俺がサツキさんと出会ったのは、今から一年ほど前だ。出会った、というか――正確には拾われたと表現する方がきっと正しい。
 サツキさんに見出だされ、俺の人生は一変した。あれからまだ一年、もしくはもう一年。事態の変わりぶりに今さらながら驚いてしまう。
 サツキさんに見つけてもらう前、俺はどん底の底の底にいた。


 物心ついた頃から人ならぬ存在が見えていた。
 幼い頃はそれが何なのか理解しておらず、恐怖心も芽生えていなかった。言葉を覚え、見たものを他人に伝えられるようになると、まず困惑させたのは両親だった。そんなものいないよ、と諭されるのだが、俺にははっきりと見えているのだから納得できようはずもない。小学校に上がり、己の目には他の同級生と違うものが見えているのだ、と理解するまでに俺はたくさんの失敗をしでかした。この世ならぬ存在がそこらじゅうにいると声高に主張して回るなど、今考えれば愚かとしか言い様のない行為だ。
 それからは視える者が辿るお決まりのパターンだった。俺は周囲から嘘つき呼ばわりされ、疎まれ、遠まきにされ、仲間外れにされた。つまり、俺は完全にコミュニティから孤立したのだ。
 自分には友達と呼べる人はひとりもいない。誰かを好きになったこともない。というより、自分に誰かを好きになる資格などないと思っている。俺が口を開くとみんな嫌そうにする。俺なんて、存在しない方がいい人間なのだ。
 唯一、両親との関係が最悪でなかったことだけが不幸中の幸いだろうか。彼らは腫れ物に触るような扱いをしつつも、テーブルを囲んで食事を摂ったり、球技で遊んでくれたりした。ただ、休日に遠出してテーマパークで遊ぶことなどは一回もできなかった。俺が、変なものを見て怖がる可能性が高いからだ。
 なんとか高校を卒業した後、俺は地元を出て都会にやってきた。家族との関係が悪化したわけではない。彼らの真綿のような優しさが苦しくなったのだ。きっと両親も、おかしな息子が家を出てほっとしたに違いないと思う。俺はあんな優しい人たちのそばにいるべきじゃない。
 ――だが、その判断が正しかったのかどうか、今となっては分からない。俺は過去のいつかの時点で、この世から去っていた方が皆のためだったのかもしれない。汚水と生ゴミの臭いがする路地に座り込みながら、ぼんやりとそんなことを思う。
 もう何日もまともに食べていなかった。都会に出てから職を転々としていたが、細々と続けていた清掃のバイトもこのほどクビになってしまった。人とそれ以外の存在の区別がつかないのだから、仕事が長続きするはずがない。にこやかだった同僚の目が、化け物を見る目に変わる様を、一体何回見てきただろう。そのうえ泣きっ面に蜂で、再開発のために立ち退きを要求され、格安のオンボロアパートという住まいも失っていた。
 ふらふらと彷徨(さまよ)った挙げ句に辿りついた、じめじめとした汚らしいコンクリートの地面にうずくまる。秋口の夕方が暮れようとしていた。鴉(からす)の鳴き声が俺を苛む。惨めだ。こんなの、もはや人間じゃない。野良犬だって俺ほどは惨めじゃないはずだ。
 心臓の周りからひたひたとどす黒い感情が侵食してくる。この刺すように冷たい感情が、絶望というものだろうか。
 何もかも分からなくなって、何もかもどうでもよくなった。あまりに馬鹿野郎しい。なぜこんなに頑張って生きてきたんだろう。なぜ生きなきゃいけないんだろう。生きてたって、何の見返りも、希望も、成し遂げたい夢だってないのに。
 別にいいか、生きなくたって。薄汚れた獣は獣らしく、野垂れ死ぬのがお似合いだ。

