「でもそうだなあ。そんなに君が頑(かたく)ななら、話題を変えようか?」

 ぜひそうしてくれ。肩の力を抜いて若干息を吐(つ)いたのも束の間、千雪がぐんぐん歩み寄ってきて、整った顔がずいと近づけられた。
 正体不明の美少女は脈絡をぶったぎって言う。

「未咲さんのことが好き?」

 なぜ急に、未咲の名前が。自分でもびっくりするくらい動揺した。速見兄妹がこの地へ来てから、未咲とはほとんどまともに話せていない。それでもお見通しということなのか。
 揺さぶられて木の実を落とす樹木のように、本人にさえ伝えたことのない本音が、ほろりと口を突いて出る。

「好き、だと思う。……たぶん」

 そっか、という千雪の短い相槌の言葉尻を、ドアのスライド音が奪う。はっとして振り返る俺の視線と、何も気づかずに入ってこようとする未咲の視線がかち合った。
 一瞬が引き伸ばされて、色々な思いが交錯したかのように感じられた。未咲は教室に俺たち二人しかいないのを見て取ると、焦ったようにくるりと体を反転させる。俺は鞄をひっ掴んでから、じろりと千雪を振り返り見た。もう話は済んだのかと目線で問う。どうぞ、という風に片手が差し出される。
 俺の一連の行動は、おそらく今までの人生で一番素早かった。
 さすが陸上短距離のエースというべきか、未咲は既に廊下のだいぶ先を行っている。辺りに人影はなく、全力疾走しながら思い切り声を張り上げた。

「未咲! 待て、待ってくれ!」

 瞬間、ためらったように先行く体が揺れる。スカートがふわりと広がって、未咲の横顔が覗いた。鞄をかなぐり捨て、無我夢中で彼女に肉薄する。掌が面に当たった痛みで、我に返る。
 未咲が腕の中にいた。突き当たりのドアに背中を預け、至近距離から俺を見上げている。彼女の逃げ道を、俺の両腕が塞ぐ格好になっていた。
 もしかしなくてもこれはいわゆる、壁ドンというやつなのでは。
 人生初の大それた行為に頓着する余裕もなく、ほとんど口に任せるように言葉を継いでいく。

「未咲……今週末、時間をくれ。お前と話がしたい。できれば、お前の家で」

 未咲の唇が二、三度、震えるように動く。か細い声が絞り出される。

「……土曜は、夕方まで部活だから」
「じゃあ、日曜日。お前の家に行く」

 自分の声は自身で驚くほど切羽詰まっていた。実際、一世一代の正念場くらいの心積りだった。頼む。うんと言ってくれ。
 返事を待つ時間が永遠に思われた。気が逸(はや)る。祈りにも似た気持ちが胸に生じる。
 未咲は唖然としていたが、結局は毒気が抜かれたような顔で、こくりと頷いてくれた。


「龍ちゃん、顔色が悪いみたいだけど、大丈夫? 何かあった?」

 母親の気遣わしげな声ではっとする。夕飯を食べている最中に、考え事に耽(ふけ)ってしまっていたらしい。心に浮かんでいたのは未咲の顔であり、速見兄妹の存在であり、その他もやもやしたあれこれであった。
 テーブルの上には栄養のバランスが取れた色とりどりの料理が並んでいる。今夜のメニューは中華で揃えられていた。あまりにも健全で、灰色に塗り潰されたような俺の思考には眩しすぎる。
 茶碗と箸を持ったまま母親と父親の顔を見やる。二人とも、心配を表情に滲ませて俺を見つめていた。何かあった、か。それをここでぶちまけてしまえたらどんなに楽だろう。助けてと言えたらどんなにいいだろう。
 平静を装いながら、ふるふると首を横に振る。

「……いや、別に」
「そう? 何かあったら遠慮なく言ってね」
「龍介、何か困り事があったら相談するんだぞ。お父さんでも、お母さんでもいいから」
「うん……分かってる」

