲くんは言い切った。
 一瞬時が止まったような感覚に見舞われる。それくらいの衝撃がぼくを襲った。彼の真剣な顔を見れば、その言葉が単なるリップサービスじゃないことくらいすぐ分かる。正直、ぼくのオムライスなんて客観的には大した味じゃないだろう。けれど、好きな相手がストレートに一番と言ってくれたことが、自分でも驚くほど嬉しかった。
 胸の内側が熱くなる。ぼくは危うく、天を仰いで盛大な吐息を漏らすところだった。

「あ、ありがとう……哲くんにそんな風に言ってもらえるなんて、嬉しいなあ」

 ――帰ったら抱く。
 一人でひっそり決意する。昨夜さんざん抱いたけれど、今日は今日だ。
 その後も食事は順調に進んだ。お互いメインを綺麗に平らげ、パフェを迎える。哲くんは手元に来た洋梨のパフェを見て目を丸くしていた。瞳を輝かせながら、何層にも重なったパフェの側面をスマホで撮る姿が可愛らしい。パフェって何度見てもテンションが上がる食べ物だよね、分かる分かる、とぼくは内心うんうんと深くうなずいた。
 時おりお互いのパフェを味見しながら、ぼくらはすべての食事を終えた。ファミレスなんて一人で来たらすぐ食べ終わるが、こうして話しながらゆっくり味わうとより美味しい気分になる。
 会計を済ませて外へ出ると、昼過ぎでも過ごしやすいいい気候だった。秋晴れの空は淡く澄んでいて、頬を撫でる風は涼しさを含んでいる。大きく伸びをしたくなるような心地好い天気だ。
 自宅へ足先を向けようとした、その直前。

「あ、あの、颯季さん!」

 意を決したような哲くんの声に呼び止められて振り返る。彼は腹の前あたりでぐ、と拳を握りしめていた。

「どうしたの? 哲くん」
「その、天気もいいことですし、このままどこか遠出しませんか? 颯季さんが良ければ、ですけど……」

 今度はぼくが目を丸くする番だった。今日は祓い屋の仕事はお休みで、午後は部屋の模様替えでもしようかと思っていたけれど、なにも明日以降では駄目というわけでもない。
 哲くんから提案してくれたのが嬉しくて、にやけそうになるのをなんとか我慢する。

「いいねえ、そうしよっか。それってつまり、デートのお誘い?」
「う……あの、すみません、調子に乗って」
「謝らなくていいよお。誘ってもらえて嬉しいんだから」

 赤面する哲くんの頭を二往復だけ撫でる。
 好意を伝えあってから、彼はぽつぽつと自分の希望を伝えてくれるようになってきた。以前は己を抑えているのが端からも分かる様子だったのが、今は考えを言語化しようと頑張っているのがうかがえる。それは哲くん自身にとってもいい変化だと思う。申し訳なさそうにしながらもお願いをしたり頼ってきたり、そうされるとぼくは俄然やる気が出てくる。どうも自分は頼られると嬉しく感じる人種だったらしい。

「それじゃあ、どこ行こうねえ。哲くん、希望はある?」

 訊き返すと、哲くんは何か失敗に気づいたような表情になった。

「すみません、俺……普通の人がこういうときにどこ行くのか全然分からなくて。自分から言い出したくせに申し訳ないです」

 そう言ってしゅんと肩を落とす相手を見ながら、もしかして、という思いがにょきにょきと芽生えてくる。この子は誰ともデートしたことがないのだろうか。世の中の人間はこんな綺麗な子を放っておかないと思うし、交際経験がないということは考えにくいけれど――。

「だったら初めてをたくさん一緒に経験できるってことだねえ。んー、そうだなあ。ご飯はいま食べたから」

 ぼくはデートという単語から思いつく限りの行き先を指折り列挙していく。

「例えばカフェ、喫茶店、バー、居酒屋、遊園地、動物園、水族館、美術館、博物館、カラオケ、ショッピング、ライブ、映画館、史跡見物、温泉、バーベキュー、キャンプ、果物狩り、ドライブ、春は花見、夏は海水浴、秋は紅葉狩り、冬はスキー場とか? ぼくが思いつくのはそのくらいかなあ」
「みっ、みんなそんなに色々なこと経験してるんですか」

 目を白黒させている哲くんに向かって、安心させるようにほほえんでみせる。

「全員が全員ってわけでもないと思うよお。家でゆっくり過ごすのもデートに入るんじゃないかな。好きなことはそれぞれあって、例えばぼくはアウトドア系は苦手だし。虫がいっぱいいるからねえ」

 自虐的なことを言うと哲くんもふふっと釣られて笑ってくれる。
 自分とてそこまで経験豊富なわけでもないが、己の好みは分かっている。しかし哲くんは体質のせいでレジャーを楽しむことができていなかったから、何が好きなのかも分からない。これまでできなかったのならこれから経験すればいい。一緒に楽しめることを探っていくのだ。
 ぼくは腕を組んで思案する。