「こんなところにいたんだ? 捜したんだよお」

 思考を分断して突然割り込んできた声に、はっとする。
 俯(うつむ)けていた顔を反射的に上げると、そこにはやたら胡散臭い男がいて、腰を屈めてこちらを覗きこんでいるのだった。カラーサングラスを無造作に外した相手が俺をしげしげと見てくる。妙に間延びした声と裏腹に、その人物の目つきは鋭い。
 それ以上に視界に飛び込んでくるのが、柄シャツに幾何学模様のセットアップという、柄オン柄の攻撃的な服装だった。辺りは薄暗いのに、周囲を威圧するような派手な模様がはっきりと見える。
 思考回路がさっと切り替わる。まずい。明らかにカタギではないチンピラに、こんな逃げ場のない場所で絡まれてしまうなんて。咄嗟に腕を前に持ってきて自らの体を抱くようにする――そして、内心で自分を嗤った。先刻まで死んでもいいやと自暴自棄になっていたのに、実際に身に危険が及んだらちゃんと防衛本能が働くなんて、人間とは皮肉な存在である。
 男はよく見れば最初の印象より若かった。おそらく俺より年下の青年だ。だからといって、危機的状況が変わるわけでもない。
 青年は目元を弓形(ゆみなり)に緩ませた。爽やかさはなく、キツネみたいな胡散臭さがさらにいや増す。

「初めまして。ぼくサツキっていいます。よろしくねえ」
「あ、あの……俺、金とか全然持ってないんで……」
「んー? 金って?」相手はぱちぱちと目をまたたく。「やー、清掃業やってる逸材がいるってうちらの情報網で話題になってたんだけど、パッと見ですごいって分かるね! 予想以上だよ。話に聞いてたより全然素晴らしいよ、君」
「はあ……?」

 なんだか話が噛み合っていない。というか、何を言われているのかまったく理解できない。
 ――とりあえず、危害を加えられそうな感じではないかも。
 となれば俺が取るべき行動はひとつだ。そろそろと立ち上がりながら相手の出方をうかがう。三十六計逃げるに如(し)かず。
 しかし、逃走は叶わなかった。一歩を踏み出す前に、当の青年が「ぎゃっ」と蛙が潰れたような叫び声を上げ、ひしと俺に抱きついてきたからだ。
 え、なに、何? 身内以外の人間にこんなに接近されたのは初めてだ。なぜだかどぎまぎしてしまう。それにこの人、なんだかすごくいい匂いがする……なんて、うっとりしてる場合じゃないだろ。
 イレギュラーすぎる状況に思考停止している俺の腕の中で、相手は泣きべそをかくぎりぎり一歩手前といった様子で面を上げた。顔が近い、近すぎる。俺の方が少し背が高いものの、初対面でしていい顔の距離ではない。

「ごめ、今そこにっ、虫が飛んできて!」
「え? 虫……ですか?」

 至近距離から思わぬ言葉が飛び出てきて、目をしばたたいてしまう。この人、虫が苦手なんだ……この世に何も怖いものなんてないような外見なのに。
 チンピラみたいな男がテンパっているのが妙に可笑しくて、ふっと笑ってしまう。そうしてから、笑うのなんていつぶりだろう、と心臓のあたりががすっと冷める。数年ぶりの笑みで、俺の口の端は引きつれのように不恰好に歪んでいた。
 目の前の青年は落ち着きを取り戻したらしく、ややばつが悪そうな顔でごめんねえ、と軽く手を合わせる。

「初対面なのに変なとこ見せちゃったね。ぼく、足が六本以上ある生き物が苦手でさあ。それで、本題なんだけど」

 す、とサツキと名乗った男が右手を伸ばす。何かを貰い受けようとするように、掌を上にして。

「君をスカウトしに来ました。良かったら事務所で話さない?」
「…………はい?」

 スカウトって、なんだ? まさか芸能事務所のスタッフではあるまいし。もしかして、ヤクザの舎弟になれということなのか。
 返事ができず困惑していると、

「あ、ちなみに反社じゃないからそこは安心して。ぼくのこのナリで誤解されがちだけど」

 相手は上目遣いでこちらを見ながら「君さ、視える人でしょう?」と問うた。
 その少しだけ低くなった声音に息を飲む。なぜ分かったのか。もしかしてこの人も同業者≠ネのか。内心の疑念を読んだかのように、男はサングラスをかけ直しながら「ぼくも視えるんだよねえ」といたずらっぽく笑う。

「良かったらゆっくり話をしない? 詳しく内容を説明したいからさ」
「……行きます」

 得体の知れない誘い。そのはずなのに。
 俺は自分がためらいなくうなずいたことに驚いていた。
 どうして是と答えたのかと問われたら――自分以外の視える人間の話を聞いてみたい。咄嗟にそう思ったからに相違なかった。


 幹線道路に出てタクシーを拾う。タクシーなんて贅沢な乗り物、二十七年間生きてきて初めて乗った。
 促されて俺が先に乗りこむと、運転手に刺すような目付きで睨まれたものの、結局は何も言われなかった。何日も風呂に入れていないのだ、異臭がするのだろう、とそこで初めて自覚する。そしてさっき抱きついてきたサツキさんは何も指摘しなかったな、と思い出す。苦手な存在の襲来を受けたとはいえ、躊躇なく薄汚れた男に密着できるなんて変わった人である。

「そういえば名前聞いてなかったねえ。良かったら教えてくれる?」

 行き先を運転手に伝えてから、隣に座る青年が俺に訊いてきた。本名を名乗るのを一瞬だけためらうが、ちょうどいい塩梅の偽名など咄嗟に出てくるはずがなく、正直に答える。

「……乾(いぬい)です。乾哲成(てっせい)。乾は一文字 (ひともじ)の乾、哲学の哲に、成立の成です」
「哲成くんかあ、格好いい名前だねえ。うーんそれじゃあ……哲くんって呼んでもいいかな?」
「え、はあ。どうぞ、ご自由に……」

 無邪気な様子のサツキさんの隣で盛大に戸惑う。下の名前で呼ばれる機会すらこれまでほとんどなかったのに、さっき初めて会った人からいきなり愛称で呼ばれるなんて。この人は物理的な距離も精神的な距離も一気に詰めすぎではないか。そう思うのに、不快ではないのが不思議だった。
 十分ほどの移動を経て降車したのは、大通りから二本ほど脇道に入ったところにある、寂れたビルの前だった。その一角にサツキさんの言うところの事務所はあるという。人通りは疎(まば)らで街灯は少なく、夕暮れ迫る辺りには治安の怪しい雰囲気が立ちこめ始めている。

「ここがぼくの職場ね」

 サツキさんがビル三階の『鈴蘭特殊事象相談所』なる看板を指差す。何をしている事務所なのか分からないし、そもそもの立地が悪すぎる。少なくとも、看板を見てふらっと立ち寄れる場所ではない。
 ――目的があって、ここを目指している人以外には。
 そう思うと、ふっと背筋に悪寒が走る心地がした。悪い予感のようなものを振り払うべく、

「鈴蘭って、サツキさんの名字か名前なんですか?」
「いやあ、単にぼくが好きな花ってだけだよ。そんなステキな名前だったら良かったんだけどねえ」

 気になったことを尋ねると相手は苦笑した。
 事務所へ続く階段をのぼるとき、サツキさんは俺を先に行かせた。ここまで来たらもう、何も聞かないで引き返すことはできまい。喉のあたりに酸っぱいものが込み上げてくるのを、俺はなんとか飲み下して抑えた。
 事務所の中は薄汚れた外見とは裏腹に綺麗な印象だった。というよりも、普通すぎる。サツキさんが灯りをつけると、一般的なイメージそのものの応接室が目の前に現れた。什器もシンプルで実用重視のものに統一されていて、素っ気ないほどに無機質だ。
 未だ全容が掴めない『特殊事象相談』とは、一体何なのか。
 ドアの近くで突っ立ったままの俺を尻目に、サツキさんはこちらに向き直ってほほえんだ。