 分かっていても、どうにもならないことだってある。
 そそくさと夕飯を終え、今日の課題に取り組んで、入浴を済ませた。寝支度をしてから寝間着でベッドに横たわり、自室の天井を何ともなしに見上げる。
 そこには幼い頃の俺が貼った、星形の蓄光シールがちりばめられて光を放っていた。
 困り事、か。俺はきっと恵まれているのだろうと思う。優しく穏やかな両親のもとに生まれた人間ばかりじゃないのだから。うまく甘えられたら良かったのにと感じることもある。
 思い返せばあのとき――進路調査票を前に呻いた夜、俺はなぜ両親に相談するという発想に至らなかったのだろう。今の俺なら答えられる。数ヶ月前の俺は、両親にさえ心を開いていなかったのだ。
 俺は人と違っているから。変わっているから。だからそのことで、両親に迷惑や心配をかけてはいけない。そんな観念が芽生えたのはきっと、共感覚のことを口に出してからだ。小学生になりたての頃、周囲に共感覚について知っている人はおらず、幼い語彙ではうまく説明もできなくて、俺は嘘吐き扱いされた。その話を担任教師から聞かされたときの、両親の困惑した顔は、未だに記憶に深く刻まれている。
 俺は子供ながらに悟った。ああ、余計なことを言って、親を困らせてはいけないのだ、と。
 今ならそんな考えは鼻で笑ってしまえる。親に迷惑をかけなくては子は生きていけない。それに、太田をはじめとしたクラスメイトとの付き合いで、他人は意外とどんな話でも受け止めてくれるのだ、と今の俺は知っている。二人目の父親のような存在の桐原先生だっている。
 けれど――悩みが誰にも相談できないのなら、どうすればいいのだろう?
 遠くから眠気がやってくる気配がする。毛布を引っ張り上げて、鼻のあたりまで埋(うず)めた。相談できない悩みなら、答えはひとつだ。
 全部一人で解決するほかにない。

* * * *

 手の中の携帯端末が、ツー、ツー、と通話終了を無情に告げる。
 無意識に腕が脱力し、重りのようにだらりと下がった。部屋のソファに身を預けているヴェルナーを力なく振り返り見る。血色の双眸が、挑むような色を帯びてこちらを見返していた。


 最悪の事態が起こる前に、予兆があったらどんなにいいだろう。
 ほとんどの場合、事態の急変は突然訪れる。人の都合などお構いなしに。その日の一本の電話は、まさに晴天の霹靂だった。
 木曜日の夜、午後十時。夕飯後の後片付けを終えて一息つく、一日の終わり。退院後の日常もやっとリズムを取り戻してきた。数学の専門誌を流し読む私の背後、ドアの向こうでヴェルナーが通話をしているのが切れ切れに聞こえる。
 何か、ただならぬ気配を感じた。最初は軽薄な調子で応対していた彼の声が、次第に低く真剣味を帯びてくるのが伝わってくる。通話を終えてリビングに戻ってきたヴェルナーはひやりとするほど深刻な顔で、今まで見た彼のうち、一番冷酷な表情を貼りつけていた。
 事態が動いている。きっと悪い方向に。

「どうかしたか?」
「……ああ。いや……、じきにお前にも連絡が来る。そうすりゃ分かるさ」

 不穏な気配。いつになく言葉少ななヴェルナーがソファの対面に座る。
 間を置かず、組織から貸し出されている携帯端末が振動した。聞きたくない。耳を塞ぎたい。拒む気持ちを押し込め、通話のマークをスライドさせる。
 私はたぶん、聞き間違えたのだろうと思った。自分の聞き違いだと思いこみたかったのかもしれない。スピーカーから流れてくる組織のメンバーの声は平坦で、淡々としていて、そんな重大な指令を口にしているとは信じられなかった。時間が静止したような感覚に陥り、できることなら永遠に時間が止まればいいのにと願った。私は喘鳴(ぜんめい)に近い己の呼吸音を感じた。肋骨を内から激しく叩く拍動が、速まっていくのを感じた。
 通話相手はこう告げていた。
 茅ヶ崎龍介を暗殺せよ、と。


 相手の言い分を要約するとこうだ。
 茅ヶ崎龍介は今や、影にとって非常に危険な人物となりつつある。現にルカとの接触の際には、人的被害は無かったものの民間人が大勢巻き込まれた。今後ルカクラスの"罪"メンバーが、再び彼に接触を図る可能性も否定できない。影側の危険因子となった以上、組織としては看過することは得策ではないとの結論を得た。
 期限は二日後。日本時間で土曜日の二三時五九分。手段は定めない。可能な限り茅ヶ崎龍介以外の民間人を巻き込まないこと。
 それが影からの命令だった。抗議する暇(いとま)もなく通話は一方的に切られ、直後は激しい脱力感に襲われた。一転、次第に胃の腑からふつふつと、全身の血が沸騰するかのような怒りが湧き上がる。

「こんな……こんな、馬鹿げた話があるか!」

 居ても立ってもいられず、リビングを歩き回りながら怒気をぶちまける。そんな私をソファに凭(もた)れたままで見る、ヴェルナーの目は冷ややかだ。
 腹が立つ。茅ヶ崎に目をかけておきながら、平然と無情な決定ができる上層部にも。そんな理不尽な指令を受けておいて、冷静でいられるヴェルナーにも。
 私の非難の声は止まらない。

