早く大人になる方法を知りたかった。
 今の自分はあまりに無力だから。


 自分の武器――イコール、己にできること――さえ見つければ、思い悩まずに大人になれる、いつからかそんな気がしていた。俺にとって武器探しとは、いつしか大人への通過儀礼(イニシエーション)の意味合いを持つものになっていたのだ。
 進路調査票を前に唸った夜、そのもっとずっと前から、大人数の授業もまともに受けられない俺は、人と上手く付き合えない俺は、他人と違っている世界を見ている俺は、きっと武器を探してもがいていた。
 自分の中に何かしらあるはずなんて、楽観的にはなれなかった。何かあってほしいと、渇望するように求めていた。迫り来る未来の不安に呑みこまれ、溺れてしまいそうだったから。
 宿命ではなく、使命でもないもの。誰かから与えられるものじゃなく、自分で探して掴み取るもの。
 宿命や使命を薙ぎ払える、俺の武器とは、何だ。
 そこへ投げこまれた千雪の「特別な人間」という言葉は救命用の浮き輪にも似て、武器探しの手がかりに思えた。だから俺はその言葉の意味を、自分に置き換えて考えている。
 俺は彼女ほど超常的な力があるわけじゃない。けれど数学に関しては、ささやかな才能を持っていると言えるのではないか。それが未来という名の、巨大な怪物に向き合うための武器になるのではないか。
 それは暗黒の深海でもがき続けた末に見つけた、一筋の光のように俺の目には映った。


 千雪の不可思議な転入騒動から一週間が経過した。
 一人増えたクラス――厳密には二人なのだが、それを知っているのは俺だけだ――も、それだけ経てば違和感はやわらぐ。千雪は女子の中でも華やかなグループで大半の時間を過ごし、気まぐれのように別のグループに身を置いていた。時には男子の集団に一人で突撃したりもするのだから、すごい度胸ではある。もしかしたらその時は双子の片割れ――千尋の人格になっている可能性もあるが、俺はなるべく彼女/彼に関わらないように過ごしていたのでよくは知らない。確かなことは、学校生活で千雪たちの視線をいちいち意識せねばならなくなったという点だ。
 俺は今までにないストレスを感じていた。なにせ、頼みの綱である桐原先生にも相談ができないのだから。
 好きでもないのに、むしろ嫌いな方なのに、その人間ばかりに思考を割かねばならないのは辛いものがある。憂鬱な気分で教室の移動中に職員室の前を通りかかると、真っ先に耳が反応した。忌々しい彼女の声だ。見ると、職員室の出入口付近で、千雪が他の誰でもない桐原先生に話しかけているではないか。周りに他の生徒はいない。得体の知れない転入生は何か、桐原先生相手にも企んでいることがあるのでは? 背筋がひやりとし、胸の内に焦燥感が渦巻く。

「っ、速見!」

 焦って発した声は不必要に大きく、桐原先生と千雪の顔が揃ってこちらを向く。茅ヶ崎? と少し驚いた表情の先生に対し、ファッション誌のモデルのようにほほえんだ千雪は少しも表情を崩さない。

「どうしたんだ、そんな大きい声を出して」
「いや……別に。速見、行くぞ。次の授業まで時間ないんだから」
「はーい」

 強引に話を切ったのに眉ひとつ動かさず、千雪は素直に踵を返す。意味深な含み笑いを、俺は見なかったことにした。「もうそんな時間だったか?」と後ろで不思議そうに腕に目をやる先生にも、気づかないふりをする。千雪は意気揚々と俺の隣を歩き始めた。

「茅ヶ崎くん、わざわざ迎えに来てくれたの? 優しいんだね」
「違うに決まってんだろ。絡んでくんなよ」
「どうして? 話しかけてきたのは茅ヶ崎くんなのに」
「分かってるくせに。俺がお前相手に何も……」
「楽しそうだね、二人とも」

 刺々しい言葉を投げ返していると、まったく楽しそうじゃない声が俺たちを追い抜いていく。冷たい視線を横目で送ってきたのは誰あろう、幼なじみの未咲だった。ぐっと喉の奥が詰まる。
 彼女だけでなく、クラスメイトはどうも俺と千雪の仲を誤解している節があり、真(まこと)しやかな噂さえ囁かれていた。曰く、千雪は昔遠くに転校していった俺の同級生で、偶然の再会を果たした二人は急接近し、付き合っているとかいないとか、云々。そんな一ミリも正確でない噂は発生源が千雪の可能性もあり、俺は見えないところで頭を抱えていた。ここ二、三日はしくしくと胃が痛み始めてすらいる。
 速見千雪。そして影だけの存在、速見千尋。
 初対面のはずの俺に、一体何の恨みがある? 彼らの立場と目的が分からない以上、俺にはどうするこたもできなかった。


