食事が喉を通らない。
 清々しい朝。そのはずだった。けれど俺の心のなかには、風の吹きすさぶ荒野が広がっているみたいで、爽やかな朝の雰囲気とはかけ離れていた。
 目線の先のテレビに映る情報番組、その押しつけがましい明るさ、滑稽なまでの快活さ、すべてがささくれだった神経を逆撫でしてくる。
 テーブルの上には、母が作った料理が並べられている。いつもどおり色彩にあふれ、見るからに美味しそうだ。それなのに、なぜか食欲が湧かない。口に入れても、食べ物の味がよく分からない。発泡スチロールでも咀嚼しているような食感がして、不快感すら覚える。
 俺の箸がほとんど動いてないことに、母の涼子が気づいたらしい。こちらを心配そうに見やる。

「龍ちゃん……あんまり食べてないけど、お母さんの作った料理、美味しくなかったかしら?」
「……いや」

 その後に続けて、美味しいよ、とはとても言えなかった。
 新聞に目を通していた父の辰太朗も、食後の日課を中断して顔を上げる。30代の顔に不釣り合いな丸眼鏡の奥から、草食動物のように穏やかな眼が覗いていた。

「なんだ龍介、食欲が無いのか? 今は体を作る大切な時期なんだ。ちゃんと食べた方がいいぞ」
「……それは、分かってる」
「お母さんの料理はいつも美味いだろう? 感謝して、食べなきゃいかんな。……涼子さん、いつも美味しいごはんをありがとう」
「まあ辰太朗さんったら……龍ちゃんの前で……」

 父と母が見つめ合う。
 両親はとても仲が良い。二人ともまだ30代な上に外見も若々しいので、新婚夫婦と勘違いされることもしばしばある。
 仲睦まじい夫婦、申し分なく栄養バランスの取れた食事、掃除のゆき届いた部屋、テーブルと窓際に飾られたみずみずしい植物、窓から射し込む淡黄色の光。どこからどう見ても、理想的な家庭の朝の風景だ。
 ただ一つ、息子が俺であるということを除いては。
 いたたまれなくなって、椅子の上に置いていた通学鞄を手に取った。

「……もう出るから」
「あら、そう? お昼はしっかり食べるのよ。じゃあ、行ってらっしゃい」
「行ってらっしゃい、龍介」

 逃げるようにして外に出る。異物、という言葉が、胸の内側でぐるぐると渦巻いていた。

*  *  *  *

 息子が出ていった後の扉が、ガチャ、と音をたてて閉まる。

「……恋患いかしら?」

 涼子は小首を傾げ、のんびりと呟いた。

*  *  *  *

 倦(う)んでいる、と感じる。
 何に? それが分からない。全てに対して、なのかもしれない。
 ここ数日、ずっとだ。気が塞いで、もやもやした正体の掴めない感情が、心の中にしつこく居座っている。振り払おうとしても、それは靴の裏にこびりついたガムよろしく、無視するには大きい存在を主張してくる。自分のことなのに自分ではどうにもできなくて、頭を掻きむしりたくなる。
 数学の授業中、窓の外に目をやった。朝には陽が差していた空はどんよりと淀み、灰色の厚ぼったい雲が、天球全体をぐいぐいと押し下げているみたいに見える。すぐにでも雨が降ってきそうだ。
 6月末の空気は、湿度も温度も高い。不快さが教室に満ち、鼻腔を圧迫する。備え付けのエアコンは、7月にならないと使用許可が下りないらしい。
 前方に顔を戻す。教科書の章末問題を割り振られた生徒たちが、壇上に登って解答を板書しているところだった。書き終えた生徒から順々に席へ戻り、今は一番難しい問題を当てられた一人だけが残っている。チョークは遅々として進まず、明らかに解法が分かっていないことが分かる。
 桐原先生は黒板の脇の椅子に座り、その様子をじっと見ている。真っ直ぐ前に向けられた視線は、苛々するでもなく呆れるでもなく、あくまで淡々としたものだった。むしろ俺の方が苛々していた。どうしてそんな、無理に公式に当て嵌めようとして歪(いびつ)になった数式を、左辺とイコールで結べるのか。俺には数式の悲鳴が聞こえてくるようだった。
 違う、やめて、間違ってるよ、助けて。
 もちろんその声は妄想にすぎないのだが、俺は現実に気分が悪くなってきた。のっそりと立ち上がり、そのまま教室の後ろのドアへ向かう。クラスメイトたちが、はっとして身を固くするのを肌で感じる。桐原先生がちらりとこちらに視線を寄越したが、口は結んだままだった。
 俺も無言のまま、教室から抜け出る。
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