「さっそく説明を始めようかと思ったんだけど、もしかしたら先にシャワー浴びてきてもらった方がいいかも。哲くん、それでもいい? 事務所の奥にお風呂場があってね、着替えも新品のカミソリも出すし、タオルも棚の中のを好きに使っていいから」
「あ……はい」

 提案されて頬のあたりが熱くなる。やはり俺は臭いのだ。サツキさんも顔色に出さないだけで、心の中ではこちらを蔑んでいるのだろう。必要なものを手渡され、すごすごと浴室の方へ向かう。
 応接室の奥には居住スペースがあり、キッチンや浴室が備え付けられていた。ベッドルームの扉が薄く開いており、隙間からサツキさんの寝床と思われるベッドを垣間見てしまいどぎまぎする。
 脱衣場で薄汚れた服を脱ぎ去り、不慣れな形のシャワーに若干まごつきながら湯を浴びる。蓄積した汚れを完全に落とすべく丁寧に髭を剃り、何やら高級そうな匂いのするシャンプーで伸びっぱなしの髪を洗い、ボディーソープを念入りに泡立てて全身の隅々まで清める。
 初めて会う人についてきて、初めて入る事務所の浴室で裸になっている。なんだろう、このシチュエーションは。現実感のなさにぼうっとしていると、がらっと引き戸が開く音に続き、「哲くーん、使い方分かるー?」とサツキさんのやや大きな声が響いた。

「だ、大丈夫です!」

 その場で飛び上がりそうになりながらなんとか声を返す。自分の防御力が一番低くなったときに近くに人の気配がするというのは、こんなに不安なものなのか。
 サツキさんが貸してくれた少しだけサイズが小さいTシャツとジャージの下を身に纏い、脱衣場から出る。応接室の革張りのソファの上で、サングラスを外してジャケットを脱いだサツキさんが寛いでいた。

「あ、あの……お待たせしました」

 なんと声をかければ分からず、おどおどと声をかける。
 サツキさんはこちらに視線をやると、わお、とおどけように両手を広げる仕草を見せた。

「イケメンくんだ。湯上がり美人だねえ」
「え? いや、そんなことは」

 お世辞でも褒められたことなどないので、どう対処すればいいのか反応に困る。サツキさんは気にしていない様子で、彼の対面にあるソファを掌で勧めた。
 ぎこちなくそこに腰を下ろし、身を乗り出してにこやかに微笑するサツキさんと相対する。思わずごくりと唾を飲む。これから何を聞かされるのだろう。そういえば、この事務所には他に人はいないのだろうか。

「それじゃあ、仕事の話を始めるねえ。気になったことがあればいつでも質問してくれていいから」
「……はい」
「まずこの相談所の説明だね。ぼくはここ、鈴蘭特殊事象相談所で所長をやっているサツキです。所長といってもメンバーはぼくしかいないんだけど。……特殊事象っていうのは、まあストレートに言うと心霊現象のこと。どこに相談していいか分からないような、超常現象の相談に乗っていてね、特に人間の霊を祓うのを専門にやってるんだ。ま、端的に言うと除霊だねえ。ぼくは祓い屋なんだ」

 心霊。超常現象。除霊。祓い屋。常識的な人間が聞いたら眉をひそめ鼻をつまむような単語がぽんぽん出てくる。しかし俺は呆気に取られつつも、忌避感は抱かなかった。この人は自分も視えるのだと言った。俺だって、そちら側の人間だ。
 しかしお祓いを担う人と聞いたら、どうしても袴や袈裟や修験者(しゅげんじゃ)の格好をした人々を想像する。サツキさんはそういったイメージからはかけ離れている。こう言ったら失礼だが、どちらかと言えばならず者と言われた方が信じられる外見だ。

「意外だった? お祓いをしてる人間とは思わなかったでしょ」

 心を読んだみたいに、サツキさんが切れ長の目を細めてにやりと笑う。俺は慌てて話題を変えることにする。
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