 針の筵(むしろ)のような学校生活は過ぎるのが遅い。やっと昼休み後の掃除の時間を終え、クラスに戻ろうとすると、放課後教室に残るように千雪から言われていたことを思い出し、一気に気分が塞ぎこむ。一体何の用なのか。無視して帰ってしまいたいが、報復が怖すぎる。
 どんよりしながら歩いていると、聞き覚えのある声に呼び止められた。

「茅ヶ崎くん」

 そちらを見ると、生徒会長――先日未咲が推薦した同級生がめでたく会長に就任したので元・生徒会長か――の九条悟が正面から歩いてきているのだった。
 九条は前髪をワックスか何かで上げていて、ネクタイをわずかに緩め、片手をポケットに無造作に突っこんでいた。初めて見る姿だ。別人に見間違えはしないが、雰囲気が以前とまるで変わっている。

「どうも……先輩、なんか雰囲気変わりましたね」
「あはは、よく言われる」

 直截的すぎる俺の物言いにも、九条は屈託なく笑う。どこか吹っ切れたような、快活な笑い方だった。

「もう生徒会長じゃなくなったからね。制服も、正直言うと少し窮屈だったんだ。ちゃんと仕事はまっとうしたんだし、少し着崩してたって、今さら文句言われる筋合いはないだろ?」

 さばけた口調で冗談めかし、肩を竦める。元・生徒会長はそのまま廊下の壁に半身を預けて寄りかかった。ラフで男前な仕草にはわざとらしさはまったくなく、それが彼の自然体なのだろうと思わせた。

「茅ヶ崎くんは、最近どう?」

 どう、と言われても。まさか超絶甘党の同級生の女子に超常的な力で脅されてて怖くて困ってます、とは口が裂けても言えない。

「まあ、ぼちぼちです」
「そっか。何か困ったことがあったら言ってよ。俺にできることは何でもやるから」

 そういえば連絡先交換してなかったよね、と促され、なぜか日向(ひなた)成分満載の先輩と日陰者の俺が携帯電話を突き合わせることになった。今の悩みは誰にも相談できないが、気持ちはもちろんありがたい。ただ、九条がなぜ俺をそこまで気にかけるのかは謎だ。まだバスケ部に勧誘することを諦めていないのだろうか。
 九条が目元を緩めて俺を見る。

「俺さ、茅ヶ崎くんと篠村さんにはすごく感謝してるんだ。友達に肩の力抜けって言われて、その言葉を受け入れられたのは二人のおかげだし。自分の素を出してたら何割かの人には嫌われるかもしれないけど、それでもいいかって今は思ってる。息するのが楽になったよ。変わるきっかけをくれてありがとう」

 九条はとびきり優しく微笑して、その眩しさに目がやられそうになった。本人は嫌われるかもと言うが、優等生然としていた時よりもモテそうな気がした。気取らない彼は男ぶりが上がっており、同性の自分が唸るほど魅力的に見える。それはさておき、なぜ今の文脈で俺と未咲の名前が出てくるのか咄嗟には思い及ばず、曖昧に頷いておく。その疑問も、

「おいおい九条、俺たち友達じゃないだろ。親友だろ〜?」

 死角から出現した人影によって途端に四散した。
 突然現れた爬虫類似の影は先輩にぺたりと張りつき、そう主張しながらにやにやと笑う。影もとい爬虫類もとい男子生徒はたぶん会ったことがなく、ネクタイの色から察するに九条と同じ二年生だ。バスケ部副キャプテンの元生徒会長よりなお身長が高く、親の敵のように髪の毛先をぴんぴん逆立てている。

