「桐原先生は、お化けの噂って知ってます?」

 次に彼女の口を突いたのは、思いもよらない単語だった。
 はたと真顔になり、問い返す。

「お化け……ですか」
「ええ。なんでも、隣の市の廃工場にお化けが出るって、学生のあいだで噂になってるらしいんですよ。遍市内から自転車でもいける距離だから、侵入する子もいるらしくって。うちの学校ではまだいないみたいですけど、時間の問題かなって」
「建物に無断で侵入するのはいけませんね。……それと仮装がどういう繋がりが?」

 先を促すように問うと、水城先生の両手が打ち合わされ、ぱん、と乾いた音が出た。

「それがですね、そのお化けっていうのが、仮装してるみたいに見えるらしいんです。体は人間なんだけど頭が動物って話で。確か、山羊だったかな」
「……山羊」

 彼女の声音は特別に繕ったものではなくて、先生にしてみれば単なる世間話の一環だっただろうが、そのたったひとつの単語で私の頬はすうっと冷えた。自分の精神が、一介の教師であることを辞め、無意識のうちに影の一員へと瞬時に入れ替わる。
 悪友のヴェルナーから聞いた、真夏のある夜の話。私はそれを思い返していた。

「ちょっとこれ読んで」

 盆過ぎの、夏に翳(かげ)りが見え隠れしてきた日。私が職場から戻ると、ソファで寛(くつろ)いでいたヴェルナーが、持っていた紙束をテーブルの上にぱさりと放った。珍しく、その顔にはにやにや笑いはなく、険しく引き締まってさえいた。

「何だねこれは」
「ハンスから上への報告書。の、コピー。俺も今読んだんだが、ちと面倒なことが起きた。頭に入れたら処分してくれ」

 怪訝に思いながらも、その薄い束を手に取る。
 英語を連ねた文面を読んでいくうち、自らの顔も厳しくなっていくのが分かった。そこには、茅ヶ崎の勉強合宿に見張りとして同行したハンス君が、茅ヶ崎を監視する三人の"罪"ペッカートゥムの人間を発見、対峙したのち、捕縛した上で影の情報管理課に引き渡した旨が簡潔に記してあった。
 監視対象者である茅ヶ崎、監視者であるハンス君ともに実害はなし。事が起こったのは一昨日。急ぎ足で書いたにしてはよくまとまった内容だった。
 しかし、注目すべきがその点でないのは明らかだ。

「"罪"の人間が……茅ヶ崎の前に現れたと?」

 静かな憤りをこめて、ヴェルナーを睨む。
 ヴェルナーは私とは目を合わせず、無言で首肯する。

「一体何をしているんだ、影の連中は。予見士からの報告では、襲撃の予測はほぼゼロパーセントだったんだろう。だからこそハンス君だけが僻地まで赴いた、なのになぜ"罪"の奴らが現れる?」

 自然、語調が非難めいたものになる。
 影の執行部の人間は、予見士が所属する、支援部予見課から上がってくる予測情報に基づいて行動を決定する。それに従った結果がこれでは怒りも覚える。
 ハンス君は自己防衛能力には優れているが、茅ヶ崎やその他周囲にいる人を守りつつ、相手を無力化する術は身につけていない。茅ヶ崎は危うく"罪"の人間と鉢合わせし、ややもすれば襲われ、その命を落としていたかもしれないのだ。
 ヴェルナーは肩を竦めた。

「なぜそんな事態が起こったのかは調査中だとよ。悠長な連中だぜ、こっちは人の命がかかってるってのによ」

 ひらひらと手を振りながら言う。まったくだ、と思う。後になって計算違いでした、で済ませられる問題ではない。計算結果と違って、人の命はやり直しなど効かないのに。
 ただ、単なる計算の誤りだと断じるのにも違和感があった。予見士の予測は多分に不確定要素を含むから、それゆえに冗長性が強いパーセントという単位を予測結果に用いている。それがほぼゼロだったということは、某(なにがし)かの根拠があるはずなのだ。それを覆して"罪"の人間が現れるなど、私が知る限り未だかつてない事態だった。

「予見が誤っていた、ということか?」

 信じがたい推論に、奥歯をぎりりと噛み締める。
 ヴェルナーがすい、とこちらに視線をよこす。見慣れた血の色の虹彩。その真ん中の黒々とした瞳孔は、まるで真理を映しているようだった。
- 2/14 -

back


(C)Spur Spiegel


×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -