力が抜けた俺の顎からサツキさんの手が離れる。自由の身となった両手で、彼はこちらの頬を包んだ。やや痛いくらいの力で引き寄せられ、真正面から目線がぶつかる。

「哲くん……ぼくの声、聞こえる?」

 ぐるる、と俺の喉から唸り声が絞り出される。それはもはや人間ではなく、獣の鳴き声そのものだった。当然だ。自分は犬なのだから。
 サツキさんの掌が優しく髪を撫でてくる。いたわるようなスピードが心地よく、うっとりしそうになる。サツキさん、好き。言うことを聞くから、捨てないで。あなたの犬でいさせて。
 ご主人様はこちらの耳元に唇を近づけ、囁いた。

「哲くん、ほら。右側を見てごらん」

 とろんとしたまま、素直に右を向く。壁際に大きな姿見が設(しつら)えてあって、サツキさんに覆い被さる俺の姿が映っていた。
 黒髪の、見慣れた容姿の青年とばちりと目が合う。目だけが野生動物みたいに炯々(けいけい)と輝いているが、それ以外はなんということのない、いつもの自分だった。立ち耳があるわけでも、全身が毛に覆われているわけでも、くるんと巻いた尾が生えているわけでもない。全身から熱狂的な興奮がさあっと引いていく。赤熱していた思考が急速に醒めていく。
 どう見たって、ここにいるのは犬ではなく、ただの――。

「哲くんは人間だよ。哲くんはぼくの……好きな人だよ」

 サツキさんが低くゆっくりと、噛んで含めるように言う。
 人間。人。好きな人。好き。誰が? サツキさんが、誰を。

「……えっ!?」
「あ、人の声出たあ」

 驚きすぎてばっと身を起こした俺の下で、サツキさんがほっとしたように笑った。
 ものすごいスピードで回復する、自意識の存在。

「哲くん、喋れる? もう体、動かせる?」
「あー……はい。大丈夫、みたいです……」

 混乱の極みにありながらもなんとか返事をし、両の手を不規則に動かしてみる。うん、なんともない。完全に、自分の体のコントロールが戻ってきた。
 そんなことより、己がしでかした奇行への羞恥心が今になって大波として押し寄せ、もうどうにかなりそうだった。むしろ、どうにかされてしまいたかった。

「あのっ、本当にごめんなさい! 俺、サツキさんになんてことを……」
「やー、気にしないで。哲くんの意志じゃなかったんでしょう? 指はちょっと痛いけど平気平気。それよりも……乳首を舐められたのが恥ずかしかったしびっくりしたかなあ」
「ひいっ! すみませんすみません!」
「んー、嫌なわけではないんだけどねえ……」

 ほんのり頬を朱に染めながら身を起こし、シャツを直すサツキさん。ベッドから降りた俺はまさしく平謝りで、ぺこぺこと頭を何度も下げた。
 まともに相手の顔も見られぬまま、弁解めいた釈明をする。

「自分が犬になる夢を見てたんです。それで目覚めたら、体のコントロールが利かなくなってて……。サツキさんが来てくれなかったら完全に乗っ取られて、手遅れになってたと思います。あれは一体なんだったのか……」

 サツキさんの表情が引き締まる。真面目な顔をして、彼は思案げに顎を撫でた。

「犬の夢ね。それで合点がいったよ。哲くん、前にも犬の鳴き声が聞こえるって言ってたでしょう? さっき目線を合わせたとき、哲くんの背後に犬のイメージが浮かんできたんだ。それも一頭じゃなくてたくさん。たぶんだけど、この近くで亡くなった犬たちの霊が取り憑いてたんじゃないかなあ。長年に渡って累積されてた地縛霊がね」
「人間以外も地縛霊になるんですね」サツキさんの分析にほうと息を吐く。
「よほど心残りがあればそうなるね。ぼくが渡したお守りは人間霊専用だったから、犬の霊には効果がなかったんだと思う。いやあ、迂闊だったなあ。でもなんで哲くんにだけ……」

 サツキさんが苦渋に眉を曇らせ、がりがりとこめかみを掻く。責任を感じているらしい雇い主の前で俺は内心慌てた。サツキさんに非はまったくなく、すべての原因は自分にあるのに。俺はおそらく……彼らにシンクロしすぎたのだ。

「あの……サツキさんには何の責任もないです。完全に俺のせいです。俺がいつも、自分は犬、自分は犬だって言い聞かせてたのが原因だと思います。それで犬の残留思念みたいなものに、同調しちゃったんじゃないかと……」