「大体、ルカの接触を予見できなかった理由も上層部の落ち度だし、彼の言った蕾やら歓迎するといった言葉の意味だって、まだ分かっていないんだぞ! なのに、それを棚に上げて――」
「だからだろ」

 ヴェルナーはにべもなく、ぴしゃりと言い放つ。
 優雅に脚を組み替えて、まるで読んでいた本の内容に言及するかのように、他人事めいた調子で言う。

「坊っちゃん絡みで色んなことが起こって、組織の人間も考えるのが面倒になったのかもな。難しい問題が書かれた紙があったとして、馬鹿正直に頭を悩ましてやる義理なんざねえんだ。その紙を綺麗さっぱり燃やしちまえば、問題を解決できなくとも、問題を考える必要はなくなる。簡単な話さ」
「茅ヶ崎は一般人だぞ……私たちとは訳が違う。こちらの事情に巻き込むなんて、非人道的だろう」
「何言ってる? 坊っちゃんは元々、当事者だろ」

 ヴェルナーの冷然とした態度を前に、ある想像に至って私は不意にぞっとした。背中に冷水をぶち撒けられたように、総身がぶるりと震える。

「ヴェル、まさかとは思うが……影の指令に、従うつもりなのか?」
「まさか、って何? 命令されたらやる。それが俺の仕事だよ。そのためにここにいる」

 ヴェルナーは流れる水みたいにさらりと答えた。それが当然で、まるで常識だとでも言うようのうに。目の前にいるはずの赤毛の男との距離が、急速に開いていく心地がした。
 くずおれそうになる膝を叱り、気を奮い立たせ、精神的に離れた距離を跳び越えてヴェルナーに詰め寄る。いつかの喧嘩の再現のように、相手の胸ぐらを激しく掴み上げていた。

「貴様……正気か」
「正気も正気、大真面目だよ」

 ヴェルナーは小さく肩を竦め、検分するようにこちらをじっと見返す。まるで顕微鏡のレンズだ、と思う。こちらを試す、無機的な冷たい光。しかし私にだって譲れないものはある。

「茅ヶ崎に手出しするのなら、私が許さない」
「威勢がいいな、錦くん。さて、ここで俺を殺してみるかい?」
「……それは……」
「いいぜ、やるときゃあんまり苦しまないようにしてくれよ。でもな、俺が死んだって何の解決にもなりゃしないことくらい、お前は分かってるだろ。お前こそ、反逆者になるつもりなのか?」

「反逆者だと?」私の心は急激に冷えてきていた。ヴェルナーへの冷たく理性的な敵意がむくむくと膨らんでくる。こいつに反対するということはつまり、組織全体に反旗を翻(ひるがえ)すということだ。それが意味する恐ろしさは、茅ヶ崎を裏切る恐ろしさよりは遥かに小さい。

「ヴェルナー。私は影に戻るときに言ったはずだ。組織のエージェントとしての立場より、教師としての立場を優先すると。その時が来たというだけだ。私には組織の命令より、先立せるものがある」
「そうかよ。だったら今から、俺とお前は敵同士だ」

 ヴェルナーは犬歯を剥き出しにして笑った。それは笑みというより、野生の獣がする威嚇そのものだった。私は勢いよく突き放され、緊迫した空気が互いのあいだに漂う。

「お前ができないなら俺がやってやるよ。お前は坊っちゃんに入れ込みすぎた。お前は何もかも、聞かなかったふりをしてりゃいい。知らなかったふりで自分さえ騙しゃいいのさ。そしたらこれから先も、俺だけに憎しみを持って生きていける。簡単だろ?」
「待て、ヴェルナー。私の話を聞け。組織の言いなりになって人の道を踏み外すつもりか?」

 私の言い終わりを待たず、相手は火が着いたみたいにけらけらと笑いだした。箍(たが)が外れたような壮絶な笑い方だ。

「こんなときに慣れないジョークかい、錦くん。聞いてどうなるよ? お前と交わすべき言葉なんてもう何もない。挑発したって無駄だぜ。こちとら人の道なんてとっくに踏み外してんだよ、お前だってそうだろうが」
「……」
「なあ、余計な気は回すなよ? 俺だってお前を殺したいわけじゃない。水城ちゃんを悲しませたくはねえからな」

 ヴェルナーの固めた意思の頑なさに、無意識に拳を握りしめていた。目の前の男はソファから立ち上がり、まるで「分かってるだろ?」とでも言うように、こちらの肩をとんとんと叩く。シャワー借りるから、と背中越しに伝えてくる男の後ろ姿を、私はなす術もなく見送っていた。
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