「これからふらっと行けるとしたら、そうだなあ……哲くん、映画館で映画を観たことはあるんだっけ?」
「ないっ、ないです」

 尋ねると反射的に背すじを伸ばした哲くんがぶんぶんと頭を振る。
 よし、とぼくは掌をぱんと合わせた。まずひとつ、決まりだ。

「じゃあ今日は映画を観に行こっか」
「は……はい!」

 ぱあっと顔を輝かせる想い人の前で、ぼくはこっそり体内の熱に向かって、鎮まれ鎮まれと念じていた。


 最寄りのシネコンまで電車で移動する。平日の半端な時間のため、車内の人は少なめだった。哲くんの隣を歩きながら、せっかくデートになるならもっとお洒落すればよかったと後悔する。この悔いは次回晴らそう。きちんとプランを練って、哲くんの初めてを二人でたくさん経験するのだ。
 駅ビルの内部にあるシネコンに到着すると、「うわ、こんなに広くて豪華なんですね……」と哲くんは物珍しそうにあたりをきょろきょろ見渡した。
 確かに、こうして改めてじっくり見ると映画館という場所は極めて異質だ。映画を観る、というたったひとつの目的に特化した空間。薄暗い照明も、絨毯が敷かれた床も、これから観る映画への期待を増していくための一種の装置のようだ。数時間、身動きを自ら制限して映像を観る、ただそれだけの空間。目的が限られれば限られるほど、その空間は贅沢なのかもしれない。
 上映されているタイトルが表示された液晶を見上げながら、ぼくと哲くんは何を観るか相談した。この選択は重要である。おそらく邦画のデートムービーはどちらの肌にも合わないし、SF映画はハラハラしてデートどころではなくなりそうだ。

「逆にホラー映画はありかもねえ。普段の仕事相手が霊だから、フィクションなら安心して観られるかも」
「確かに……でも仕事のことは今は忘れたくないですか?」
「うーん、それも確かに」

 そんな会話も経て、ぼくらは予告から明らかにハッピーエンドが約束されているアクションものを観ることにした。やっぱり映画館で観るならスクリーン映えはするに越したことはない。平日のこの時間に、三分の一ほど座席の予約が入っているのを勘案すると、かなり人気のある作品のようだ。
 次の上映までには一時間近くある。「そのへんぶらぶらしてみようか?」と提案して、二人で駅ビルの中を見て回ることにした。ふむふむこれはなかなかにデートっぽいぞ、とぼくは一人で含み笑いを漏らす。
 広大なフロアにたくさん入っているショップは、大半は女性向け店舗だ。ひとつひとつ個性を打ち出しているが、皆一様にきらびやかでなんだか現実味がない。通路のところどころにうっそりと霊が佇んでいるのが、装飾の一部みたいにも見える。悪さをする雰囲気ではないので、ぼくらは気づかぬふりをした。
 これだったら階を移動して食べ物を見た方がいいかな、と考えていたところ、

「あ、ここ見てみてもいいですか?」

 哲くんが指差したのはメンズのアクセサリーショップだった。他の店舗に比べて少しだけ物々しい空気感がある。ちょっと意外に思いながらも「もちろん」とぼくはうなずいた。
 ネックレス、指輪、ピアス、ブレスレット、たくさん並べられたそれらはほとんどが金属製だ。哲くんにこういう厳ついイメージはないので、不思議に感じつつ彼の横顔を見やる。そこにはなんだか真剣な目をした青年がいた。

「哲くん、こういうの好きなんだ?」
「あ、えっと……俺じゃなくて、颯季さんに似合いそうだなと思って」
「ぼくに?」思わぬ言葉に目を瞠る。
「はい。颯季さん、ピアスとか似合いそうだなって、前から思ってたんです。ピアスホールはあけないんですか?」

 哲くんの赤みが強い焦げ茶色の瞳がこちらを捉える。そんな印象を持ってくれていたなんて全然知らなかった。
 きっと褒め言葉なのだろう。ただぼくは、生涯で一度もピアスホールをあけたことがない。あけようとも思ったことがない。なぜならば。

「考えたことなかったなあ。ピアスホールをあけるのって、ちょっと……痛そうじゃない?」

 体に穴をあけると考えただけでほんのり身を竦めたくなってくるくらいだ。こんなナリなので全身タトゥーだらけなんじゃないかと思われることもあるけれど、刺青なんてもっと無理だ。想像しただけで身震いが来る。
 ぼくの返答を聞いた哲くんは、目を二、三度またたいたあと、口元を押さえてふふっと笑いだした。腹の底から突き上げてくる可笑しさに耐えきれなくなったというような、自然で朗らかな笑い方だった。
 哲くんが大笑いするところを初めて見たぼくは阿呆みたいにぽかんとしてしまう。

「す、すみません。こんな笑っちゃって……でも、颯季さんがそんな風に気にするの、ちょっと意外で。失礼ですよね……」

 哲くんは口の端に笑みを残しながら、目元に浮かんだ涙を指先で拭う。彼が笑い転げる様は、可憐な花がほころぶようで――そう、まさしくぼくが好きなスズランの花のような笑顔だった。
 突然凄まじい破壊力を見せつけられ、膝から崩れ落ちそうになるのをなんとか堪える。一呼吸置いて心臓を落ち着かせてから、余裕のある表情を取り繕って口を開く。

「全然失礼じゃないよお。むしろ、哲くんのいい笑顔が見れて嬉しいっていうか。……ピアス、せっかくだからお揃いでつけようか?」
「お揃い?」今度は哲くんが瞠目する番だった。
「うん。お互い片耳ずつホールを作って、一組のピアスを片方ずつつけるの。どうかな」
「お、俺と、颯季さんが?」

 提案に動揺をあらわにする哲くん。それも仕方のないことだろう、ぼくだってこっ恥ずかしいアイデアを口にしている自覚がある。こういうのは照れた方が負けだ。
 想像してみたのか、哲くんは頬を鮮やかな朱色に染めていた。

「どうだろう、嫌かなあ」
「い、嫌ではないですけど、その……恋人みたいで恥ずかしいなって、思って……」

 指を絡ませてもじもじしている奥ゆかしい青年を見ているうちに、いつもの調子が戻ってくる。
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