 サツキさんが目をまばたいた。

「哲くんが犬? どうして?」
「俺はサツキさんに拾われて救われたので……だから、俺にとってサツキさんは飼い主というか、ご主人様というか。ご主人様の言いつけを守って最低限の生活ができれば充分だって、それで満足する忠犬になれって、自分をいつも戒めてました」

 俺の下手な説明を聞いたサツキさんは、瞠目してからしょんぼりと肩を落とす。

「そっかあ……君がそんな風に考えたなんて、想像もしたことなかったよ。ぼくは哲くんと対等な立ち場の人間でありたいと思ってたけど、雇用の関係上それは難しいよね。気をつけて接してきたつもりだったけど、哲くんにそんな辛い思いをさせてたなんて気づかなかった。ぼくは雇い主失格だなあ。ごめん……」
「いっいや、俺が勝手にそう思ってただけなんで! サツキさんは良い雇い主ですよ」

 意気消沈して頭を垂れるサツキさん。焦って両肩を支えれば、彼はゆらりと面(おもて)を上げて力なく笑ってみせる。

「本当? なんかぼく、言わせてない?」
「そんなことないです。だって俺」

 ――あなたのことが、本当に好きなんですよ。
 そう続けることを、躊躇ってしまう。
 小首を傾げて「?」の表情をする雇い主に見つめられ、思わず視線を逸らす。場を取り繕おうと、話題を変えることにした。

「あの、そういえばさっき、好きな人って……」
「あー、あれは……突然変なこと言ってごめん。驚かせちゃったよね」

 サツキさんは歯切れ悪く、ものすごく気まずそうな顔をして言う。ああ、と俺はやっと諒解した。何者かに取り憑かれた助手を助けるため、彼は敢えて突拍子もないことを口にしたのだ、と。俺が好きだなんて、真実であるはずがない。当然のことだ。
 それなのに、視界がじわりと滲むのが情けない。俺がサツキさんと釣り合うはずがないのに。

「いえ……そんな」
「ずっと黙ってたけど、ぼくね……哲くんのこと好きなんだ。その、性的な意味で」

 ほら見ろ、サツキさんは俺のことを性的な意味で好きで……え?
 いま、彼は何と言った? 呆気に取られるとはこのことを言うのだろう。ぽかん、と馬鹿みたいに口を開けて相手を見つめる。
 両手を無意味にわたわたと動かし、頬を紅潮させたサツキさんがそこにいた。

「こ、こんなこと急に言われても困るよね! 本当にごめん。あ、最初に声かけたときは完全にビジネスライクな気持ちで、邪(よこしま)な感情はなかったんだよ。信用ないと思うけど」
「あ、いや……そんなことは」
「除霊を手伝ってもらってるうちに、哲くんの無防備な顔とか、綺麗な項(うなじ)とか見るとムラムラ来ちゃうようになって……あ、でも無理にヤりたいとかそういう感情はないから! できれば一緒に気持ちよくなりたいっていうか……あーもう、ぼく変なこと言ってるね……」

 いつも飄々としているサツキさんがあからさまに狼狽(うろた)えている。ほとんど頭を抱えそうになるほど混乱している彼を見るのは初めてだった。しかも、俺に関することでこんな風になっているのだ。信じられなかった。
 サツキさんの独白は自虐的な方向に転がっていく。

「除霊のときもね……哲くんを哲くんとして抱きたいから、降ろした人の名前で呼ばなかったりしてたんだ。哲くんには意識がないから、関係ないのに……気持ち悪いよね、そういうの」

「え」思いがけない告白に目を瞠(みは)った。言われてみれば情事の際、俺は確かに体を貸した人の名で呼ばれた覚えがない。サツキさんがそんなことを考えていたなんて。
 俺は少々ばつが悪い心持ちになりながら、胸に仕舞っていた事実を伝えた。

「気持ち悪くないですよ。それに、俺も隠してたことがあります。降霊してるとき、ほんの少しだけだけど自意識があるんです。俺のままでいるとサツキさんがやりにくいかなと思って、今まで嘘ついてました。本当に、すみません」
「えっ、そうなの? うわー、恥ずかし……」

 サツキさんはとうとう、両手で顔を覆ってしまう。

「じゃあ、ぼくが除霊をわざと長引かせようとしてたのも……分かってたってことだよね?」
「あ、それってマユミさんのときの……?」
「あああ、うん、そう……。哲くんの反応が可愛くて、もっと見たいと思っちゃって、それであんなことを――」