「なんだよ、ジン。聞いてたのか」
「そんなにモテなくたっていいだろ、元生徒会長さん? どうせ全員と付き合えるわけじゃねーんだからさ」

 そういうのやめろよ、と笑いながら九条が爬虫類男を振り解く。
 闖入者に俺は目を白黒させていたが、不意にジンと呼ばれた彼の細い目がぎろりとこちらを捉えた。

「で、誰?」
「ほら、篠村さんの……」

 九条が囁くと他称ジンはああ、と訳知り顔で得心する。それから何秒か、じろじろ見られた。とても決まり悪い。そして。

「ふーん。頼りなさそう」
「おい、失礼だろ。初対面なのに」

 初対面じゃなくても面と向かって頼りなさそうはどうかと思うが、実際言葉どおりなので口をつぐむしかない。
 九条はばつが悪そうな顔で微笑した。

「ごめんな、茅ヶ崎くん、邪魔しちゃって。それじゃ、一言お礼を言いたかっただけだから」
「あ、はい。あの、お礼って――」

 何のですか、と訊く前に、ジンとやらが先輩の肩を抱き、くるりと方向転換させてしまう。

「九条ー、今日は早めに部活終わらせるぞお。楽しい楽しい合コンが俺たちを待っている」
「おおっぴらに職権濫用するなよ。それに合コンって……ファミレスでメシ食うだけだろ」
「男女同数で食事したらどこでだって合コンになんだよ」

 会話は丸聞こえで、そうなのかなあ? と苦笑する九条は困りながらも楽しそうだった。彼はメシ食う、なんて言い方をするのか。新鮮で、なおかつ輝いて見えた。俺があんな風に心底から笑ったのはいつが最後だったろう。
 俺に感謝の言葉を伝えてきた先輩が、今は無性に羨ましく思われた。


 放課後。俺と千雪のほかに誰もいなくなった教室に、晩秋の寂しげな夕陽が入りこむ。
 俺は言われたとおり、クラスに残って自分の席に座っていた。何もかもがオレンジがかった教室を、長い髪をゆらめかせてゆっくりと歩き回る千雪はどこか人外めいている。逢魔が時とはよく言ったものだ。

「能力がある人間は、それを生かすべきである。この命題は真か、偽か」
「無理に命題とか言わなくていいんだよ」

 不機嫌を隠さずに言い返す。ぐるぐると俺の周囲を回り続ける千雪に既に辟易し始めていたのだ。放課後残れと言われて何の用かと思えば、先日の喫茶店を彷彿とさせるご高説が始まった。そんなのいいから、早く帰って気を休めたい。おそらく家でも千尋の監視下なのだろうが、実際に千雪と顔を合わせているよりは百倍マシだ。

「ノリが悪いなあ、茅ヶ崎くんは。……私は最大限に生かしてるよ。人のために、自分の能力を」

 歌うような言い分は、彼女の背後に何者かの存在を匂わせていた。千雪はきっと、何者かの指示に従って俺と接触している。それは間違いない。だからといって、何か対策ができるわけでもない。
 千雪の遊歩は続く。

「一方で茅ヶ崎くんはどう? 能力はあるのに、それを全然生かしていない。生かそうともしていない。それって損失なんじゃないかな」
「は……? 損失?」
「そう、損失。君にとっても、世界にとっても」
「世界って……スケールがでかすぎるだろ」

 話が胡乱(うろん)な方向に転がっている気配がした。顔をしかめる俺を一顧だにせず、千雪の弁舌はいや増して滑らかになる。

「そんなことないよ。所詮人間世界や社会なんて、個人がより集まってでき上がってるものでしょう。個人が能力を発揮しただけで、世界全体の潮流や趨勢が変わっても全然不思議じゃない。バタフライ・エフェクトの例えもある」
「……荒唐無稽だ」
「そうかな? 一人の人間が世界を変えることは歴史上、往々にしてあった。アインシュタインが存在したこの世界と、彼が存在しなかった世界はまるきり様相が違うはず。アインシュタインをエジソンや、ベートーヴェンと言い換えてもいい。もしかしたら君だって、それくらいのポテンシャルを秘めているかも」
「適当なことを言うな」
「どうして? 分からないじゃない。君の能力の全貌が見えない限り、どんな可能性だって存在する。磨く努力をしなければ、茅ヶ崎くんはいつまでも原石のままだと思うけどね」
「……結局、何が言いたいんだよ? 意見を言うなら結論から言え」
「結論もなにも、私は茅ヶ崎くんと楽しいお喋りがしたいだけだよ。世間話に結論なんてないでしょう? そんなに喧嘩腰にならなくたって、取って食べたりしないって」

 千雪は悪戯っぽくほほえむが、これが世間話のはずがなかった。まるで掌からぬるぬると抜け出る鰻を相手にするようだ。真意を聞き出そうと追いこんだつもりでも、するりと器用にかわされてしまう。こいつと会話するときに、ペースに飲まれずにいられた試しがない。
 千雪は不意に立ち止まって、こくりと可憐に小首を傾げる。
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