 サツキさんはあのとき、俺が達しそうになるのを鈴口を塞ぐことで防いだ。あれはつまり、俺と繋がっている時間を引き伸ばそうとしたからなのか。祓い屋としては非難されるべき行為なのかもしれないが、それでも。
 嬉しいと思ってしまった。だって、ずっと一方通行だと信じていた矢印が、相手からも自分に向かってきていたなんて、誰が想像するだろう。
 そのとき不意に、遥か遠くの方から犬の遠吠えがかすかに響いてきた。瞬間、理解する。俺はサツキさんを噛みたいと思っていたわけではない、ということを。
 この人■■噛みたい――そうではない。
 この人■■伝えたい。
 俺は本当は伝えたかったのだ。俺がどれだけ、サツキさんに好意を抱いているかを。たとえそれが、二人の関係を決定的に変え、自らの立場を危うくしてしまうことであっても。

「あの、俺も。サツキさんのこと、ずっと好きでした」

 ほろりと気負いなく零れた本音。
 刹那、サツキさんの目が大きく見開かれる。「えっ!?」と頓狂な声が上げ、相手が弾かれたように立ち上がる。鼻先が触れ合いそうな距離に気後れし、反射的に一歩下がったところを、相手がずいと詰めてきた。ち、近いです、サツキさん。
 いつもは脱力して垂れぎみになっているサツキさんの眉が、きりりと平行に近くなっていた。緊張感漲る、迫真の表情である。

「好きって、ほんとう?」
「はい。たぶん、俺の方が先に好きになってたと思います。だからあの、全部……嫌じゃないですよ。むしろ、嬉しいというか……サツキさんに好きと言ってもらえるなんて、信じられないくらいです。――サツキさんのことを考えて、一人でしたりしてたので」

 息を飲む気配がする。自慰のオカズにしているだなんて引かせてしまいそうだが、サツキさんも腹の内を明かしてくれたので、これでイーブンだ。
 そろりと手が伸びてきて、こちらの指先をやんわりと握りこむ。

「そうだったんだね。ぼくたち、知らないあいだに両想いだった……ってことかあ」
「そうみたい、ですね」

 腕を差し伸べれば抱擁できる距離で俺たちは見つめ合う。いつしか甘い雰囲気に飲まれていて、慣れない空気にそわそわするものの、それでも目を逸らそうとは思わない。
 これまで好意を表に出さないよう、必死に圧し殺してきたけれど、いま相手に対する互いの感情は開示されてしまった。
 じゃあ――もう我慢しなくていいってこと?

「ぼく、もう我慢しなくていい……?」

 俺の心理を読んだような言葉にはっとする。サツキさんは切ないほど真摯な、それでいてぎらぎらした瞳を俺に向けていた。こちらがうなずききらないうちに、性急に唇が重なる。
 ぶわりと体温が上がって、胸の内側に大輪の花が次々と咲くように思えた。経験したことのない多幸感にくらくらする。

「ん、ふ……」

 サツキさんの指がシャツの裾から中に入ってくる。そこで気づいた。さっきまで自分がうなされながら眠っていて、汗びっしょりで飛び起きたことを。
 慌てて俺よりやや小柄な体躯を押し退ける。

「しゃ、シャワー! シャワー浴びさせて下さい、いま汗臭いと思うんで……!」
「ぼくは別に気にしないけど……哲くんが気になるなら。あ、そうだ」

 サツキさんが良いことを思いついたと言わんばかりににぱっと笑う。

「一緒に入ろっか」
「えっ」
「駄目かなあ? まだ今の哲くんを一人にするのは心配だし……何もしないから。ねえ、いいでしょ?」

 うう、狡い。そんな上目遣いでねだられたら断れるはずがない。
 ばくばくと存在を主張する心臓に鎮まれ鎮まれと念じながら、俺は小さく首を縦に振った。


 日中のバスルームには日光が柔らかく射し込み、白い壁が眩しいほどだ。俺もサツキさんもタオルも何も身に纏っておらず、完全なる裸身だ。外面だけでなく内面も外気に曝け出ている気がして、一秒たりとも落ち着かない。
 どきまぎして壁際で突っ立っている俺とは対照的に、サツキさんは上機嫌で、ボディソープをもこもこと泡立てている。
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